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其の捌
環琉は白道神社の敷地に入り、参拝者が休憩するための椅子に座っていた。
時間の指定は無かったが、行けば昴の方から出てきてくれると確信していた。
暫くすると砂利を踏む音が聞こえてきて、その音に顔を向けると、昴がゆっくりと歩み寄って来ていた。
「こんばんわ。約束どおりに来ましたよ」
「わざわざ、すまない」
心なしか昴は足を引きずっているように見えた。
「昴さん?具合でも?」
「ああ…大事ない、気にするな。新月の日はいつもこうだ」
近くまで来て漸く判ったが、表情も固く冷や汗のようなものも浮かんでいる。
立ち上がって支えようとすると、昴が小さく呻いたようだった。
「すまない…。奥の本殿まで…」
「…本殿?…はい」
本殿までは距離があったので、体格が良く体重のある昴を支えるのは環琉には堪えた。
「最初から、そこへと言えば良かったな…」
「いえ…。それより、やはりお辛そうですが…」
「少々力が入らないだけだ」
本来ならば堅く閉ざされている筈の本殿の扉は、力を入れなくても簡単に開いた。
「いいんでしょうか、このような所に勝手に入って」
罰が当たるのではと環琉は不安がる。
「いいのだ…。ここが、私の住まいなのだから…」
環琉ははっとして昴の顔を覗き込むと、薄く笑っている。
(やはり…?)
本殿の中は広く、いくつかの蝋燭に灯が燈されていて、仄かに赤く照らされている。
「…そういえば、弟のあの子は…?」
「更に奥の部屋に寝かせている。次に目覚めるのは…春だ」
「えっ…!?」
扉を閉じると、昴は崩れるように座り込んだ。
「あれは、弟は…君を気に入っていたようだが、安心してくれ。君の匂いが残らぬように、この部屋には術を施してある」
肘を置く台に身を預け息を整えているのを、環琉は静かに見つめた。
「斎木君…君は、もう気付いている筈だ」
「……」
短い沈黙の後、環琉は頷いた。
昴は口角を上げて微笑むと、また小さく呻いた。
「…昴さん、やはり貴方は…」
「私は尾を八つ持つ狐だ。そして今宵は新月…もっとも力の弱まる夜だ。命を絶つには絶好の夜だな…」
「……お命を…」
「月に力を与えられているのは皆同じだ。妖怪でも、あやしでも…恐らく、人間でもな。君は、あの子…雷と関わりがあるようだから、聞いて欲しい。そして、私の最期を見届けて欲しい」
昴は語りだした。
百年もの昔、弓城家に家庭教師として通っていたこと。
長男は養子だったこと。
強い想いを抱いたこと。
その少年が、殺されたこと。
そして、弓城の血に呪いをかけたことを。
「では雷は、…もとは桜良という名の、弓城家の養子だったということですか…」
「…そうだ。私はあの家の香の匂いが嫌いだ。桜良の人生をなかったことにした、あの匂いが。…風に乗って香るたび思い出す」
ひとつひとつゆっくりと語る昴は、だんだんと瞳を開ける間隔が短くなっていく。
本来ならば新月の夜は決して動かずに眠るだけなので、喋るだけでも体力は限界のようだった。
「私が憎いか」
「…え?」
「たったひとりの子供の死のために呪いを行い、その大切にしたい魂は百年もの時を彷徨わせている…身勝手だとは思わないのか?」
薫子や、その家族を想うと男児が産まれないと嘆く姿に自分も辛くなる。
しかしその因縁がそんなところにあると初めて知った環琉は、どう言葉を掛けていいか判らない。
「誰かを愛しいと、恋しいと想う気持ちを…どうして僕が咎められますか?」
それでも昴ひとりを責めるわけにもいかない。
「妖怪にも…私にも、誰かをあやしに出来るほど強い想いを抱くとは思わなかった」
「それだけ、貴方の想いは深かったのですね…」
昴は瞳だけで笑う。
「…もう、時間が無い…。次の新月では遅い」
「どういう、ことでしょう?」
「まもなく私は九尾になる。判るのだ…明日にでも、だ…そうなると、この命が永遠になる…言っている意味が、判るか?」
昴は近くにある刀を一振り、環琉の手に握らせた。
「これは…」
「最後に手合せ願えないか」
「え、と?」
昴は自分も刀を握る。
「人間の君には申し訳ないが、私はこのような新月の晩こそ弱々しいが、自分がいつか死ぬなどということを考えたことすらもなかった。そして生きることに執着もない」
刀身を鞘から抜く。
「自分でこの命を終わらせることにも、なんの恐怖もない。あの子が救えるという喜びすらある」
ゆっくり立ち上がる。
環琉の気のせいか、先ほどより口調もはっきりとしてきているようだった。
「だが終わりは終わりだ。最後に一度、手合せ願えないか。君の剣の腕は惜しいと思ったのだ。私に言う権利はないかもしれないが、…冥土の土産、というやつだ」
