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其の伍
「ねえ、君、起きてください」
鼻腔を擽る匂いと優しい声。
蛍は目を擦りながら身を捩った。
「兄上様…?帰ってきたの…?」
「お迎えが来ましたよ…おうちへ帰りましょう?」
「やだ…俺、喰いに…きたのに…」
「…?何を言ってるんですか?」
むにゃむにゃと口を動かす蛍の言葉を寝言と思い、環琉は笑いながら小さな身体を優しく揺すった。
「お兄さんが、迎えに来ているんですよ?」
「オニイ…サン…?」
環琉はゆっくり起き上がる蛍の背中に右手を沿え、左手では髪を手櫛で軽く整えてやった。
弓城邸の前で気を失い倒れた蛍は、使用人に運び込まれ、駐在に迷子の届けを出しに行く途中で、書道教室から戻る環琉と昴が聴き及ぶことになった。
未だぼうっとした目で夢と現の境目を彷徨っている蛍に、再度囁く。
「お兄さん、庭の櫻のところで待っていますから…早く行きましょう?」
「やだよう…まだいるー…」
環琉は苦笑しながら溜息をつく。
「うーん、そう言われましてもね…。昴さんが怒っているようなので…」
その名を聞いた途端に、蛍の瞳が勢いよく開く。
「昴!?」
急に大きな声を出した蛍は、環琉に向き直ると胸倉を掴む。
「な、なんですか!?」
「そっちこそ!なんで俺の兄上様の名前を知ってるんだよッ!!」
完全に見下ろす姿勢の筈なのに、鋭い眼差しと恐ろしい程の気迫を感じ環琉は一歩後ずさった。
「何で…と、言われても」
「兄上様とどういう関係なんだよ!?」
環琉は驚いて、蛍の言葉の意味を考えようとした時、襖の外から声がした。
「環琉さーん?」
使用人の女性の声だった。
「は、はい。なんでしょうか!」
声に驚き様子を伺う蛍の肩に手を置いて、返事をする。
「昴先生が、まだ来ないのかと申されてますけども、どうしたらいいかしら?」
「す、すぐ行きますとお伝えください!」
また聞こえる兄の名に、蛍の目が更に大きく開いた。
女性の足音が遠くなっていく。
「ええと…、君は、昴さんの弟なんですってね。書道の先生ですよ…知ってるでしょう?お兄さんのお仕事」
「………」
「迷子の子がいると騒ぎになって、背丈や着物の特徴から、弟だと昴さんが仰っていて…」
「………」
「僕は、昴さん…君のお兄さんのお手伝いをしに行ったんですよ。それで…」
状況がやっと判ってきた蛍は、環琉の着物を掴んだまま血の気の引いた顔になる。
その手はカタカタと小刻みに震えていた。
「どうしました?」
「兄上様が…いるの?」
「え、ええ…君を心配して…。一緒に連れて帰るからって、お待ちです」
蛍は小さく悲鳴をあげて、今度は環琉にしがみ付く。
「ど、どうしよう…俺、兄上様に怒られる!」
「…黙っておうちを出て来たんですか?」
優しく訊ねると、何度も首を縦に振る。
「もっと早く済ませる筈だったのに…!」
「それならば、きちんと謝ればいいじゃないですか。幸い事故にも遭わずにこうして…」
すっかり怯える蛍を引っ張る形で、昴の待つ庭先へ出た。
「昴さん、お待たせしました…弟さんで間違いないですか」
昴は黙って大きく頷いた。
「蛍」
兄の声に一瞬ビクリと震え、瞳だけで応えた。
「兄上様…あの…」
「帰るぞ」
「う、うん」
チラリと蛍の足元に目をやると、昴は背を向けた。
「裸足で出かける奴があるか。こっちへ来い」
環琉の背中から昴の背中に移動すると、蛍は更に小さく見えた。
「世話になってしまった。この詫びはまた改めて」
「いいえ、気になさらずに。弟君をあまり叱らないでやってください。きっとお兄さんが留守で寂しかったんでしょう」
さよなら、おやすみ、と双方挨拶を交わし別れた。
「兄上様…」
「何だ?」
「怒ってる、よね?」
「当然」
「……ごめんなさい」
蛍は小さな声で謝罪した。
「全く、あの屋敷に行くことになろうとは…」
昴が何やら呟いたが、蛍は気付かなかった。
「それにしても、蛍。今日は上手く化けられたのだな?」
「あ…うん…」
「褒めるべきところは褒めねばなるまい」
少しほっとして、蛍に笑顔が戻った。
「ん…?やはり尾が残っている」
背負う手に、ふさりとしたものが触れ、昴は眉の形を変えた。
「そ、そんなことないモン!出かける時は全部隠せたよ!すごくない?気絶してそのまま寝ちゃってたのに化けたままだったのすごくない?!」
「しかし今は実際に出ているぞ」
立ち上がった時に環琉が着物を掛けてくれたことを思い出し、蛍はその時点で自分でも術が弱くなっていたことに気付けなかったと冷や汗が出てきた。
