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其の陸
-百年前-
その部屋は北向きで、昼でも薄暗く、かび臭く、ひんやりとしていた。
屋敷に踏み入れたとき、珍しい香が焚き染められていることに興味を抱いたが、通された小さな部屋は違っていた。
まるで別の境界に入ってしまったような、違和感。
「この方が、今日から坊ちゃんに書を教えてくださる昴先生ですよ」
「すばる…せんせい…?」
少年は、滅多に会わない“外界の人間”にじっと目を向けた。
「さあ坊ちゃん、教えたとおりにご挨拶を」
使用人の老人が背中を押して、少年を促す。
「……」
「どうしましたね、坊ちゃん」
この老人は目があまりよく見えないので、少年が頭を軽く下げたことに気付かない。
「ご自分のお名前を」
更に促され、やっと少年は挨拶の仕方を思い出す。
「僕の、名前は、…桜良、です」
か弱く、小さな声で名乗る。
「桜良か。私は、昴だ。では早速はじめようか」
「…はい」
弓城の屋敷の長男、桜良は利口な子供だった。
教えた事は直ぐに覚えるし、難しい文字も読み書き出来るようになった。
ただ普通の子供と違うのは、笑顔がほとんど無いということ。
昴は、自身も明るいとは言えない性格なので大して気にも留めなかったが、日が経つにつれ違和感を覚えるようになった。
質問はあれど口答えはせず、はいという返事はあれど拒否もしない。
勉強がつまらないと駄々も捏ねない。
ひと月が過ぎようとした時、昴はふとした疑問を口にした。
「君は、友達とは遊んだりしないのかな?」
桜良はいつでも傍に高齢の使用人がひとりついているが、それ以外の人間を見ない。
両親とは仕事の契約をした日の一度だけで、屋敷の中で後姿程度は見かけても、桜良の部屋には絶対に入ってこない。
「…トモダチとは、何ですか?」
異質な、回答。
もう十を過ぎようとしている子供の言葉ではない。
「ご両親は、君を誰かと遊ばせてはくれないのか」
それほどに教育熱心だからこそ、勉強中の我が子の部屋を訪ねないのだろうかと昴は思った。
それならば、夕餉の時間には自分の知らない水入らずな光景があるのだろうか。
「ゴリョウシン、とは、何ですか?」
昴は何も言えなくなった。
応えない昴を暫し見つめると、桜良は自分の手元に視線を落とし、筆を動かす。
それからはもう、その話題に触れられることはなかった。
ある日昴が弓城家を訪ねると、屋敷中が騒がしい。
廊下という廊下を、誰かしらが行き来している。
「何か起こったのか」
使用人を捕まえて問うと、その女性は豪華な食事の盛られた盆を抱えている。
「あ、あら…いえね、おめでたいことがありまして」
「めでたいこと?」
「奥様が、ご懐妊なさったのですよ。今夜はお祝いなんです」
それは準備の最中に引き止めて悪かったとその場を去り、いつも通りに桜良の部屋へ赴く。
桜良は時間を守り、机の前に正座して待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は祝いだそうだな」
「祝い…?」
「何だ、聞かされていないのか?君に弟か妹が産まれるようだぞ」
「……?」
言葉の意味を噛み砕くように、桜良は考え込む。
そういえば“友達”も“両親”も知らないような素振りを見せていたのを思い出し、まさか“兄弟”の概念すらも無いのかと驚いた。
「数ヶ月もすれば判る」
話題を自ら打ち切れば、また何事も無かったかのように勉強の時間が始まる。
「はい…?」
日が傾きかけ、昴が帰り支度を始める。
「…ありがとうございました」
桜良が頭を下げ、挨拶をする。
「ああ、ではまた明日」
部屋の外に出ると、使用人の老人が桜良のと思われる食事を運んできた。
「ああ、先生ですか。今日もどうも」
「貴方も、ご苦労だな。…今日は、宴ではないのか?」
盆の上には質素な料理。
昼に見た食材は一体何処に使われているのか見当がつかない。
「はあ…。それが、その…。坊ちゃんは、お部屋でお食事なさるんですわ」
「しかし夫人が身籠ったと聞いたが?桜良も呼ばれる筈ではないのか」
老人はばつが悪そうな顔をし、昴にそのまま待つように言うと、桜良の部屋へ入り食事を置いただけで出てきた。
「少々、お時間いいですかね、先生」
別の部屋へ案内されると、そこはこの老人の私室のようだった。
