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1. 追われる女
昔、山の峠に続く山道の途中に、小さな茶屋があった。その先にはもう人の住む場所はなく、峠を越える者はここでしばし休んでから、最後の難関に挑むのが常だった。
その茶屋には、十歳になるかならないかの少年と祖母が暮らしていた。少年は、祖母を助けてよく働く子だった。
「もう日も暮れる。峠を越える者はもういないだろう。店を仕舞おうか」
祖母に言われて、少年は縁台に置いた座布団を片付け始めた。と、山道を誰かが上がってくる気配があった。
「ばば様、人が」
祖母と二人で山の麓から続く道を眺めていると、女が死に物狂いの様相で登ってきた。手拭いを吹き流しに被り顔は見えないが、まだ若い女のようだ。
「峠は、峠はまだでしょうか?」
女は息を切らしながら、祖母に聞く。
「もうあと四半時はかかるかね」
「そうですか」
女は礼を言って、さらに先を急ごうとした。
「お待ちなさい。そんな軽装で暗い中、峠を越える女がいるもんかい。ここら辺には獣もいれば、山立もいる。危ないから、夜に動くのはおよしなさい」
女は草鞋こそ履いているが、杖も菅笠も持っていなかった。
「けれども、追われているのです」
「何があったか知らないが、追っ手だって真夜中の山道は歩けまい。今夜はうちに泊まって、明け方お立ちなさい」
祖母の親切な申し出に女は気持ちが揺らいだようで、それならお願い申しますと手拭いを取った。とても美しい女で、少年の頬が照れて赤らんだ。
※四半時……約三十分
※山立……山賊・猟師、この場合は山賊のこと
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