其の壱

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其の壱

今からちょうど二年前の同じ日、同じように花吹雪を見上げていた。 あの不思議な日々は今でも思い出せる。 否、忘れようにも忘れられない。 二年前の僕は、横濱にある高台の一等上にあるお屋敷で、書生として厄介になっていた… 横濱の街並みを一望できる高台にある豪邸の庭。 手入れが行き届いており、寝転び放題だ。 斎木環琉(さいきわたる)は、芝生に寝転んで空を見上げていた。 先ほどまで書物漬けになっていたから、目が若干痛い。 青空は心まで晴れ渡るようだ。 「暑いな…」 流石に日光が眩しくて、うっすらと汗も滲んできた。 日陰を探そうと、衣服に付いた芝を払い落とそうと起き上がる。 環琉は、現在は大学を目指して勉学に励んでいる。 実家は以前は高台の麓にあったが、現在は鎌倉に転居している。 大家族なので、受験に際し静かに勉学に励める場所を探したところ、弓城(ゆみしろ)家が迎え入れてくれたのだった。 慣れた土地で集中することが出来、環琉にとって願っても無い話だった。 しかしこの屋敷の広大な庭で寝転び放題、とはいっても、ど真ん中で大の字になるわけにはいかず、もっぱら隅の方で昼寝をする。 卯月も半ばを過ぎると、昼頃には過ごし易い暖かな陽気になる。 「さて」 丁度良い日陰を、ぐるりと辺りを見渡して探してみる。 「環琉さん」 「わぁっ!!」 突然声をかけられて少しだけ足が宙に浮く。 まず大きな櫻の樹が目に入ったが、その下には誰かがいるようだった。 「薫子(かおるこ)さん…」 少女がこちらを見ていた。 にこりと微笑み、小さく手を振る姿に、思わず環琉の頬が赤くなる。 「驚かせてしまいましたかしら」 「あ、いえ、あの、ちょっと心臓から口が出そうに」 「心臓から、口…!ですか?!」 「いえあの!口から心臓が!」 「…どちらにしても大変ですけれど、お医者様をお呼びいたしましょうか!?」 それは比喩なので、と慌てて繕い、襟元を正す。 「その…、薫子お嬢さんも、外で読書ですか」 「ええ、お天気がよろしいので」 弓城薫子(ゆみしろかおるこ)は屋敷の娘で、環琉の憧れの存在。 身分は違えど、地元なのでお互いのことは幼少期から見知っている。 環琉が一も二も無くこの屋敷に下宿することを承諾したのは、多少不純な動機もあったことは間違い無い。 しかしすでに彼女には両親の決めた婚約者があり、憧れとはいっても相当遠い場所にいる。 上品に、腰の下には白い手巾(ハンカチ)を敷いて座っていた。 「お隣へいかがですか?」 「あ、じゃあ、失礼して…」 微妙な距離を空けて座り込む。 なにやら柑橘系の好い香りがした。 流行の香水というやつだろうか、慣れない香りにドキドキして、環琉は薫子を直視できなかった。 「お嬢さんは、何を?」 自分の持っていた本をめくりながら、相手の読書が気になり声を掛ける。 「学問書ではないの…。物語ですのよ、子供っぽくてお恥ずかしいですわ。書生さんにお見せするような大したものではなくて…」 「いえ、そのような。僕も時々読みますよ」 「あら、そう?私てっきり貴方はそういうのにご興味ないと思って…あの、ごめんなさい」 「学問書ばかりでは、頭が辞書のように四角くなってしまいますから」 「まあ」 707a296a-3132-4ce1-9481-f342a3cd5d55 笑い合う、その瞬間が環琉にはひどく嬉しかった。 暫くはお互いの読書に没頭していたが、ふいに誰かのすすり泣く声が聞こえた気がした。 「ん…?」 薫子もそれに気づいたようで辺りを見回す。 「何かしら…?」 ふたりの居た櫻の樹は、敷地の一番はずれにある。 となると、近隣の住人だろうか。 この辺りは富豪が多く住んでいるし、社を建てられるほどの財のある人間なのだろう。 「…あの、お社?」 「…の、ようですわね」 何かの社がつい最近建てられたのはふたりとも知っていた。 時々供え物が交換されたりと、誰かが頻繁に訪ねてきているとも。 