其の肆

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其の肆

白道(はくどう)神社。 万の願いを叶えるという神が祀られているが、狐の妖怪の棲家でもある。 最奥の本殿にはほとんど人が立ち入ることはない。 横濱で一番力を持つと言われる妖怪の王とも呼ぶべき存在、名は(すばる)。 そしてその弟、(ほたる)。 輝く銀の髪と、同様に銀の瞳を持っている。 「兄上様ぁ」 蛍はふたつの尾を緩やかに揺らし、兄の昴へ甘えた声を出す。 「何だ?」 昴は、蛍を見ずに返事をした。 その尾は八つ。 「俺、この前美味そうな匂いを出す人間を見つけたんだ!」 「…人間なら、冬に眠る前喰わせてやっただろうに」 「だって、美味かったんだもん。もっと喰いたい」 蛍の瞳はうっとりと細くなる。 妖怪の多くは春から夏までの活動が活発で、冬はそれぞれの棲家へ篭る。 肉食の妖怪にとって、櫻が咲き、そして散るのは狩りの合図だった。 つい先日、昴から人間の襲い方を教わり、初めてその味を知った。 「あのね、この坂の一番天辺にある屋敷だよ!そこにいい匂いの人間がいるの!俺、あいつも食べてみたい!!」 「坂の天辺…」 c9422452-4a42-4c3b-afdc-4d9f4946c698 やっと自分の声にそれなりの反応を示してくれた事が嬉しくなり、蛍はふたつの尾を交互にパタパタと上下に振った。 「結構、でっかい屋敷!…あ、櫻の樹が一本しかないからすぐ判るかも。庭も広いのに何か変な感じーと思って」 狩りの目印にしているだけあり、妖狐は特に櫻の樹を良く見てしまう本能があるらしい。 「……弓城の屋敷か」 「ユミシロ?…まあ、兎に角さ、すっごくいい匂いがしたんだ!」 「…でもお前は、狩らずに帰ってきたのだな?」 そこで蛍はぷうっと頬を膨らませた。 「上手くいかなかったッ!」 「それでいい。そう頻繁に食うものではない。…それに」 何かを言いかけた昴に気付かず、蛍は続けた。 「邪魔が入ったんだもん。何か、変な長い爪の奴がいきなり出てきてさ」 「っ…!?」 「俺、引っ掻かれそうに――」 蛍の言葉が終わる前に、昴は強く肩を掴んだ。 「あ、兄上様!?」 昴の眉間に、蛍が今まで見たことも無いほどの深い皺が刻まれる。 「あの屋敷には、もう近付くな」 「えっ…?」 「良いな、あの屋敷には近付いてはいけない」 「で、でもいい匂いが」 戸惑いつつも自分の嗅いだ人間の匂いに未練のある蛍は食い下がろうとする。 「人間を喰うのは三十年に一度で良いと、言った筈だ」 すると、強く掴んでいた手の力を緩め、今度は優しく背中を撫でる。 「分かったな」 「…はぁい」 納得いかないという様子ではあるものの、蛍は頷いた。 「では行ってくる。勝手に出歩くなよ、お前はまだ人間に化けられないのだから」 「うん…、いってらっしゃい…」 人間に姿を変えて書道教室へと向かう兄を、蛍はさびしそうに見送った。 *** 「おはよう、斎木(さいき)君」 「おはようございます、昴さん」 妖狐の性か、つい言葉よりも匂いに反応してしまう。 件の人間は環琉のことで、弓城家に居候していることからも気付いてはいたが、蛍には言うまいと決めている。 「いつもすまない」 「いえ、僕も合間にお手伝いしているだけですの、でむしろ申し訳ないくらいです」 環琉は昴を妖怪とも知らず教室を時々手伝っていた。 「お屋敷にいてばかりですと体も動かしませんし…、ここをお手伝いすると色々と発見することもあって楽しいです」 以前雑談の中で、環琉に剣道の心得があるとは聞いた。 個人的に昴はそれに興味を持っていた。 「剣は握らないのか」 困ったように環琉は笑ってみせる。 「そうですねえ、実家に竹刀やら木刀やら、全部置いてきてしまいましたから…」 「いい運動になるだろう。木刀なら前の家主がいくつか置いていってるから、振りたいなら物置きに行くと良い」 「そうですか、ではそのうちに」 時々雑談をし、子供たちを迎え、授業を手伝う。 環琉にとっての日常は、傍にいる人物を疑う余地は微塵も存在しない。 何かの拍子に牙を向けられるなどとは思わない。 「……」 「僕の顔、何かついていますか?」 急に問われ、はっとする。 「…いや、すまない。君は香を嗜んでいたかな?」 「いいえ?」 環琉自身の匂いに紛れ、着物から別の香りがしたので、昴はつい見詰めてしまっていた。 すると環琉は自分の着物をくんくんと嗅ぐと、心当たりがあるのか、数度頷いた。 「…あ、そういえばお屋敷で奥様が…。