昴の最期を見届けるのであろうという覚悟はある程度決めてきたので、それが願いだというのならと、環琉も強く頷いて刀を抜いた。
「ただ横たわっているだけの無抵抗な貴方を斬れと言われるのではないかと思いました…、それだけは、嫌です」
「ゆくぞ、斎木君」
「…はい」
当然お互い殺し合うつもりなどではない、しかし、妖狐の姿に戻るほど昴は本気で応えた。
「それが貴方の本当の姿ですか…!」
「そうだ。変化の瞬間を人間に見られるのは屈辱に等しいが、今やそのようなことはどうでもいい。…私のこの姿は恐ろしいか?」
「剣を交える相手に、人間も妖怪もありません!」
「なるほど、確かにそうだ…。…私は、この姿をあの子に見せられるほど、あの子と心を通わせられたらと願っていた…ただ傍に居たかった!!」
「…!」
「しかし想うことしか結局は出来なかった…とはいえ、その想いは、強すぎてしまった…百年…!それどころか永遠に縛り付けてしまうところだった…!」
高い音を立てて、銀の光が何度もぶつかり合った。一滴の血も流れないほどにお互いの腕は互角だった。
「…ありがとう、斎木君。楽しい夜だった」
「僕も、です…」
お互い膝をつくほど疲労し、荒い息が部屋に響く。
「昴さん…弟君…、あの子は、どうなるんですか…?このまま…」
恐らく今夜の事を知らせぬように、昴が強制的に眠らせたのであろう彼の弟を思い出す。
目覚めたら、突然ひとりになるのだ。
「この神社の…新しき主になる…まだ少々頼りなくはあるが、この私の弟…きっと立派な妖狐になる」
「いいのですか…」
気付かない内に、環琉は涙を流していた。
昴は頷いた。
「どちらかしか選べない状況になったのは私のせいだ…。私は桜良に、誰からも望まれて、産まれて、人間として許された時間(とき)の全てを使って生きて欲しい…」
先ほど打ち合っていた刀とは別の短刀を取り出すと、躊躇い無く自らの胸に突き刺した。
「ッ…!!」
「!!! …昴さんッ!!!」
前に倒れこむ昴を支えて短刀を抜こうとするが、昴は両腕で包むようにそれを隠す。
「昴さん!昴さん!!」
「っは…、私が、居なくなれば、恐らくは…」
荒い息で声を絞る昴の着物に、赤いものが染みて広がっていく。
「弓城家への…呪い、も、解けよう…」
ついに昴は床に身を横たえた。
「昴さん!」
「斎木、君……」
「はいっ!」
力の緩んだ昴の右手をしっかりと握った。
目の前でひとつの命が失われていく。
哀しいし寂しいが、同時に環琉は数日前に自身で口に出したように、それを止める権利は無いのだと判っていた。
「桜良の…雷の…」
「雷!?雷がなんですか!?」
一層力を込めて右手を握る。
「あの子の転生を、私の代わりに祈っておいてくれ…」
光が失われた瞳が、ゆっくりと閉じた。
「…昴さん!!!!」
溢れる涙が完全に止まるまで、環琉は昴の手を離さなかった。
気付けば太陽の光があちこちの隙間から差し込んでいる。
蝋燭はすっかり短くなっていて、いつの間にか灯が消えていた。
「昴さん…」
昴の亡骸は、穏やかな顔をしていた。
環琉はゆるゆると立ち上がり、本殿の扉を開ける。
木材と蝶番の軋む音が重く響いたが、不思議と力は要らなかった。
一度手を合わせると、その場を去った。
妖狐の住処がこの神社の本殿であることは恐らく今この瞬間、自分しか知らないのだろうと、環琉は胸に秘めた。
***
翌日から雷が全く姿を見せなくなった。
つまりは、どういうことか。それは直ぐに判った。
「ねえ、どうしてライは全然来なくなったの?」
春風がつまらなさそうに唇を尖らせる。
「喧嘩でもしたのか?」
風太が春風の真似をして唇を尖らせる。
「いえ…そんなんじゃ…ただ…」
「ただ、何だよ」
「ただ、なぁに?ねえ、ライはいつ来るの?あたし、お話ししたいことがいっぱいあるのにぃ」
環琉は出来るだけ明るく笑顔を浮かべると、言った。
「少し、眠っているだけですよ」
春風は会いたいと駄々を捏ねたが、風太があやしてその場を静めた。
風太は察しが良いので、なんとなく環琉の言葉の意味を理解したらしく、無言で親友の肩に手を置いた。
「また、直ぐに会えるさ」
「…そうですね…」
「おい、いい歳して泣くなよ!」
「ど、どうしたの!?わたるお兄ちゃん!どこか痛いの!?」
***
年の瀬が近付き、雪の降る日もあった。
静かな夜が続くと、むしろそれに慣れないとも思い、環琉は苦笑する。
新年がくればすぐに、大学の入試がある。
環琉はその先の事を思い描き、書物にまみれる自分の部屋を、少しずつ片付けることにした。
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