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「ショシンにかえって、オニごっこやろうぜ」
同じクラスの松原陽太がいきなりそんなことを言うので、祥吾はびっくりしてしまった、
六月最初の週。運動会も終わって、「じゃあ今度はドッジボール大会の練習でもするか」と、だれが言うでもなく公園にボールを持ち寄り、”カタキ”をやって遊び、2組の依田健二が3戦連続で一人勝ちして、なんとなく場がしらけてきていた頃である。
”カタキ”というのは、ドッジボールのバトルロワイヤル版みたいなもので、自分以外の全員が敵で、他の人を全員をアウトにしたら勝ちなのだが、途中で自分がアウトになると、それまでに自分がアウトにした人が復活してしまう。だから延々と復活合戦を繰り返して、なかなか勝負がつかない。それなのに健二は、ボールを取るのも投げるのも、べらぼうにうまくて、あっさりと他の5人をアウトにしてしまったのだ。健二がどれくらいうまいかというと、5・6年生でも健二の投げるボールは、よけれなかったり、キャッチできなかったりすることがたくさんあるくらいうまいのだ。
祥吾は、そんな健二の投げるボールを、2回に1回くらいは取ることができることが自慢だった。今日の3戦でも、合わせて4回キャッチすることに成功して、そのたびに「おおっ!」と、どよめきが起こるものだから、ますます得意になっており、ホンネを言えば「オニごっこなんかよりカタキをやっていたい」のであった。
とはいえ、陽太にはハツゲンリョクがあったから、祥吾は自分の意見は通らないだろうと思っていた。陽太はすごく頭がイイうえに、4年生になって、初めて学級代表というものを決めた時に、満場一致で陽太が選ばれたものだから、陽太は4年1組の総理大臣みたいなものだった。
そんな陽太が、「ショシンにかえって」なんてムツカシイ言葉を使うものだから、その意見はものすごい説得力をもつのだ。
案の定、「やってみようぜ」と公園の芝生の上に散っていた子供たちが陽太の周りに集まってきて、健二までもが賛成するものだから、やはり祥吾が意見を差し挟む余地はないのだった。
「まあ、いいけど」と、いかにも気の乗らなそうな口ぶりで、祥吾はオニ決めの”出さなきゃ負けよじゃんけん”に参加した。祥吾はじゃんけんの輪の中にグーを突っ込んだまま、「そういえば大富豪の時も、『ショシンにかえって、革命だけのルールにしようぜ』とか言ってたっけなぁ」と、シンプルなルールに変えられてしまったトランプゲームを思い出して、「やっぱり8切りとか11バックとかあった方が楽しいと思うんだけどなぁ……」と、誰に漏らすでもない不満を胸の内で吐き出した。
6人でのじゃんけんは8回目で、グーが4人、チョキが2人となり、決着がついた。決勝戦(というよりはドベ決定戦)に残ったのは、陽太と、1組の高橋宏人だった。
祥吾は宏人に勝って欲しいと思った。というのも、今、一緒に遊んでいる中で、一番足が遅いのが宏人だったからだ。多分、宏人が最初のオニになると、そのままずっとオニは変わらないだろう。そうなっては、「まるでいじめになってしまう!」と祥吾は思った。いじめというのは、とてもとても悪いことだ。というのは、大人たちが口をそろえて言うことなので、「絶対にやらないようにしよう」と、祥吾は思っていた。
祥吾の祈りが通じたのか、じゃんけんで負けて最初のオニになったのは、言い出しっぺの陽太だった。
「マジかよ……」
と、決まり手のパーを眺めて呆然としている陽太を尻目に、祥吾たちはめいめいに公園内に散っていく。
この公園は、コンクリートの舗道によって二つの広場に分かれており、それぞれの広場には、名前がわからない草が生えて芝生ができている。
一つ目の広場の中央には複合型の遊具があり、祥吾たちは、”うんてい”でどこまで行けるか競争したり、”高オニ”をやったりするときに、そちらの広場で遊ぶ。
もう一つの広場は前方後円墳のような形をしており、四角い方の辺に、東屋が一つ建っている以外は何もない。祥吾たちがボール遊びをするときにはこちらの広場を使う。今回オニごっこの戦場となったのもこちらの広場だ。また、「芝生から出たら反則」という暗黙のルールがあり、これを破って舗道に出ると、アウトになったり、オニになったり、ペナルティが課されるのだ。
祥吾は広場の端にある、東屋の裏から広場の様子を窺った。
宏人と、1組の細川和樹はオニの陽太から距離を取って、それぞれ広場の両端でうろうろしているが、健二と、1組の杉浦淳は、陽太から10歩ほどの距離で、「オニさーんこちら!」と、手を叩きながらぐるぐる回っている。