「坊ちゃんは、あの部屋から出てはならない決まりなんですわ」
「…それは、初耳だ。どういうことだ?」
「ずっとずっと前から、そうなんですわ」
老人は煙草を吸ってもいいかと許可を求め、昴は頷いた。
「桜良坊ちゃんは、旦那様と奥様のお子ではなくてね…。ま、養子というやつでしてな」
一口吸い、白い煙を吐く。
「奥様はこの屋敷に嫁に来られてすぐに病気をしましてな、この先、お子が孕めるかどうか危ないとお医者様に言われて…」
「成る程。それであの子が…」
「分家にも幼子がおりませんかったので、養子を頂くほかには、屋敷を継ぐものが…」
それにしても部屋から出てはならないとは、異常のような気がした。
昴は、他人の事情に首を突っ込む気はなかったが、どうしても気になり問いただした。
「奥様は悔しかったんでしょうな。自分の腹を痛めて、お子を産みたかったと…」
「それで桜良は、名ばかりの世継ぎということになっているのか」
「言ってしまえば、そうですわな。坊ちゃんは旦那様と奥様のお顔も知りますまい。産まれてすぐに引き取られてから、ずーーーーーっと、あの部屋におります」
老人が鼻を啜った。
「私ももう永くはありませんが、こうして奥様がお子を孕みまして…坊ちゃんがますます辛い立場になられると思うと…」
「養子とはいえ長子は桜良だろう。もし、夫人が男児を産もうとも…」
「はあ…。しかし奥様は少々ご気性の荒いところがおありですから、心配で心配で」
「男女どちらが産まれるか、そればかりはなるようにしかなるまい」
「そうですなあ…しかし女児が産まれりゃあ、婿を取ることも出来ますからねえ…どのみち…」
そこまで話すと、食事中の相手をすると言い立ち上がった。
昴も改めて帰り支度をし一緒に部屋を出る。
廊下まで漂う香の匂いが鼻腔を刺激する。
「いや、この老体にはたまりませんな」
「随分、強く焚くのだな」
「…子宝のまじないだそうで。年々、匂いの強さが増しているようですわ。…それじゃあ、ごきげんよう」
小さく頭を下げ、老人は桜良の部屋へ向かう。
昴はその後姿を見つめ、胸の奥が騒ぎ出すのを感じていた。
出生の秘密は判ったが、監禁同然の無意味な日々が桜良を蝕んでいる。
夫人に子が産まれれば一層それは酷くなるだろうと懸念した。
***
時が過ぎ、弓城家に産声が響いた。
産まれたのは男児だった。
「弟が出来たな、おめでとう」
どのような反応が返ってくるかと構えてしまったが、桜良は昴を真っ直ぐに見て言った。
「ありがとうございます、先生」
てっきり“オトウトとは何ですか?”とでも聞かれると思っていた昴は、予想外の返答に驚いた。
「爺やから聞きました。僕は、兄になったんですね」
老人は夏の暑さに体調を崩し、寝たまま何日も過ごす事が多くなっていた。
それでも桜良の部屋に出来る限り訪れては様子を見ているらしい。
「ああ、そうだ」
「弟の顔を…、見てみたいです。赤子とは、とっても小さいのでしょう?」
初めて、桜良が笑顔を見せた。
「小さかろうな」
その表情に驚きつつも、昴は胸が温かくなった。
「僕は…、僕よりも小さな子を見たことがありません」
「ああ、そのうちに見られるのではないか?」
「あは…、先生のそういうお顔を、初めて見ました…」
また、桜良の顔が綻ぶ。
無意識に微笑んでいたらしい。
「桜良こそ、そのような顔が出来るのだな」
思わぬ収穫に、その日の勉強はいつになく弾んだ気持ちで終えることが出来た。
まじないの香は、いつの間にか焚かれることはなくなっていた。
産まれる命があれば、終わる命もある。
あの使用人の老人が、秋を待たずに世を去った。
勉強を終え玄関に向かって歩いていると、見慣れない女性が盆を運んでいる。
「ま…、お顔を拝見するのはお久し振りですわね、先生。いつもお世話になっております」
よく見ればそれは当主夫人で、一年近く経ったにも関わらずこれが二度目の出会いだった。
「これは夫人。どちらへ?」
「あら、息子の食事くらい、わたくしだって運びますのよ。なにせ爺やが亡くなりましたでしょう?」
「あなたが、最近は…?」
「ええ」
上品な笑顔を向けられたが、瞳は笑っていない。
「食事の時くらいは、桜良の顔も見なくてはね」
「あまり、桜良の部屋へは行かれないので?」
「当家の教育方針ですの。世継ぎですもの、常に勉学に励んでもらわなくては」