「でも…出かける時には…」
「やはり褒めるのはやめだ。私はお前の完璧な術を見ていない」
「う…」
「それに、あの家の香の匂いを付けてきおって。…その着物は後で燃す」
「え…」
***
「だから、さっきから説明してるじゃないですか」
雷は外方を向いたまま目を合わせない。
「他の者を連れ込んだだろう。浮気者ッ!」
相変わらず座布団は雷のもので、環琉は面倒だったので敷いたままの布団に座っている。
「う、浮気…連れ込んだって…」
「その布団が何よりの証拠ではないか」
「だーかーら…これは、道で倒れていた子供を」
何度目になるのか数えるのもうんざりする状況説明を繰り返す。
「子供、な。お前に妖怪の子供と戯れる趣味があったとは…」
鼻先で笑い、完全に背を向ける。
しかし環琉の注意はそんな雷の態度ではなく、その発言の中にあった。
「妖怪…?」
「そう、妖怪」
「え?あの、僕が助けた子とどういう関係で」
「理解せんか!それが、それだと言っておるのだ!」
日中出会った少年を思い出す。
その少年は、黒髪で黒い瞳で…どこからどう見ても、人間だった。
厚着に裸足と、今一理解の出来ない姿はしていたが、何しろ達筆の持ち主と尊敬している昴の弟だ。
なんだかんだで兄弟仲も良さそうだったし、面持ちも似ているので正真正銘、実の兄弟だろう。
どう妖怪へ結びつければいいのか、環琉は悩む。
それに蛍が妖怪だとしたら、昴も…ということになる。
「何を言ってるんですか、雷。あの子は人間…」
蛍の風貌を説明しようと口を開くと、すぐに遮断される。
「自分の布団をよく見てみることだな」
「え?」
腰を下ろして胡坐をかいている自分の布団を、言われたとおりに見てみる。
明かりは外からの月光と、一本だけの蝋燭なので昼間ほど視界は良くない。
蛍の温もりは既に無くなっていて、掛け布団も綺麗に畳まれて隅に寄せてある。
「一体、何ですか」
雷の言っている意味がさっぱり判らず、環琉は首を捻ることしか出来ない。
「あの子は人間で、黒髪でしたよ?…本当に…なんなんです、か…?」
語尾が弱々しく掠れる。
白い布が掛けられているので気付かなかったが、僅かな感触を指先に感じてそれを摘み上げると、白いような、銀のような何かの毛だった。
「えっ…?」
布団の上を、今度は掌全体で軽く撫でると、他にも同様の感触がいくつもあることに気付く。
それらは、全て銀色の毛だった。
「な…何だ!?こんな色の犬、この屋敷には…」
そこでようやく雷は身体ごと環琉へと向き直る。
「だから、犬などではない。銀色の妖狐だ」
環琉は雷に言われるままに、窓を開けると布団を軽く叩いてその銀の毛を地面へ落とした。
「まだ、状況がよく判っていないというか…混乱しているんですが」
「やはりその毛色、わしが見た妖怪と同一だろうな。あやつめ、また来たのか。…狐は来ないと聞いていたのに」
「でもっ…あの子は書道教室の先生の…」
雷の目が細く光った。
「ならば、その先生とやらも人間ではない」
環琉は信じられないというように緩く首を振った。
「妖怪は昼も夜もなく活動する。人間に溶け込んでいる」
「昴さんが…妖怪だなんて…」
ふと、環琉の脳裏にある事件が浮かんだ。
先日人がひとり、腕の無い遺体で見付かった。
昴は妖怪かもしれない。
「そんな、まさか。そう簡単に話が繋がりますか?」
しかし環琉はその前提を信じようとすることは出来ない。
「ではあの銀色の毛をどう説明する?」
「僕は信じませんよ」
「それは勝手だ。殺されかけてから後悔しても、わしゃ知らんがな」
***
翌日は雨が降った。
間もなく梅雨の時期に入る。
白道神社の裏手の紫陽花がそれは見事だと、薫子の話に耳を傾け環琉は茶をすする。
「生まれた時からこの地で育ってまいりましたけれど、あの紫陽花を見たのは去年が初めてですの」
季節を意識してか、この日の薫子の着物は薄い青に紫の染めが入っているものだった。
「あら、私ばかりお喋りしてしまって…」
「あ、いえ、いいんです。お茶に呼んでいただけただけで、僕は嬉しいです」
外に出られず退屈だと、薫子が茶会を開いてくれた。
洋風の客間の大きな窓の外は、静かに雨が降っている。
「白道神社と言えば…書道教室の昴先生」
瞬間、環琉はギクリと身を固める。
妖怪である疑惑を信じまいとはしているが、雷の言葉が耳の奥で何度も木霊して思考を邪魔する。
「どうもあの近所に住んでるそうですわね」
「白道神社の…近所…」
思わず環琉は言葉に出す。
そういえばそのようなことを昴が以前言っていた気がしたが、はっきりと思い出せない。
もし、昴の家が白道神社そのものだったら?