そっと樹の影からそちらを見やると、若い夫婦がしきりに社に話しかけている。 「暖かくなってきたね。今日は蜜柑を持ってきたよ」 「お向かいのお嬢さんは、今年七つのお節句をするんですって…お前が生きていたら一緒にお祝いができたのにねえ」 「ここは見晴らしがいいだろう?お前の好きな海が良く見えると思ってね」 涙ながらに、社に話しかける若夫婦。 風車やら、木でできた玩具やらがひしめくように供えられている。 「子供を…亡くされたのね、きっと…」 薫子が呟く。 優しい薫子は、状況を察すると瞳に涙を溜めていた。 「そうですね…まだお若い夫婦なのに。可哀想に」 立ち聞きもよろしくないと、ふたりはまた元の位置に腰を下ろす。 「…哀しいですわね。こんなに、櫻の美しい季節なのに」 「ええ…」 「そういえば環琉さん、お社といえば、当家にもあるのをご存知?」 「そうなのですか?ご先祖様のものでしょうか」 「多分…。幼くして亡くなった方のようです。東の蔵の裏手に…もう、かなり古いそうです。子供の頃に聞いたので、怖くて探したこともないのですが…」 「そうですか…」 東の蔵のあたりは小さな雑木林になっていて、私有地だ。 他の家の子供が奉られるはずはない。 「でも、家の者の誰に聞いても、どなたのための社か知らないと申しますのよ。教えてくれた婆やは、もう亡くなってしまって、おりませんし…」 使用人の最年長者だった老女は、環琉も知っている。 数年前に他界してしまった。 「では、僕が探してみましょう。見つけましたら、花でも供えておきますし」 「本当ですか!?そうしてくださると、嬉しいですわ」 薫子が微笑む。 環琉は、何気なく言った言葉に彼女の笑顔を見ることができて嬉しかった。 彼女が、少なからず気に留めている社に足を運ぶことで喜ばれるならば、悪くない。 「では早速、夕方にでも」 *** 春先だったので、野花を手に入れるのは容易かった。 数本を手に持って、東の蔵へ赴く。 緑が生い茂り、まだ陽が沈みかける前であるにもかかわらず薄暗い。 辺りの空気は、夏もまだ先だというのになぜだか湿っぽい。 背の高い草をかき分けて進むと、 「あった…」 薫子の言ったとおり、小さな社があった。 何年もの雨風で、石造りの部分も、木材の部分も黒くなってしまっている。 「やはり子供が奉られたのだろうか…」 供えてある風車は破れたり柄が折れたりしてしまっていた。 いくつかの陶器の茶碗もひびが入り、ひっくり返ったりしているものもある。 「可哀想に…忘れられてしまったのか」 場所の所為もあり少し不気味だ。 この屋敷の使用人の誰も世話をしていないのだろう。 「知っていながら放置しているのであれば、余計に関心しないな…」 とりあえず目立ったもの――茶碗などを綺麗に並べたり、壊れた風車をまとめてしまった。 「今日は、こんな花しかなくてすまないね。新しい玩具やお菓子を、今度あげますよ」 そうだ、自分が手入れをしてやればいい。 自分は心霊の類はあまり信じている方ではない。 しかし墓だとか社を放置するのは良い事とは思わない。 ここを華やかにしてやれば、この子供も浮かばれるだろうし、いずれ薫子も怖がらずお参りするだろう。 手を合わせてから、一礼して立ち去ることにした。 夕陽が、横濱の街を紅く染める。 太陽を追うように、白い月がもう見えていた。 *** 「よう、環琉」 出先から戻る途中、ふいに声を掛けられた。 聞き覚えのある声は親友のものだった。 「やあ、風太(ふうた)。珍しいですね…徒歩でお出かけとは」 風太は、環琉の下宿している屋敷の二軒隣に住んでいる男爵家子息で、親友。 いつもは大抵、運転手つきの車で出かけているので、車上から声を掛けられることが多い。 「いや、車は待たせてあるんだ…お前が見えたからな。乗ってくか?」 「それは、どうも。ではお言葉に甘えて」 少し離れたところにある車に乗り込み、数分間の寛ぎを分け与えてもらうことにする。 環琉と風太は薫子同様、幼少からお互いを知っている。 今でこそ無二の親友だが、出会ってしばらくの関係は最悪だった。 