昴は、夫人に悟られぬように眉をひそめた。
「次男も産まれたことですし、兄としてますますしっかりしてもらわなくては…」
息子、世継ぎ、兄、と、何かと言葉を強める声を、昴は黙って受け流した。
それでは失礼、と昴の前を横切る。
玄関まで行ったものの、急に胸騒ぎがして廊下を戻り、影に息を殺して様子を伺う。
いくらも待たないうちに夫人は戻ってきて、昴に気付かないまま去っていった。
これといって不審な点は見当たらなかったので、昴はそのまま帰宅した。
――今思えば、様々なことが悔やまれる。
食事を運ぶ夫人こそが怪しかったというのに。
使用人の老人が亡くなり、桜良の身の回りの世話をする人間が、もっとも理解してくれた人間が消えた。
そこへつけて突然、今更のように母親の顔をして現れたあの女を止められなかった――
昴がその翌日弓城家を訪れた時に聞いた言葉は。
「桜良は、おりません」
その言葉に全てが詰まっていた。
昴はすぐに察した。
しかし事実を指し示す証拠はどこにも残っていない。
喪服に身を包む当主夫人は、長男が死んだというのに、腕の中の、自分の産んだ次男――血筋の上では真実の長男を愛おしそうに見つめている。
「申し訳ありませんが先生、これきりですわ。昨日までの謝礼をご用意しておりますので、これで…」
「せめて何故亡くなったのか、それだけでもお聞かせ願いたい」
語気強く聞いても、
「深くは聞かないでくださいまし」
「しかし、あの子は私の生徒で…」
「不幸中の幸い…。世間様にはお披露目をしていなかった子ですわ。おかしな噂も立つことはないでしょう。ともかく桜良はもうおりませんの。どうか、あの子のことはお忘れになって、もうお引取りくださいませ」
しかし毅然とした態度で遮られる。
勉強を教える相手が居なくなった昴はそのまま職を解かれ、呆然と庭先から屋敷を眺めた。
「桜良…」
この広大な庭を見ることもなく、小さな部屋だけが自分の世界として生きた小さな命は、もう居ない。
そこで初めて、昴は桜良に恋慕にも近い、強い強い情を抱いていた事を知った。
何年経っても想いは消えず、あの夫人への憎しみも同時に増した。
人間に溶け込んでいた昴は、妖狐本来の生活に戻った。
昴は、当主夫婦の夢に現れ幾度となく囁いた。
「あの子を奉れ…社を建てろ…庭にあの子と同じ名の樹を植えて、末代まで護り抜け…」
そして、強力な呪いをかけた。
「今後ただひとりとして、この血に男児が生まれぬように!」
当主夫婦は夢に怯え、社を建て、櫻の樹を植えた。
それを確認した昴は、それ以来屋敷には近付かなくなった。
妖怪である昴は、同族や妖怪以外の人外の存在とも多少の交流はあった。
時折、空気に彷徨う幽霊とも言葉を交わす。
「やあ昴、お元気かな?」
「十六夜か。君は…いや、霊に元気かと問うのは失礼だな」
「気にするな。わしもすっかり立派な浮幽霊、京に都のあった日より今の世の方が居心地が良いくらいだ。国盗り合戦も最早見飽きたし、徳川の世が終わった時はせいせいしたぞ」
「そうか。なるほど違いないな」
幽霊の十六夜は、平安の世から彷徨い続けている。
聞けば実の妹と恋に落ち、心中をした末の姿だという。
自らの肉体はおろか骨すらも土に還っているはずだと哀しく笑った。
誰かが正しく供養しない限り成仏も出来ずにいる。
「そういえば、久方振りにあやしを見た」
「あやし?…そういえば近頃はあまり見ないな」
誰かの想いが、死者の魂をこの世に繋ぎとめている証の存在、あやし。
「そなたはここ何年か人間に化けることが多くて、昼間に出かけて夜は寝ておっただろう?」
妖怪の自分には無縁と思っている昴は、話を適当に流そうと姿勢を崩した。
「この高台の一番上の屋敷だ。随分立派な櫻の樹が植えてあるな」
「櫻の樹…?」
昴は軽い眩暈のようなものを感じ、十六夜の言葉を繰り返した。
「子供の魂だな。自分の名は桜良だと言っていた。…そのうちに、忘れるのだろうが」
これまで何人かのあやしを見知っている十六夜は、現世との因縁を少しずつ忘れていくことも知っている。
自分は愛する妹を忘れられないから、少々羨ましいと冗談めいて言ったこともある。
「自分の姿が何故変わったのかを知らないようだった。…恐らく、死んだことにすら気付いていないのではないだろうか…」
「……」