陽太は几帳面に十まで数え終わると、正面で煽ってきていた淳に向かって走り出した。淳は後ろを振り向いて逃げる。なかなか捕まらない。
陽太は途中で淳を追うのを諦めて、後ろで手を叩きながら囃し立ててきていた健二に狙いを定めて走り出した。健二もまた逃げ出し、捕まえることができない。
陽太は何回か淳と健二を交互に追いかけたが、彼らの方が足が速いので全然手が届く気配はない。「そろそろ諦めて他の人を狙うかな」と、東屋の陰から盗み見ていた祥吾が予想した時、びっくりすることが起きた。
健二を全力で追いかけていた陽太が、いきなり後ろを振り返って走り出した。ものすごい方向転換に、靴が草の上を滑ったが、陽太は何とかこらえて、そのまま後ろにいた淳に向かって突進した。突然のことに後ろで囃し立てていた淳は全然反応できていなくて、しかも後ろが広場の端に近かったものだから、慌てて陽太の横をすり抜けようと走ったが、斜めに詰めてきていた陽太の指先が淳の左腕を掠めた。
「だっせ~、陽太につかまってやんの~」
陽太の後ろを付いてきていた健二が淳を煽った。陽太は淳を捕まえられたのがよほどうれしかったのか、ピョンピョンとスキップのような足取りで二人から離れていった。
その光景を見て、祥吾はびっくりして、段々と興奮してきた。
淳と健二は今年の運動会のリレーで、それぞれ1組と2組のアンカーだった。特に、淳は区のマラソン大会で新記録を叩きだしたとかで、それが朝の会で先生からわざわざみんなの前でヒョウショウされるくらいだから、とにかくものすごく走るのが速いのだ。その淳をオニごっこで捕まえたというのはそれはもう、ものすごいことなのだ。
陽太に捕まえられた淳はしきりに「マジかマジか」と悔しがり、高速で手を叩いて十を数えながら、近くで煽っていた健二を、ものすごい勢いで追いかけ始めた。健二も全力で逃げだした。ガチンコの競争となった。
健二は淳よりは10センチも身長が低い(というよりも淳の背が高い。クラスで並ぶときは一番後ろだ)が、足の回転が速い。まるで滑車を回すハムスターみたいな動きだ。
一方で、後ろを追いかける淳は一歩が大きくて、テレビで見る世界陸上の選手みたいなかっこいい走り方をする。
それは、つい2週間前にあった、リレーのアンカー対決の再現だった。広場では、陽太も和樹も宏人も、自分が追われているわけでもないのに、躍起になってオニから距離を取ろうと走り回っている。
東屋の陰に隠れていた祥吾は、ヒトゴトのように応援したくなったが、ハイレベルな追いかけっこが、隠れている東屋の方に向かってきたので、それどころではなくなった。
祥吾は立ち上がって、膝についていた草を払う間もなく、東屋の中に駆け込んだ。東屋の中は吹き抜けになっており、芝生の広場と通じる道はT字に、3本ある。
東屋の内と外とをぐるぐる回れば、足の速さをごまかせる。それに、東屋の中は狭いので、逃げてくる健二は祥吾を追い越すことができない。つまり、健二がオニから逃げるためのタテになってくれる。それが、最初に東屋に陣取った時に、祥吾がなんとなく考えていた作戦であった。
祥吾の作戦は部分的には当たり、また、部分的には外れた。
健二は、淳から逃げるのに東屋の裏をまわったので、東屋の中には入ってこなかった。淳も健二を追いかけて、東屋の裏をまわったが、捕まえきれないと思ったのか、それとも捕まえるのがめんどくさくなったのか、広場の真ん中に逃げた健二を無視して、東屋の中にいた祥吾を捕まえに来た。
「やべっ!」と言って、祥吾は淳が入ってきた方とは反対側から東屋を出て、裏をまわり、また東屋に入り、……を繰り返して逃げた。
淳から逃げているうちに祥吾は、淳が段々と背後に迫ってくるのを感じた。焦った祥吾は、イチかバチか東屋から広場の真ん中の方に行く道から飛び出した。10歩も行かないうちに、背中を「バシッ!」と叩かれた。淳がニヤニヤ笑いながら、祥吾の横を追い抜いていった。
祥吾は悔しさを感じていた。足の速さを考えれば、淳に捕まるのは当たり前なのだが、それでも悔しかった。淳に捕まったことではなく、オニになってしまったことが悔しかった。
祥吾の周りでは、健二と淳に加えて、陽太も「オニさーんこちら」と手を叩いて煽っていた。祥吾はイラッとした。早く誰かにオニをなすり付けたいと思った。周りを見れば、宏人は相変わらず、追いかける気が失せるほどの距離を取っていたが、和樹の方は心なしか近くにいるような気がした。
今年の運動会の徒競走では祥吾と和樹は同じ走順で、和樹が2位、祥吾が3位だった。1位は淳だったのでどうしようもないが、和樹との差はほんのちょっとだった。練習の時も毎回、和樹にはほんのちょっとの差で負けていた。走るスピードは全く同じくらいなのだが、スタートダッシュを失敗したり、途中で疲れを感じたりすると、そこで付いた差が絶対に縮められないのだ。
