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今日もお疲れ様です
「カット!」
その言葉が聞こえた瞬間、周りの空気はゆるむ。俺は踏みつけていた物から急いで足をどけた。
床に伏せていた男性のスーツには、俺の靴跡がはっきり刻まれていた。しゃがみ、手を差し出す。
「すんません、大丈夫っすか」
「平気平気、恵庭くん加減してくれたでしょ」
俺の手を掴んだ男性は立ち上がり、スーツの状態をチェックする。俺も男性も、あまり見かける機会がない派手なスーツを着ていた。
周りにも色や柄が目立つスーツを纏った人たちが立っている。
「恵庭くんちょっといいかな」
「あ、うす」
「次のシーンなんだけど、登場する組長にこれ渡して欲しくて」
近づいてきた人が差し出したのは短い刀。黒い鞘が光を反射している。
もちろん本物ではなく作り物だ。派手なスーツの男たち、懐にしまういわゆるドス、廃墟をもした建物。
すべてが偽物で、作られた物。その中でアウトローな人々を描く映画を撮影していた。
「恵庭くんドスもらったの?」
「はい。俺が渡すことになったらしいです」
さっき俺が踏みつけていた男性が訊ねてくる。俺よりもひとまわり歳上で、こういった裏社会が関わる作品によく出演している役者さんだ。
二十歳を超えたあたりから俺もそういう作品に呼んでもらえることが多くなったから、何度も共演していた。
「やっぱ恵庭くんこういう役似合うよね。顔に凄みがあるっていうかさ」
「それ言うならここにいる皆さんそうじゃないすか」
「まぁなー。日常生活でこんなに強面ばっかり集まることなんてないよね」
今話している役者さんも、周りにいる役者さんも、裏社会の人間を演じられるような強面な人ばかりだ。
そして俺もその中で浮かないくらいには「イカつい顔」だと言われている。ありがたいことにメディアでは強面イケメン俳優として扱ってもらえていた。
「次のシーン撮りまーす」
「あ、始まるのか。早く帰って風呂入りたいなぁ」
「いいすね」
セットの中は薄暗いがまだ外は夕方くらいだろう。このまま順調にいけば日が沈む前に帰れるはず。
閉店前に間に合えば、あそこに行ける――。
スーツをシワがないように整え、次のシーンに集中する。眉根に力を入れ迫力が出る顔を意識しながら内心では、順調に撮影が終わることを願っていた。
店に着いたのは閉店の三十分前だった。慣れた手続きをし、今は簡易的な個室にいる。漫画喫茶のような部屋には、大きなビーズクッションと上着をかける小さなクローゼットしかない。
ビーズクッションに座っているとドアがノックされる。返事をすると待ちわびていた相手が入ってきた。
「トキオさん、今日もご指名ありがとうございます」
「結月……ごめん、閉店間際に」
「何言ってるんですか。急いで来てくれたんですよね? 嬉しいです」
本心で言っているのだとわかる、嬉しそうな笑顔。それを見た瞬間、大袈裟ではなく本当に疲れが吹き飛んだ。自然と頬がゆるむ。
近づいてきた青年――結月は、俺の隣に座る。ふわりとバニラの甘い匂いが香った。
「今日もお疲れ様です。僕、頑張ってトキオさんを癒しますね」
「もう既に十分癒されてるけど、三十分間、よろしくな」
「はい、お任せください」
こくん、と頷いた結月。ふわふわのミルクティー色の髪、そして髪の間から垂れ下がっている毛におおわれた兎の耳が、宙で揺れた。
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