ふたりは一時期、真剣に薫子をめぐって憎みあっていた。 環琉は今でこそ勉強漬けの毎日だが、二人とも同じ剣道場に通っており、何度となく勝負した。 しかし薫子が十五歳になった日、婚約者を決められてしまったことで、ふたりの意思とは無関係にあっさりと闘いは終了した。 行き場のない情熱と青春は、最大の恋敵を親友に変えた。 さんざん言いたいことを言い合ってきたので、気兼ねもなく、お互いを友として受け入れられた。 なんとも寂しい友情の始まりではあったが、それなりに今は楽しい。 「なにか買い物でもしてたのか?」 環琉の包みが気になるのか、風太が尋ねてくる。 「ええ、お団子です」 「…団子?お前が?珍しいじゃん」 環琉は甘いものが苦手だ。 当然それを知っている風太は、頷く環琉を不思議そうに見る。 「あ、でも食べるのは僕じゃなくて…お供え物、なんですけど」 「お供え物?何に?」 先日の社の話を、風太は興味深そうに聞いてくれた。 「ああ…そういや、高台で見晴らしがいいからってんで、薫子んちの土地の一部を買い取って建てたって聞いたかな。俺の親戚筋の家の子供なんだけど。…つっても、俺は一目も会ったことがなかったけどな」 「…そうなんですか…」 「生きていれば、今年…確か、数えで七歳だな」 お参りに来ていた若い夫婦の子だろう。 「お向かいのお嬢さんは、今年七つのお節句をするのですって…」 あの言葉がよぎった。 世の子供はすくすくと成長する。 しかし、あの夫婦には――。 そしてこれから自分がお菓子を供えようとしている社の子供は、何歳で時が止まってしまったのだろう。 「子供が亡くなるというのは、例え見ず知らずであっても辛いですね…」 「まあな」 涙すら出そうになった。 「では…その社にも、参ることにします」 「律儀な奴。お前らしいよ」 風太は笑った。 「褒めてくれて有難う」 屋敷に戻る頃には、夕食の準備が始まっていた。 直ぐに社へ向かいたかったが、家賃代わりに夕食の準備を手伝うのが日課だったので、慌ただしく台所へ走った。 団子の存在を思い出したのは、湯を浴びた後になってしまっていた。 「いけない…、今日中に供えなくては」 思いのほか風が暖かく、湯冷めの心配もなさそうだ。 それに月が明るいので、視界に不自由もない。 心地よい夜だった。 「今日は、お団子を持ってきたんですよ。僕は甘いものが苦手なので、どういうものを選んでいいのか、わからなくて」 笹の葉の包みを解く。 「気に入ってくれると、嬉しいです。カラスや猫に荒らされては困りますから、明日には片付けますけどね」 そして手を合わせ、立ち去ろうとした瞬間だった。 「片付けられては、困る!今食う!」 どこかから声がした。 「!?…えっ…!?」 あわてて辺りを見回す。 使用人の誰かだろうか、あまり聞きなれない、高い声だった。 「みたらしと餡子が一本ずつか。ま、少々足らん気もするが……あ、これは美味いではないか!なかなかだぞ」 「え…!」 見ると、供えたばかりの団子が一本、消えている。 「どこを見ている。ここだ」 「――!!」 社の屋根に、子供が腰掛けている。 手には、環琉が供えた団子。 「な…!何ですか、お前は…!お社の上に、…しかも、団子…!」 誰とも知れない子供が、罰当たりにも社の上に寝そべりながらお供え物の団子を美味そうに頬張っている。 「ど…何処の子か知りませんが、これは君のものではありませんよ!」 それにこんな時間に出歩いているなんて、親に連絡しなくては危険だ。 環琉はそう思い、手を掴もうとした。 「え…」 子供の手は、人間のそれと違う形を、していた。 長い爪のようなものが、着物の袖からと伸びている。 きょとんと見つめる瞳は、金色の輝きを放っている。月に照らされてまるで猫のようだ。 ――明らかに、異形。 人ではない。 「…!?」 環琉は言葉を失って、ただその子供を見つめた。 「これは、わしへの供え物だろう?わしが食って何が悪い?」 「え……」 長い爪で、団子をもう一本ひょいと摘む。 