其の参

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其の参

「眠い…連日徹夜は、勉強ですらしたことがない…」 新月の夜、久方ぶりにまともに夜の睡眠を摂った気がするが、まだ足りない。 今では小刻みに昼寝をしている生活で、勉強に支障がないわけではない。 だが根が律儀なので、雷に会わないという選択肢も無い。 成仏するまでは可能な限り遊んでやるのだと決めたのだから。 両手で顔を覆い、目を閉じた。 太陽の光が気持ちいい。 ただこの暖かい陽だまりの中で眠りたかったので、書物も持たずに庭へ出てきてみた。 うとうとし始めた頃、頭上から声を掛けられた。 「環琉さん」 優しい声。 間違いなく薫子のもので、環琉は大慌てで手を退けると、少女を仰ぎ見た。 「お、お嬢さん…!」 「あら、お珍しい。今日は何も読んでらっしゃらないの?」 薫子は普段あまり見ない洋服を纏っていて、ほんのりと化粧もしている。 突然そんな着飾った格好で目の前に現れたので、環琉は今度こそ口から心臓が飛び出るかと思ってしまった。 「あ、あの…」 目のやり場に困ってしまい、視線を泳がせると、薫子もそれに気付いたようで照れたように笑った。 「これ、似合います?」 そう言われると、無言のまま首を何度も縦に振る。 「坂下(さかした)の、白道(はくどう)神社まで行ってきました。環琉さんにも、お土産です」 坂下、というのは高台の麓という意味合いで、地元に住む人々はこう呼ぶ。 薫子の差し出したものを受け取ると、それは合格祈願の御守だった。 「御守は、いくつあってもあり過ぎるということはありませんわ」 「あ、ありがとうございます…!お嬢さんもなにかのご祈願で?」 「その…」 少し恥ずかしそうにスカートを弄る。 「お嬢さん?」 いつまでも自分ばかりが座っていては申し訳ないと、立ち上がって今度は逆に、背の低い薫子を見下ろす形になる。 「あ、安産祈願、です…私の」 「あんっ…ざん…!?」 「いえっ…!まだ、その、そういうわけではありませんのよ!将来の、ですわ」 ぱたぱたと両手を振って、絶句する環琉を見上げる。 「お父様とお母様が、せっかく神社に来たのだからと、その場で急に…」 近く祝言が予定されている薫子は、このところ婚約者と頻繁に打ち合わせをしているようだったので、なんとか環琉は己の心を納得させて落ち着かせた。 実際には、落ち着いてなどいなかったが。 「なるほど!しかし、は、早すぎませんか…?」 「ええ、でも…お父様とお母様は、おふたりだけでも何度も行かれているそうです。以前はご自分たちにだったそうですが、最近は私の為にと…」 まだ、スカートを弄る手は止めない。 「それは、お嬢さんがご立派に成長なさったから、次のご期待をされているのでは?」 「…そうですわね、これ以上、お父様とお母様のお歳では…男の子の誕生を待てませんもの」 「男の子?」 「あ…、環琉さんはご存知無いかもしれませんわね。弓城家は、どうも女系のようなのです」 「女系?つまり、男児が産まれにくいという意味でしょうか」 婿をとっても嫁に行っても、産まれる子は女児ばかりだという。 たしかに薫子は婿を迎える。 「お父様も遠縁からの婿養子なんです…。少なくとも、ここ四代ほど男の子は生まれていないそうですわ」 「お嬢様ー…」 「あら、いけない」 屋敷の方で、使用人の女性が薫子を探しているようだった。 「ごめんなさい環琉さん、私はこれで」 「いいえ、とんでもない…御守、ありがとうございます」 薫子は軽く手を振ると、先ほどよりも更に照れくさそうに笑った。 「これから扇一(せんいち)さんもご一緒に、街へ食事に行くんです」 「せんいち…さん?」 「婚約者の方です。それじゃ、行きますね。…あ、この近所で人が亡くなる事件があったそうですわ。お聞きになりました?片方の腕が無かったと…恐ろしいですわね。お気をつけて」 「あ…そう、ですね…」 環琉の方は、やや引きつった笑顔で手を振る。 最後の方はあまりよく聞こえていなかったかもしれない。 扇一の名はこれまで屋敷内で幾度と無く聞かされ、胃が破裂するかと思ったほどだ。 