12 口付け

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12 口付け

 自分の家だというのに男の私室になってからこの部屋に入ったのは初めてだった。すでに彼の香りがする。  狭く古い家だ。かつてアイユーブが暮らしていた神殿で与えられた部屋ですら、この家の二階部分がすべて入るほどだっただろう。  ダウワースの部屋には彼の身体に合わせた大きな寝台がある。彼の家のお抱えの職人が中で組み立ててくれたものだ。だから入るとほぼ、寝台で埋まっていると言って過言ではない。 (寝台に座るのもなにかな)  あの告白の直後にのこのこ男の部屋に入ったことに今更ながら戸惑っていると、後ろからダウワースに抱きすくめられた。  またひうっと言いそうになったのはダウワースが首筋に唇を押し当ててきたからだ。  そのまま背中のリボンを解かれ、ふっと胸の辺りの締め付けが緩む。どんどん服を脱がされている感覚に慄くと、低い声で囁かれる。 「女ものの服、ずっと着ていたいんですか?」  ふるふると首を振ると足元にさっと服が落ちた。何たる早業だろう、手慣れていると僅かに苛つき半分呆れていると、頭から服を被らせられる。  腕を通してみたらそれがダウワースの白いシャツだと分かった。 「座りましょうか?」  促されたので寝台に並んで腰かける。朝と同じなのに、なんと状況が違うのだろう。自分のなまっちろい膝とその先にある右足の醜い傷もいやおうなしに目に入る。どうせならズボンも貸して欲しかったが、これ以上服を着せるつもりはないようだ。  また治療のための口づけを強請るよう顔を近づけると今度はダウワースの方から迎えに来られて唇を柔やわとはまれた。しかし宥めるような甘い口づけが繰り返されるばかりで、彼は蜜をアイユーブに授けてはくれない。焦れてダウワースの硬い二の腕に爪を立てると、ダウワースは仔猫の悪戯を咎めるように微笑み、欲望を隠すことのない暗い瞳で覗きこんできた。 「どうしよう、アイユーブ。このまま返事なんて聞かずに、貴方を俺のものにしてしまいたい」  満月に照らされたアイユーブの横顔が明らかに狼狽え、細い肩が震えていることにダウワースは気づいていた。 「口を開けてください」  再び優しく穏やかに口づけられて、アイユーブはほっとしたのと同時にいっそこのまま何も聞かれずダウワースにその身を預けてしまえた方がどんなに良かっただろうと思った。  これからさせられる告白を聞いてもダウワースは自分のことを果たして愛してくれるだろうか。かつて与えられた愛から逃げ出した卑怯な自分を。  こくん、と飲み干す蜜が喉の奥に落ちていった後。  中々話しをしないアイユーブの細腰をダウワースは両手で抱えてそっと寝台の上に降ろしていった。 「その前に右足を見せてください。さっきふらついていたでしょう?」  こんな時でもダウワースはアイユーブの身体を一番に案じてくれている。  言われるがまま、寝台に寝転び、昔よりさらに細くなった足を伸ばして男の方に差し出した。中々それを手に取らぬ男に不思議そうな顔をして、小さな指先を伸ばし揺ら揺らと揺らして小首をかしげる。傍目から見たらその艶めかしい姿で男を誘惑しているようにすら見え、ダウワースは己の欲が膨れ上がりそうになることを一度ぎゅっと目を閉じ制した。無垢な己の師は月光の下では玻璃のように無機質な瞳でじっとダウワースの様子をうかがっている。 「触りますよ」  触れると僅かにびくっと震える。普段は見ない反応だ。大き目のシャツから覗く白い脚は滑らかで艶めかしくまるで人形のそれのようだ。しかし膝から下に今なお残る傷あとは皮膚が引きつれている部分もあり痛々しい。勿論あの時肉が垂れ下がり、ザクロのように砕けたアイユーブの脚が、ここまで回復しているのは治癒師が全力で治療に当たったおかげだろう。  騎士としての役目は困難だとしても、日常生活には問題ない程回復しているし、ここまでが普通ならば治療の限界だったと思う。  硬くこわばった冷たい足にダウワースは治癒の魔力を流していく。そして同時に考える。  神子様は奇跡の技をお持ちだという。一代前の王が目を患った時もその力で回復させたし、今の王が幼い頃落馬する大事故を起こし、身体の首から下が動かなくなった時も、神子様が奇跡を起こしたと伝えられている。  その神子様の最も身近にいたアイユーブ。慈愛に溢れた存在である神子様が己と近しい存在の騎士であった彼を、完全に癒しきれなかったことにはどんな意味があるのだろうか。 「ダウワース、もう大丈夫だから。お前も横においで」  そういうとダウワースの方に手を伸ばし、窓側の空いている部分に彼を招いた。  ダウワースは師の小さな頭の下に腕を入れ、腕の中に抱えて横になる。  そのまま優しく髪を梳いていたら、ふっと強張りが取れてアイユーブはダウワースに背を預けた。貴方を食らうかもしれぬ男の前で、無防備過ぎますよといつもの調子で叱ってもみたかったが、本来は弟子である自分をこうして信頼しきって甘えてくれるのは悪い気はしなかった。 「どこから話せばいいのか」  沈黙の間はお互いの静かな呼吸と風の音だけが聞こえる。
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