「先日から、社を掃除してくれていたのもお前だろう?」 金の瞳が細くなる。 にいっと、笑顔を向けられた。 「…君は、」 やっとのことで声を絞り出す。 「…この、社の…?」 子供はうんうん、と頷く。 「……亡霊、ですか?」 「は?」 真面目に聞いたつもりなのに、気の抜けた返事が返ってくる。 「亡霊?誰が?わしが?」 「……」 「まさか!わしは確かにこの社に奉られた魂だが、人間どもが勝手に想像するような、そんなに禍々しいものではないぞ」 団子の棒で環琉の鼻先を突くようにちょいちょいと弄る。 「お前達人間が、“あやし”と呼ぶモノだ」 「あやし…?」 「人ではないもの…かつては人であったもの…だ」 ふわりと社の屋根から下りてくる。 音も、重さもその動作からは感じない。浮いたように見えた。 環琉は次に掛ける言葉が見つからなくて、そのかつて人であったというあやしの姿を見つめるしかなかった。 「お前、名前は。ここの使用人か?」 唐突に自分に話題を振られてはっとした。 「僕は…」 自分を見てくる金の瞳。 「わ、環琉。使用人じゃありません…御厄介になっている…書生、です」 「ふーーーーーん……わたる、か」 名前の響きを確認して、何度も頷く目の前のあやし。 「わしは、(らい)。輝くいかずちのようで美しい名だろう?」 雷と名乗ったあやしは、またふわりと浮いて社に腰掛ける。 「別に誰かに話しても構わんぞ?何度か幽霊騒ぎは起きているし、坊さんなど呼ばれても、どうせわしを成仏などさせることなぞ出来ぬしなぁ。幽霊でも亡霊でもないしの」 b284cb77-9083-4552-b8b2-7c9571bd8072 両の金色が細くなったかと思ったら、急に向こう側の景色が見えた。 雷の姿がなくなった。 「また、来い。お前も、この団子も気に入った…久々に退屈から逃れられそうだ」 声だけが、残った。 *** 窓から差し込む朝陽に目を覚ます。 障子が少し開いていたので、眩しさに起きてしまった。 環琉は布団の中でしばしぼうっと、昨夜のことを思い出していた。 「あやし…」 人ではないものに会った。 この目で確かに見たし、別れ際に肩に手――いや、爪?、を置かれた感覚もまだ思い出せる。 否定できない。 いや、夢であったならそれを証明する何かをこそ見せてほしいぐらいだ。 あの雷とかいうあやしが消え去ってから、どのくらい立ち尽くしていたかは定かではない。 でも、自分の足でこの部屋へ戻ってきたし、布団だって敷いた。夜着に着替ることさえ忘れていなかったなら、普段と何ら変わらない朝だ。 「少し、僕は混乱しているんだろうか…」 朝陽は昇ったばかりで、二度寝をする余裕はあるらしい。 考えるよりは寝てしまおうと、障子を閉めて布団にもぐりこんだ。 ――そして数刻。 充分眠ったにもかかわらずまだ頭がすっきりしなくて、昼間は勉学に集中できなかった。 薫子にも、風太にも昨夜の出来事は話せない。 勉強のしすぎだと笑われるかもしれない。 どちらかというと、風太に馬鹿にされるよりは薫子に正気を疑われる方が嫌だった。 もう一度夢か現かハッキリさせておこうと思い、夜にはまた社へ足を運んでいた。 「ら…雷?いますか…?」 そっと囁く。 数秒待ったが返答がないので、どうしたものかと考える。 「や…やっぱり、夢だったのか」 それならばと気持ちも新たに社へ一歩近づくと、背後から声がした。 「遅かったな」 「わああ!!」 振り返ると雷の姿。 「ら…!」 「お前の部屋にこっちから行ってしまったぞ」 唇を尖らせて、すねたように言う姿は人間の子供のよう。 「僕の部屋へ…?」 「久々に屋敷の中を探検してみた。お前の部屋は分かりやすかったな」 くすくすと笑って、ふわりと近づいてくる。 「わ、分かりやすかったって…」 何か、自分と分かる恥ずかしいものでも置いてあっただろうかと部屋の中を思い出す。 しかし特に見られて困るようなものを置いてあるわけでもなく…確かに、本の数は尋常ではないと自覚はしているが。 緊張していたよりもこのあやしとの再会があっさりとしたものだったので、力が抜けた。 