ついでに言えば、和樹は野球をやっていて坊主頭なのだが、顔がシュッとしていて、爽やかな感じがする。それがなんとなく格好良くて、祥吾は和樹が「絶対に勝てない‼」というバリアのようなものを持っているんじゃないか、という気がしていた。
祥吾は十を数えながら、「絶対に和樹を捕まえてやる」と心に決めた。
祥吾は数え終わると、手を叩いて煽ってきていた健二を追いかけた。和樹のいる方に健二がいたからだ。健二は笑いながら祥吾から逃げ、時々いやらしくチラチラと顔だけで振り向いてくる。
祥吾としては、健二の行動に腹が立つ、というよりはむしろ、自分の作戦に健二がまんまとハマっているように思えて、愉快なくらいだった。
祥吾が健二を追いかけるのに合わせて、和樹も動いた。だが、様子を窺いながら動いている和樹との距離は大分縮まっていた。
芝生の端まで逃げた健二が、右の、東屋がある方に逃げた。左にいる和樹との距離はまだ10歩以上ある。とはいえ、狙いは和樹だったので祥吾はそこで足を左へ向けた。
陽太がさっき見せたような急激なターンではなかったが、それでも靴が滑った。滑りながら方向を変え、祥吾は和樹に向かって走り出した。当然、和樹も逃げたが、健二を追いかけてスピードが乗っていた祥吾は一気に距離を詰めた。
「捕まえられる!」と、祥吾が思ったのも束の間だった。和樹との距離が残り三歩くらいになったところから、全く距離を詰められなくなった。徒競走の時の差が1歩分あるかないかくらいだ。その距離を詰められない祥吾にしてみれば、3歩分というのは気の遠くなるような距離だった。
芝生の端の直線を走り抜け、半円形のカーブに差し掛かった。ここで和樹がカーブを曲がるのに対して、陽太が淳を捕まえた時のように、斜めに詰めていけば捕まえることができるのだが、祥吾の頭の中には、和樹の背中に追いついて捕まえることしかなかった。結局、陸上トラックのコーナーのようなカーブを、祥吾はぴったりと和樹の後ろに付いたまま曲がりきって、再びの直線に入った。
祥吾は、”悲壮感”という言葉の意味は知らないが、和樹の背中を追いかけて広場を半周、実に100メートル近くを追いかけるうちに、祥吾の中では、「絶対に和樹を捕まえてやる」という気持ちと「絶対に和樹には勝てない」という気持ちとがないまぜになって、その表情から”悲壮感”が滲み出ていた。
直線を抜け、東屋の裏を通るカーブに差し掛かった。ここは東屋があるため、斜めに距離を詰めるということができない。祥吾が半ばやけっぱちで、「もうどこまでだって追いかけてやる」と考え始めていた時、いきなり前を走る和樹の頭が下がった。
「いってぇー!」
和樹はカーブを曲がろうと体を左に傾けた。その時、体重をかけた左足が滑り、そのまま左手をついて転んでしまったのだ。後ろを走っていた祥吾は、和樹を蹴とばしそうになるのをすんでのところで避けて、右足を軸に一回転して止まった。
和樹は左腕を垂らし、左ひざを右手でおさえて、しきりに「いってぇー! いってぇー!」と繰り返している。その声に呼ばれるようにして集まってきた子供たちが、口々に「大丈夫か?」と声をかけるのに対して、和樹は「大丈夫だけど、……いってぇー!」と、痛いのをアピールするように答えた。
息を切らしながらノロノロ走ってきた宏人が「擦りむいたら水で洗い流さなきゃダメなんじゃなかったっけ?」と言ったので、和樹は顔をしかめて立ち上がり、左足を引きずりながら舗道の方にある水飲み場まで歩いていった。
「つまんなかったな、オニごっこ」
水飲み場に集まった後、言いだっぺの陽太が、自分の提案を全否定するようなことを言ったので、祥吾はびっくりしてしまった。
だが、祥吾が何か言う前に、他の子どもたちが「そうだな」と賛成して、あろうことか、狙われてもいないのに広場中を逃げ回っていた宏人が、「そうだね、オニと逃げてる人以外は、やること無くて暇だったもんね」なんて言うから、もう何も言える空気ではなくなった。
フクザツな気分の祥吾は、うめきながら傷口を洗っている和樹に「大丈夫か?」と今さらのように声をかけた。和樹は、恨めしそうな表情と一緒に、祥吾を振り返って、2回「コクコク」と頷いた。
モヤっとしたものが腹の中で膨らんでいくのを感じて、誰かにそれを擦り付けたいと思った。
祥吾は、後ろから和樹の肩を「ポン」と叩いた。
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