また雷の言葉が蘇って来る。
「そういえば、昨日来てらしたと聞きました。ご挨拶したかったですわ」
「え、ええ…、いらっしゃいました」
「私も小さい頃は何度かあのお教室には行きましたけれど、いつまでも若々しくていらっしゃいますよね」
「え…」
薫子の声に聞き入っていたいという気持ちと、昴のことが気にかかっていた環琉は、そのさりげない言葉に反応した。
そういえば、昴の年齢を知らない。
自分よりは上だろうが、見た目だけではハッキリしない容姿をしている。
流石に十代ではないだろうけれども。
「環琉さん?」
「え、あ、はいっ!?」
いつの間にか下を向いてしまっていたようで、薫子の視線が心配そうに揺れている。
環琉の胃弱は周知の事実だが、何でもないときにこうしてじっと見られては何だか恥ずかしい。
「お茶、お腹にあいませんでした?」
薫子に泣きそうな顔をされるととてつもなく申し訳ない気分になる。
「あ、いえっ…ちょっと考え事を…。そ、そういえば、その。昨日は昴先生の弟君をお預かりしまして…」
「まあ、それでいらしてたのですか?」
「はい、迷子になっているのを保護しまして…、目元など、とてもよく似ていらっしゃいました」
蛍を引き合いに出しその場を取り繕ってお茶を再開するも、環琉は早々に昴の話題が終わらないかとそればかりを祈った。
夕方になっても雨は降り止まなかった。
屋敷の者に急な買い物を頼まれて、陽の落ちる時間だったが、近くの商店まで出ることになった。
早く戻ろうと、少し走った。袴の裾が濡れようがいたしかたない。
下駄が水を小さく跳ねる音が規則的に聞こえる。
街灯の明かりのお陰で、大きな水溜りは容易に避けられる。
少し前に、見慣れた人影を見た。
「あ!」
思わず声を上げてしまい、しまった、と思ったが時既に遅く。
「…斎木君?」
「こ、ここ、こんばんわ…」
目下環琉の思考の中心人物と化した昴だった。
「君も買い物かな?こんな時間に」
「はいっ…お遣いを頼まれまして!」
あまり動揺していたので大きな声になってしまった。
「止みそうもないな」
ポツリと昴が口にし、また言葉を紡ぐ。
「昨日は、弟が失礼した。普段は留守を任せているんだが」
「あ…いいえ…」
そこで会話が終了してしまい、もう一言二言交わしておくべきかと環琉は焦って考える。
「斎木君」
「はいっ!?」
昴の方から話しかけてきたことで、驚くも若干安堵して振り向く。
「世話になっておいてなんだが、今後私の弟には構わないで欲しい」
「え…?」
「どうも君が気に入ったようなのだが、人前に出すにはまだ躾が足りない子なのだ。また君の目の前に現れるようなら、直ぐに私を呼んでくれ」
環琉が返す言葉を捜しているうちに、昴はくるりと背を向けて闇へと消えた。
「あ…はい」
雨は多少弱くなってきたようで、傘が要るか要らないかという具合になっていた。
ほんの一瞬傘を傾げて頭上の様子を探った。
すぐに昴が向かったであろう方向に目をやったが、どの街灯の下にもその姿を見つけることは出来なかった。
「あれ?…もう居ない…」
あの昴でも走ることなどあるのだろうか、と、しかし考えても仕方のないことだったので環琉も屋敷へと歩を進めた。
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