そこかしこに人外と思える要素はあるし、口調もかなり歳を重ねたように聞こえる。 しかし見た目はやはり幼い子供。 変に緊張するよりもいっそ打ち解けてしまったほうがいいのかもしれない。 環琉は腹を決めて、雷のことを色々と聞き出そうと思った。 蔵を背にして、ふたりで地べたに座る。 「団子は?」 「ええと…、今日は持ってきていません…」 「吝嗇(けち)」 「…すみません」 子供の相手をしているようで段々楽しくなってきた。 話しているうちに、あやしの存在について知ったことがいくつかある。 雷が、ぽつぽつと語り出した。 ―――肉体が死んで、魂は奉られる。 墓であったり、社であったり、清らかな場所に遷される。 残された人々は嘆き悲しみ、死者を強く想う。 その想いで、魂はあやしとなる。 誰かに想われている限り、あやしは存在する。 存在が忘れられて、初めて成仏というものをするらしい。 そして、あやしが出現できるのは月の出ている夜のみ――― 「でもそれだと、この世にあやしはたくさんいるのでは?」 「それをわしに言われても困るが…聞くに、あやしが生まれるほどの想いというのは、己の命と秤にかけられるほどの強さでないといかんようだ」 「聞いた?誰にですか」 勉強家故の知的好奇心で、ずいと突っ込む。 「ああもう、面倒臭いな!それは今、いいではないか!…で、わしは、自分の本当の名前はすっかり忘れたが…確か、十一か十二で、体と魂が離れたと思う」 あやしである年月を重ねる毎に、人であった記憶が薄れていくのだという。 環琉は静かにそれを聞いていた。 雷の姿が幼いのは、その時の姿を残しているからなのだろう。 「少なくとも、百年は経っているはずだ。親も、もうこの世にはいないと思う」 「……」 数日前の荒れた社を見る限り、雷と繋がる人物はやはりいないのだろう。 「ん…?」 環琉は気づいたことを口にした。 「では、君はなぜ存在するのですか!?」 「さあ」 即答される。 「さ、さあって…」 「わしにも分からないのだ。成仏できない理由が…。わしの生前の姿を覚えている者が、百年の今もこの世のどこかにいるということだ…」 雷は自分の魂が奉られている社を見つめたまま続けた。 「それに、わしの社がなぜこの屋敷にあるのかも、分からないのだ」 「え…、君はこの家の筋の者ではないのですか?」 「屋敷の中はたびたび探検していて知っているが、思い出せることがなにもないのだ」 あやしの存在はなんとなく認めてしまったが、雷そのものの存在が微妙で、環琉はモヤモヤとしてきた。 「なんだか、気持ち悪いですね…。覚えのない場所に奉られるというのは」 「ま、その者が生きていても、いくらなんでももう百年だぞ。黙っていてもそのうち死ぬのではないか?明日かも知れぬしな」 「なんて気楽な…」 環琉は少し肩を落として、密かにため息をついた。 「…ところで、僕の部屋に行ったんですか?」 さきほどの事を思い出して、そういえば何かまずいものでも見られなかったかと不安になった。 「うん、書物ばかりだったのでな。おそらくココだろうと。…それに、ニオイがしたものでな」 「に、ニオイ…?」 確かに寝癖はひどいと誰からも言われるが、風呂にはほぼ毎日入っているし、襯衣だって自分で洗っている。 見た目のだらしなさと比べて、清潔だと思う。 最近、匂いのきついものも食べていないはず。 「わしはお前のニオイが気に入っている。だから分かる」 くんくんと、鼻先を首筋あたりでひくつかせてくる。 「な、何を言ってるんですか…」 「長くあやしをやっていると、人間のニオイが嗅ぎ分けられるようになるものだからな」 お前は好きなニオイの部類に入る、と、さらに鼻を近づけてくる。 「まさか…僕を食うつもりですか…」 急に環琉は怖くなって、声が震えた。 その異形の姿、特に大きな爪が。 もしこれで引き裂かれたらと思うと、背中がぞくりとした。 こう見えて、剣術の心得はあるし、腕も立つ。…ここ一年ほど素振りすらしていないが。 「ああ、せめて実家に置いてきた竹刀がここにあれば」 思わず口からそんな言葉が出た。 