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其の柒
夏が来た。
雷は相変わらず奔放で、風太と春風も睦まじい。
妖怪がどうのという話も、環琉は半ば忘れかけていた。
「あ…昴先生、こんにちは」
ぼうっとした足取りで歩いていた環琉は、路上で昴と偶然にも遭遇した。
「やあ、斎木君。散歩か?」
「あ、ええ…。今日はちょっと…」
口籠ったが、内緒にする話でもないので、囁くように続けた。
「薫子お嬢さんの祝言の準備で、お屋敷の中が色々と騒がしくて」
もう失恋と言うかなんというか、泣いても泣き切れない状況に環琉は複雑な気持ちだった。
「なるほどな。とにかくめでたいことだ」
「…ええ…。皆さん忙しいようなので、僕はどこかでゆっくり勉強しようかな、と…」
ならばと、昴は自分の教室へと誘った。
「でも、先生のお邪魔になるのでは…」
「いや、いい。それに今日は置いているものの整理をするつもりだった。授業は休みだから静かだ」
「そうですか、ありがとうございます」
子供たちの居ない教室はやけに静かで、紙をめくる音と衣擦れの音しか響かない。
そうでなくともこんなに静かな環境は久し振りだった環琉は、いつの間にか昴の存在を忘れるほどに勉強に没頭した。
ふいにコトリと音がして顔を上げると、昴が茶を差し出していた。
「あ…、すみません!」
「あまり近い距離で文字を見ていると、目を悪くするぞ」
一息つけと自分の茶も用意し、茶碗に口を着けて昴は目で環琉に合図した。
少し見ないうちに、教室内がすっかり片付いていることに気が付いた。
「あれ…?棚のものはどうしたんですか?」
子供たちの書いた半紙が積まれていた棚には、何も置かれていない。
入ってきた時は確かにあったのだ。
「ああ、全てまとめた」
「大掃除でも?」
「…ここを、閉める」
そう呟く昴の脇には、沢山の包みが出来上がっていた。
中にはその半紙たちが入っているのだろう。
「辞めてしまうんですか?」
「ああ。身の回りの整理をしなくてはいけないからな。後を濁すわけにはいかない」
環琉は、椀の中の茶を見つめた。
「そうですか…残念です」
視線を上げると、昴と目が合う。
「でも、そうしたら、貴方はこれからどうされるんですか?弟君だって…」
「斎木君、君は…」
「はい?」
「自分が焦がれる人間が死んだら、どれだけ想い続けることが出来る?」
「え…?何でしょう、急に」
突然振られた話題に困惑する。
「もし君に想い人がいて、そしてその者がこの世を去っても、君は想い続けるか?」
「…普通は、そう、でしょう…」
昴に真っ直ぐに見つめられて訊かれると、訊問にでも遇っているような気になる。
「ならばその想いは、何年続くだろうか?」
「え?えっと…その…」
具体的に何年、と問われてはどう答えていいのか判らない。
環琉は黙ってしまった。
「私は…、私ならば、その想いは百年を超える。本当に、恋焦がれているならば」
「それは随分と…でも、人はそんなに生きられません」
昴でも冗談を言うのかと、環琉は少しだけ笑った。
「人は…そうだろうな」
小さく呟いた声は環琉には届かなかった。
「自ら想いを断ち切らねばならない時とは、どういう時だろうか?」
また、質問が投げられる。
「その…すぐには無理ですよ、そういうのは」
環琉は正直に口にした。
「大事に想うのならば、…大切な人の存在が自分の中で消える日が具体的に何年かなど、想像も出来ません…」
「そうか」
珍しく昴が笑った。
「確かにそうだ。ならば強引にでも、自分を消すしかないのだよ」
「はい?」
「もう、時間が余り無い」
昴が何を言っているのか環琉には判らない。
自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「話が飛躍してすまないが、今度君の部屋を訪ねても良いだろうか」
「え?ええ…それは勿論」
「いや…やはり、君から来て貰う方が良いかもしれないな」
「僕はどちらでも…。いつ、どこに伺えばいいでしょうか?」
昴は少し考える。
「…次の新月の夜に、白道神社まで来てくれないか」
「神社まで、…ですか?」
環琉はその言葉に引っかかるものを感じた。
いつだったかの疑惑が、また涌き上がってくる。
「…分かりました」
お互い見つめ合った後、少し間を置いて、頷く。
昴がそろそろ出ると言うので、環琉も一緒に教室を出ることにした。
「もう、屋敷も落ち着いていよう」
「そうですね…では…、また後日」
屋敷へ向かってゆっくりと歩き出すと、背後から昴に声を掛けられる。
「新月までの間に晴れる夜があれば…」
「え?」
「雷に、伝えてくれ。昴はお前を想っていた、と」
「!」
環琉が言葉を失ったと同時に、昴は足早に去った。
「やっぱり…そうなのか…?」
***
雨が続き、雷に会えたのは次の新月までもう翌日という夜だった。
環琉にとって、自分の考えをまとめるには丁度いい時間だった。
「今一度確認したいことがあります」
「何だ?」
改まった様子の環琉に、寝転がって雷は答える。
「君達あやしは、誰かに想われている間は成仏出来ないのでしたね?」
「…そうだが?」
雷は今更な質問に、面倒そうに溜息をつく。