「裏庭の社でうろうろとしていたので、ならば自分の部屋に行ってみてはどうかと言った。ところがその子は、行き方が判らないとぬかすのだ」
昴はきつく瞳を閉じた。
(それは、そうだ。あの子は小さな世界しか知らないのだから)
きっと誰かが、桜良を想ってくれているのだ。
もしかすると、養子に出したという本当の両親かもしれない。
「昴?…どうした?」
「いや…。何でもない」
***
数十年後、弓城邸に通っていた頃の昴を覚えている人間はもう居ない。
呪いの通りに弓城の血筋には男児が生まれなくなっていた。
時折、あの子宝のまじないの香りが風に乗って漂っている気がしたが、昴は気が付かないふりをする。
桜良の本当の両親も、天寿を全うしていておかしくないほどの時が過ぎたのだが、それでも昴は屋敷へ近付くことはせず、静かに桜良との思い出に耽る日々を送った。
いつまでも同じ外見では不審がられるので、適度に住処である神社に篭るようにはしていた。
ある夜、また十六夜が現れた。
「久し振りだな」
昴が声を掛けると、十六夜はにこりと笑う。
「いやはや、わしには時の流れというのは麻痺して判らん。月の満ち欠けぐらいしか気に留めていないからな」
透き通る霊体に酒を振舞うことは出来ないので、ふたりで月を眺めることにした。
「いつぞや話したあやしの話、覚えているかい?」
十六夜が静かに語り出す。
昴は身を硬くした。
忘れる筈も無い。
こんなに時が経った今も、あの少年に向ける想いは褪せていない。
何故こんなにも甘く胸が痛むのだろうと自問しても、焦がれているのだからそれ以外の理由が見付からない。
「まだ…成仏していない」
「…何だと…!?」
長く生きていて時の概念が薄れつつもあったが、決してこれまでの年月を短いとは思っていない。
「想いの主は、余程の長生きなのだな」
「……」
「例えば、妖怪とか」
「…!」
人間の想いがあやしを作るというのは知っていても、妖怪も…というのは聞いた事が無い。
「そんなことが、あるのか!?」
しかし昴の想いが桜良を成仏させていないのだとすれば説明がつく。
「推測だ」
十六夜はさらりと返す。
「しかし万が一妖怪に想われているのだとすれば、厄介だな。成仏が難しい」
「…それは…」
「そなたのような強力な妖狐ならば尚更、な。今は七尾だったか?」
「ッ…!」
昴は急に焦りだす。
本当に自分がそうなのだとしたら、今後九尾になるのは同時に、桜良が永遠に現世に留まることになる。
そうなれば輪廻転生は叶わない。
終わりの無い運命となる。
昴はむしろ九尾になることを望んでいたが、桜良のことと天秤に掛けられては悩むほかない。
「しかし想いの主が判らぬ以上はどうすることも出来ないな」
「あ、ああ…」
「わしはその子に新しい名を与えた。雷、と」
「雷…」
「輝くいかずちのようで、美しいだろう?」
口に出し、脳に響かせ記憶に刻む。
「わしに段々と懐いてきて、最近はわしの口調を真似するようになった」
子供を育てているようだと笑った。
「それに、初めて会った時より少し姿が変わってきたな。今では龍神の如き立派な爪まで携えておるわ」
事情を知らない十六夜は、また笑う。
「…そう、か」
「わしも多くは会ったことはないが、段々に人間とはかけ離れた姿になっていくようだ」
「そうなのか…?」
「それを憐れと思うか、美しいと思うかはそれぞれだろうがな。もし雷に興味があるなら会ってみては
どうだ?退屈はしないぞ」
昴も曖昧に微笑み返した。
雷には会わない。
会うわけにはいかないと心に決めて。
全ては、自分が原因だったのだ。
***
昴はふいに目が醒め、もぞもぞと寝返りを打った。
「…ン?兄上様?どうしたの?」
「いや…、夢を見ていただけだ」
「ふぅん…そーなの…?」
蛍はぼんやりと薄く瞳を開いたが、直ぐにまた眠ってしまった。
これ以上時間がかかると、昴が人間を襲わなくとも蓄積している妖気で自然に九つ目の尾が生えてしまうことも考えられる。
蛍は不完全ながらも徐々に生きる術を覚えてきているし、世を去る機としては悪くない。
「桜良…。私はお前が憐れだ。愛されないまま、望まれないままに死に、妖怪に想われ、段々に異形となり永遠に彷徨うのならば、本当に憐れだ…」
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