弓城家で代々贔屓にしているお香だそうで」 「そうか」 昴は、環琉に見えないところで拳を堅く握った。 *** 生まれて三十年と、妖怪としては若い蛍は、外出を許されているのは夜だけだった。 まだ人間に化ける術が上手く使えないため、昼間は睡眠を貪ることに決めていた。 それでも明るさから深く眠ることは出来ず、時折目を覚ましては兄の存在を探す。 「…まだ、帰ってきてないや…」 呟いてまた目を閉じる。 兄の昴は、この神社の真の主であると同時に、普段は人間としての顔も持っている。 それは移り行く文明に順応する必要があったことと、数十年に一度捕食する人間以外の食べ物を得るため。 例えば狸の妖怪は、葉を金に変える術を知っている。 その他の妖怪は、人間の世界に溶け込み天下の回り物を得るためには、それなりに労働をしなくてはならない。 達筆な昴は、小さな教室で書道を教えている。 一、二度、門下の霊感の強い子供を喰らったことがある。 最近に襲ったのはその内のひとりだった。 蛍はその時、人間の味を知った。 「まだかなあ…兄上様」 蛍を産んだ直後に母狐が死に、昴が蛍を育てて丁度三十年。 父狐は永遠に生きられるとされる九つ目の尾を手に入れ、他の妖怪の女とどこかへ行ってしまった。 蛍には、昴だけがすべてだった。 「まだかな…」 ヒタヒタと歩く気配を感じ、蛍は目を覚ます。 「兄上様だ!」 硬く閉ざされた本殿の戸を何なく開き、昴が帰ってきた。 その姿は人間のもので、髪も瞳も黒く染まっている。 内部に入ると同時に変化が解け、銀の髪、銀の瞳、狐の耳と八つの尾が現れる。 「おかえりなさい、兄上様」 「ああ」 蛍が甲斐甲斐しく敷物を敷き、昴が腰を下ろす。 「…お前、まだ人間が喰いたいか」 兄の声に怒気のようなものが含まれている気がして、小さな声で「うん」と返す。 「喰いたい…けど、でも兄上様、どうして人間は時々しか喰ったらいけないの?」 食事が終わるとごろりと横になり、頬杖をついて見上げながら蛍が言う。 「……」 ちらりと弟を見、尾を揺らす。 「私達は、妖気が高まると尾が増える」 「それは知ってる」 そう言って蛍も尾を揺らす。 「…では、九つ目の尾が生えるとどうなるかは、知っているか?」 昴の尾は現在八つ。 蛍に狩りを教え、共に人間を捕食した時に八つ目が生えた。 蛍の尾も出生当初はひとつだったが、同様に二つ目が生えている。 「知ってるよ。永遠に生きられるんだ」 蒸発した父狐を思い出したのか、いささかぶっきらぼうに答える。 「霊感の強い人間の肉は、そのまま妖気となる。しかしむやみに人間を喰えば良いと言うものでもない」 闇雲に妖気を手に入れても、それに見合う己の成長と力を操る為の術が必要、とは、何度も昴が蛍へ言い聞かせていることだった。 蛍はやっぱりいつものお説教だ、と察して、それ以上は何も言わなかった。 人間に化けるのが下手なので、あまり触れたくない話題になってしまい、なんとなく答えは判っていたが聞いたことを後悔した。 「…永遠の命を手に入れるには、それなりの覚悟も必要なのだ。お前はそれを悟るには若すぎる。美味いからと言って、人間を喰うことばかり考えるな」 昴は声音を優しくして語り、片手でそっと蛍の髪を撫でた。 「…兄上様はもうじき九尾になるでしょ…?俺も、急いで追いつきたい。一緒に、永遠に生きたいよ…」 寝返って仰向けになると、髪に触れていた昴の指を愛おしそうに絡めた。 昴はただ弟を見つめるだけで何も言わなくなり、やがて食事を終えた。 「兄上様、もうひとつ教えて」 「何だ?」 昴が酒を飲み干すのを見計らい、未だ寝転がったまま見上げてくる。 「どうしてあの屋敷に行ってはいけないの?俺それ聞いてない。聞きたい」 近づいてはならない理由を聞かなければ、あの匂いを諦めるには納得できないと唇を尖らせる。 「…あやしだ。あの屋敷には、あやしが居る」 「あやし…?」 「雷というあやしには、近づいてはいけない…」 *** 翌日、どうしても好奇心が抑えられなかった蛍は、昴の留守中にこっそりと神社を出た。 人間に化ける術が未熟なので、耳と尾をなんとか隠したものの、念の為にと兄の着物を頭から目深に被って、長い長い坂を登り、櫻の樹を目印にひたすら歩いた。 「あ、つい……おれ…も…無理…」 珍しく暑い日だったので、蛍の疲れ切った膝ががくりと崩れると、慣れない太陽の下で気を失った。
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