「君の事を想っている人物が、判ったような気がします」
ピクリと耳を動かし、雷が反応した。
「…何だと?」
「僕はずっとその人物を知っていたのに、君と結びつかなかった…でも、恐らく…」
「ほー…」
雷は起き上がり、膝立ちで素早く移動すると環琉の袖をぐいぐいと引いた。
「で、何処の年寄りだったのだ?直ぐに死にそうか?」
金色の瞳が輝いている。
「直ぐに死ぬどころか…むしろ」
「ん?何と言ったのだ?よく聞こえん」
口籠った後、環琉は顔を落とした。
「雷、僕は…」
「ん?」
「君の成仏を願っていた筈なのに、今更ながら寂しいんです」
僅かに頬を染めて打ち明ける環琉に、雷は笑顔になった。
「やっとわしの魅力に気付いたのか。惚れたか?ん?」
「…本当に減らず口ですねえ。情がわいた、というやつですよ。どんな形であれ、お別れは寂しいものなんです」
「環琉は本当に真面目な奴だな。子供の冗談にぐらい、ちゃんと乗っかってこい」
「君が子供なのは見た目だけじゃないですか。全く…」
少し笑ってから、姿勢を正して向き合う。
なんとなく、雷も姿勢を正してしまう。
「次の新月の晩に、僕はその人物と会う約束をしました」
「…次の…新月…それは、明日、ではないか…?」
深く頷いてから、真っ直ぐに視線を合わせる。
「僕の考えが正しければ…きっとその人は、自害する気でいます」
「自害?何故だ?もう、かなりの歳ではないのか」
「その人は…、自分の想いは百年も続くと言っていました。そして、自ら想いを断ち切らねばならない時、強引にでも自分を消すしかないのだとも」
昴の言葉ひとつひとつを思い出す。
「昴という人物を、知っていますか?」
とうとう環琉は、口に出した。
「スバル…?」
「いつか僕が保護した子供の、お兄様です」
雷も妖怪騒ぎを思い出したらしく、ああ…と頷く。
「やはりあの子は…あの兄弟は妖怪だったのではないか、と」
「だとしたら、そいつらがわしと何の関係がある?昴などという男は、知らないが」
「いいえ…君が忘れているだけです。きっとあの人は、生前の君と何か関わりがある筈なんです」
環琉が、いつもの呑気な雰囲気ではない。
「妖怪とは百年も生きるものだとしたら…君がいつまでも成仏出来ないという辻褄を合わせるには…彼がそうであるとしか…」
「……昴…昴…誰だ、判らん…」
思い出せない名に困惑する雷の瞳が揺れている。
「君は相当な時を過ごしてしまったんですね…。もしかしたら、生前の君も昴さんのことを、とても好きだったのかもしれません」
「昴…昴、昴…」
懸命に思い出そうと、雷の表情が歪んだ。
「君と昴さんがどのような関係だったのかは僕にも判りませんが、事実君は昴さんに想われている…それも、百年」
「わしは百年も想われていた相手の事を…思い出せない!それとも、最初から知らないのか?どちらなのかも、判らぬ!」
「昴さんが本当に妖怪だったとしたら、僕にはその寿命が見当もつきませんが…僕なんかには終わりの見えない人生を送るのでしょうね」
雷の背中を優しく撫でた。
「だから、君を成仏させるには、自分が命を絶つほか無いという結論に至ったのですよ…きっとね」
「わしは、その男に会うべきなのか…?」
見つめる瞳に、首を緩く横に振る。
「それは彼の決心を鈍らせるだけです。僕が、会ってきます」
環琉は雷の頭を、子供にそうするようにぽんぽんと軽く撫でた。
「環琉…?」
「昴さんは、最後まで見届ける役目を僕に託したんです、きっと」
「環琉は運が良いのか悪いのか…」
「褒めてますか?それ」
「さあ、どうかな…。だが、わしが見送られる立場になったのは確かだな。環琉の人生には関係がなくとも、環琉が現れなければわしは永遠に成仏できないかもしれなかったわけか」
「関係…なくもないですよ。誰かを想うこと、想われることが、あやしという形となってこの目で見ることが出来たんです。それは勉強しても絶対に判らなかった」
「うん…、そうか。ならば、意味のある出会いだったのだろうな」
雷は金の瞳を真直ぐに向けた。
「多分…いえ、きっと。これでお別れですね」
「…うむ。突然過ぎだ」
「出会いだって突然でしたよ」
「…いざとなると…気持ちが落ち着かん。成仏こそ、わしがただひとつ望んでいた事だったというのに…」
「ええ…。僕も、そうです。君の成仏を願っていた筈なのに。明日は新月…いままでなら、何日もせずにまた会えましたが…」
前向きな言葉を掛けようと決めてきたのに、考えた台詞はひとつも出てこない。
「雷」
「…何だ?」
「君が生まれ変わったら、また会えるように願ってもいいですか?」
「ははっ…今度はこちらが年下だな!歳の差はかなり開くではないか!なあ!お前確か、いま十八ではなかったか?」
「この瞬間の歳の差に比べたら可愛いものですよ。いま、百近くは離れていることになるわけなんですから」
すっかり切り返しの上手くなった環琉も、笑顔になる。
その夜はそれきり一言も言葉を交わさず、庭に出てただ並んで座り、身を預け合い、細すぎる月を見上げて朝まで過ごした。
不思議と肌寒さは感じなかった。
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