「竹刀?なんだお前、刀が扱えるのか」 「…い、一応」 「ふん。勘違いするな。いくらなんでも人を喰うだとかそんな趣味はないわ、阿呆」 環琉は呆れたように溜息をつかれたうえ、阿呆呼ばわりされて少しムッとした。 「君がニオイだなんて言うからです!」 「喰わんものは喰わん。妖怪の連中と一緒にするな」 「よ…妖怪とあやしは違うのですか?」 この上妖怪というモノまで本当に存在するのかと、驚きを越して異形のモノの更なる登場にうんざりしてきた。 「あんな奴らとわしは違う。しかし――」 「し、しかし?」 「霊感の強い人間ほど妖怪は好むと聞くぞ。…もちろん、喰う目的でな。わしは人間を喰いたいなどとは思わないが、ニオイに心地よさは感じるなあ」 話しているうちに環琉が少しずつ少しずつ後ずさりをしていることに気付く。 「…おっと、すまん。脅かすつもりはなかった。ほれ、もうこの話はやめてやるから…これっきり来てもらえなくなるのは、つまらん」 もう部屋に戻って眠れ、と言い残して、雷はその晩はそこで姿を消した。 *** 現れる時も、消える時も気まぐれなあやしに振り回される日々が続いた。 あれきり雷は、ニオイがどうのという話をしなくなった。 時折鼻をひくつかせる仕草はするものの、視線を感じると一言謝ってやめていた。 環琉に恐がられて嫌われたら、構う相手がいなくなるのが嫌だと言う。 いつ成仏してもかまわないような素振りを見せていても、その実はずっとひとりで寂しいのだろう。 まだ二十年も生きていない自分には想像もつかない年月。 いずれ成仏して消える存在なのならば、自分がかまってやるうちは、普通の子供として接してやるのもいい、と自分に言い聞かせた。 「君は男だったんですね…」 ようやく性別が分かった。 思えば今まで話題には一切ならなかったのだ。 「うむ」 環琉の買ってきた、今ではすっかり定番になった団子を頬張ると、雷は頷いた。 やっとすっきりしたという環琉は、深く息を吐いて茶をすする。 食べ物がある時には、雷はそれを嗅ぎ付けて環琉の部屋に来るようになった。 「生前は男だったようだからな。今はなんというか…どっちでもないかもしれないな」 「何とも…自分の事なのに、他人事のように話しますね…君は」 雷は何かを言いかけて、環琉をじっと見つめる。 「しかしそういえば、ぼんやりと自分は男だとは覚えていた。…でも、それだけだ」 「どういうことです?」 「人間には男と女がいる、そして自分はそのうちの男である、という認識だったと思う」 「思う、って…」 「うむ、つまり…わしはいったい、誰のどういう“想い”であやしになったのだろうか、と…」 自分自身に言い聞かせているかのように、雷が喋り出す。 思考を整理するように声に出しているのか。 「親というのは子供を愛するのだろう?男は女を愛するし、女は男を愛するし、別にそれは男同士でも女同士でも有り得ることだ。それは分かる…というか、そういうものだと言われた。あいつは妹を愛したと言った」 「あいつ?」 「愛にいくつかの種類があるとも言われた。あいつは妹を愛したが、男が女を愛する愛と同じ愛だったそうだ」 「…雷?」 「同じと言われても、違うとどうなるのだ?愛は愛ではないのか?そもそも愛とはなんだ?誰かがわしを、子供として愛したのか?男として愛したのか?その愛がわしをあやしにした“想い”の源ということなのだよな?」 「雷!」 環琉は急に不安になって、だんだんと早口になる雷の肩を掴んで落ち着かせた。 「…!あ…すまん」 「…大丈夫ですか?何か、思い出したことでも?」 「逆だ。思い出せん。わしが誰かから愛されていたのかも、誰かを愛したことがあったのかも」 暫くの沈黙の後、それを破ったのは雷の方だった。 「はあ。蒼白だぞ、環琉」 呆れたように溜息をつきながら。 「え…」 「わしの事だ。お前がまるで自分のことのような顔をするな。思いつめて早死にでもされて、わしより先に成仏でもされたらつまらんだろうが」 「…僕は長生きしたいです!