環琉はまた、盛大な溜息と共にずるずると櫻の樹にもたれた。 *** 「なんだ、それは?」 御守を大事に大事に布に包み、懐に仕舞う。 「僕の青春です」 雷は食べ物じゃないのか、とつまらなさそうに眺めていた。 「寂しいのー」 大して憐れみもないが、その気軽な物言いに環琉は少し傷ついた。 「ほっといて下さい」 ほら、と襖を開けると、雷が先に立ち部屋を出る。 広い庭を横切って、風太と春風の待つ社へ向かった。 「あー、ライー!わたるお兄ちゃーん!」 春風がぶんぶんと手を振っている。 風太の姿が無い。 「あれ、風太はどうしたんですか?」 「…まだ、来てない…」 急に寂しそうに目を伏せ、環琉の着物の袖を握った。 「どうしたのかな…」 「うーん…、何か用事でも出来たんじゃないですか?」 ひとりで待っていたのが余程辛かったらしく、春風はぽろぽろと涙をこぼし始める。 「春風…!」 「お…、お兄ちゃん、あたしのことキライになったのかな…」 自分の発した言葉に悲しくなり、春風は環琉の腰にしがみついて大きな声で泣き出してしまった。 「ああ…、な、泣かないで下さい…!」 オロオロとしつつも背中を撫でて春風をあやす。 「全く、これだから子供は…。ほら、ハル。…ちゃんと来たではないか」 「あ、本当だ。ほら、春風、もう泣き止んで…」 通りの向こうから、全速力で風太が走ってくるのが見え、環琉は春風の頭を軽くポンポンと叩いて合図した。 「悪い!遅くなった!」 「お兄ちゃんッ!!」 目にも留まらぬ程の速さでしがみつく対象を風太に変える春風と、その春風の涙でぐしょぐしょになった着物を交互に見て環琉はがっくりと肩を落とす。 「お兄ちゃん、遅いよう」 「うん、ごめん、春風」 春風の背中を撫でながら、風太は環琉と雷にも「ごめんな」と笑いながら謝った。 「どこかに行ってたんですか?」 「ん…ああ、親父とその友達のおっさん達の夜桜に付き合わされてたんだよ、坂下の白道神社の横の公園でさ。もう花も終わりだからって…はぁ、めんどくせーよなあ」 まあその代わり、と菓子類をいくつかくすねて来たようで、広げるとあやしたちの顔が輝いた。 「すごーい!すごいすごい!お菓子がいっぱい!!」 「おお、でかしたぞ風太!」 暫くは珍しい洋菓子に舌鼓を打っていた雷だったが、急に何かを思い出して呟いた。 「そういえば、そうか。櫻の終わる時期だの」 「何ですか、今更」 環琉に今更と言われたのが気に障ったらしく頬を膨らませたが、直ぐに真面目な顔になる。 「先日、妖怪が出たな」 「妖怪…?」 「ついこの間、人死にが出ただろう。心の臓と腕の無い死体があったと。恐らく食われたな。そのへんに漂っている幽霊どもに聞いたのだ」 しんとする三人の視線を感じ、雷がぺろりと舌を出す。 「言うのを忘れておった。すまん」 「忘れてたって…!あれ?そういえばそんな話を聞いたような…聞いてないような…」 薫子との会話を薄らと思い出す。 「確かにあったな…犯人の検討もつかない変な事件だって聞いたぜ。妖怪って、本当に居るのか?」 「うむ、人を狩って喰う。特に心の臓が好物だ。狐に関わらず、この季節は妖怪にとって狩の季節だからな」 世間話のごとくさらりと返されたが、風太だけが面白そうだという目で話題に喰い付いて来る。 「風太、白道神社に行っていたと言ったな。幽霊どもの話だと、そこの狐だと思うぞ」 「雷は見たことがあるんですか?」 「狐は…ないな。この高台には昇ってくる様子はないらしいから、話に聞くだけだ」 風太はそこで「ん?」と首を捻る。 「おい、ちょっと待てよ。俺の親父達はまだ居ると思うけど、大丈夫なのかよ」 「うむ…、これはわしの推測だが…とりあえずは大丈夫だ。一度人を喰うと、何十年かは大人しいらしいからな」 それよりも環琉が問題だ、と向き直ると、肩をビクリとさせて一歩後ずさる。 「妖怪に好かれるニオイをしておるし、もし狐がとんでもなく腹を空かせていたら」 「ま、またその話ですかー?」 春風は「狐さんが、わたるお兄ちゃんをおかわりで食べちゃうよ!」と叫んだ。
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