未だ見ぬ君へ贈る前日譚

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握りしめていた万年筆を置く。 まだ文の途中だ。 小説ならすべて自分の頭の中に人がいて好きに動いてしゃべる。 だが自叙伝は違う。 僕は僕のままだが、ここに書かれているハルは俺の頭の中のハルでしかない。 想像の域を出ないのだ。 もしかして、かなり僕に好意的に書いてしまったのかもしれない。 自分の中の根暗な部分が出る。 すると控えめな声で名前を呼ばれる。 「どうした?」 「ご飯の準備ができましたがどうされますか?」 「今、きりがついた。一緒に食べよう。」 「では、あっちに準備しますね。」 「僕も手伝うよ。」 身体を伸ばしながら立ち上がる。 書いていた通り時間がない。うじうじ言ってられない。決行は今日だ。 締め切りという言葉はどうもあんなに身体を震えさせられるのに、こういう時は頼もしい。 迫りくる締め切りに尻を蹴っ飛ばされた気持ちで箱を持ち、居間へ向かった。 そして向かい合って食事を始める。 たいていは家にずっといる僕には話題がなく、ハルが今日会ったことを話してくれる。 何が面白くて、何に失敗して悔しかった…。 些細なことでも話してくれるハルは自分の生活の癒しになっていた。 それはどんな人物にあてられていても相槌を打たないやつでもこの気持ちは変わらなかった。 そしていつ切り出そうか悩んでいるうちに仕事が終わってしまう。 終わってもなお居座っている僕にハルが不思議そうな顔で正面に座った。
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