…できれば」 「うんうん、それがいいそれがいい。せめてあやしになれるぐらい想って貰える相手が現れるまでは生きろ。見るからにいなさそうだからな」 調子が出てきたのか、環琉をからかうぐらいにはいつもの雷に戻った。 多少ひっかかる言葉はあったものの、先ほどのような余裕のない雷は見ていたくないと思ったので、環琉は安心して追加の団子を勧めた。 *** 「環琉?おーい、環琉ー?」 「あ…風太…」 いつものように、雷に菓子を買っていると、車の中から風太に声を掛けられた。 雷の様子がおかしかったことが気になってよく眠れなくて、無意識にぼうっとしてしまっていたようだった。 「お前なあ、勉強もほどほどにしないと死ぬぞ!?」 「…ええ、書生なんてのはきっと皆どうせそうですよ…」 「うわ…、なんか暗いな。昔は剣術の天才少年だとか言われてた奴が、大学目指すとなったとたんコレかよ」 親友のただならぬ様子に、風太は軽食を奢ると言ってふたりの行きつけの喫茶店に誘った。 確か薫子を諦めたときも、仲良く茶菓子をつついた気がする。 女絡みだろうか?と風太は思った。 指定席と化したテーブルに着くと、給仕も慣れた様子で目が合うと近づいてきた。 「風太さん、環琉さん、いつもありがとうございます!」 「やあ、みず()ちゃん、今日も可愛いね」 「もう、風太さんは誰にでもそう言うんだから。いつもの珈琲でいいですか?」 お決まりのやりとりを交わすと、みず穂と呼ばれた給仕の少女は厨房へと向かう。 風太が環琉に向き直ると、視線を落としていた。 「環琉?おーい、わたるくん??」 目の前で掌を振って見せる。 すぐに珈琲が届いたが、ぼんやりした様子の環琉にみず穂も気が付いた。 「環琉さん、どうしちゃったんですか?」 「さあ?」 カップに口を付けて、言葉を待つ。 「風太、愛ってなんなんでしょうね…」 「ぶッ…!」 直後、風太は盛大に珈琲を吹いた。 みず穂は面白そうに顔を覗き込んでくる。 「えっ…、何?環琉さんったら、恋煩いですか?」 「いえその、親子の愛とか…恋愛とか、そもそも、誰かを想うというのはどういうことなのかと悩んでいる…子供が…知り合いにいまして」 「お前、そういうのを大学で勉強したいんだったっけか?」 汚してしまった食卓と服を、備え付けの台拭きで擦りながら続ける。 「そのお子さんってのは、とんでもなく頭がいいのか、単にませてるのか…なかなかすごい悩みをお持ちだな」 支給された珈琲に手もつけず、膝の上に拳を作ってそれを見つめる環琉。 「あやしかどうかはともかく…」 「アヤシ?」 「あ、いや…その、僕もそれなりに勉強はしてきましたが、その、説明できない事もあるんだなと」 真面目で純粋な環琉のことだから、風太の知る限り薫子以外に惚れた女性はいないはず。 波風ひとつ立ったことのない平和な家庭で育っているので、家族愛も生活の中で自然と与え、与えられてきたはずだ。 わざわざ「愛とはなにか?」という疑問など持ったことはないのだろう。 そして風太も、家は裕福で本人があまり禁欲的ではないから、環琉とは別な意味で悩んだことはない。 「ふーん…。まあ、いい答えが見つかるといいよな。とりあえずちゃんと飯は食ってよく寝ろよ。…そういえば俺の方はさ、最近いいことがあってさ」 「いいこと?」 「そっ、同じ子供相手でも、子供らしく無邪気に懐かれるのっていいよなー」 聞けば最近仲良くなった小さな子供がいるらしい。 大人びた雷と違い、花や虫と戯れるような可愛らしい性格のようだ。 風太は普段高級品を衝動買いしたり、複数の女性と同時に遊んでいたり、金を使った遊びが大好きだ。 しかしその反面、子供の相手も面倒がらずに率先してする優しさも持っている。 「…親がいないんだよ、その子。だから俺が時々遊んでやってんだ」 「そうですか…」 「会わせてやれればいいけどな、友達も作ってやりたいし」 その声は小さくて、環琉の耳には届いていなかった。
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