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其の玖
新しい春が二度巡ってきた。
環琉は自分宛てに届いた手紙を机に広げた。
その柔らかな優しい筆跡を指で辿りながら大切に読む。
「環琉さん、お元気ですか」という言葉から始まるのは、薫子からの便り。
―――環琉さん、お元気ですか。
少し家の中が忙しくしておりましたので、お便りが遅くなって申し訳ありません。
大学はいかがですか。
こちらは皆元気で過ごしております。
当家の櫻は五分咲きと言ったところです。よろしかったら、散ってしまう前に遊びにお越しになりませんか。
ところで私、先日、出産いたしました―――
「出産!」
―――とても元気な男の子です。
「それも男の子を!」
―――家の者が皆、それはもう大騒ぎでした。
「さぞ、可愛いだろうなあ」
―――不思議なことがありました。
初めてのお産で、息をするのも大変でした。このまま死んでしまうのではないかと思ったくらい。
でも、その時です。
私を包む光を感じたのです。
屋敷の中にいるはずなのに、いっぱいの花吹雪が部屋の中に舞い込んできたように見えました。
淡く白くて、温かくて…
朦朧とする意識の中で私は、それを見て、なんて美しいのかしら、と思いました。
その瞬間、産声が響いたのです。
私、庭の樹に護られているような気がいたしました。
私を、私の子をずっとずっと護ってくれると。
ですから、私、この子の名前を―――
「…さあ、お祝いの電報を打たないと」
環琉は手紙を丁寧に畳んで封筒へ戻すと、寄宿舎を出た。
春の日差しの暖かさを身体全体で感じる。
「君は、今度こそあの家の本当の子として、皆に望まれて生まれてきたんですね」
花吹雪は止むことなく降り注いでくる。
春特有の不思議な香りと共に。
「ああ、なんて良い名前なんだ」
環琉の声に応えるかのように、いっそう強い風が吹き、たくさんの花びらが空に舞った。
「――桜良」
了
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