月の蝶が誘ひ給ふは

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月の蝶が誘ひ給ふは

 夕凪は、夏のはじまりに、ひとりでこの里にやってきた。  まだ十二歳で、豊かな黒髪にくりりとした瞳は愛らしいが、同じ年頃の少女たちがきゃっきゃと語り合っていても輪に入らず、いつもひとりでいる。 「どうした、千草」  脚を止めると、一緒に歩いていた父が振り返った。 「いや……ちょっとごめん、これ運んでおいて」  持っていた荷を父に預け、千草は木々の香りが立ち込める夏の山に駆け込んだ。十四になった千草は、ひとり息子として家の呉服屋の手伝いに明け暮れていたから、山を駆けるのは久しぶりだった。 「夕凪! 待って!」  木々の隙間に、夕凪の赤い袖がひらりと舞う。  彼女はよく山を駆けているらしい。里の者が夕凪に近づかない理由のひとつだった。なにをしているのかよくわからないけれど、一心に駆ける夕凪の様子をだれもが遠巻きに見つめるだけだった。  夕凪は千草の声が聞こえているのかいないのか、一切振り返ることなく駆けていく。なんとなく気になって追いかけていた千草も、そのうち必死になっていた。  夕凪との距離が縮まる。あともうすこし、と思ったところで、千草ははっとした。思いきり手を伸ばして、夕凪の袖をつかまえる。ぐん、と前に進もうとする夕凪に引きずられたが、千草も力いっぱい夕凪を留める。  その瞬間、足下の土が崩れて、身体が山の斜面を転がり落ちそうになった。千草は慌てて夕凪を引きずり後ずさる。山の小さな崩壊が収まると、ほっと息をついた。 「夕凪、危ないよ。このあたり、崩れやすいんだ。夕凪は里に来たばかりで知らないかもしれないけど」  けれど夕凪は、キッと目を吊り上げた。 「なにするの、見失っちゃったじゃない!」 「え、なにを?」 「月ノ蝶!」  千草は首をかしげた。夕凪は一瞬あと、しまったという顔をして口をおおった。
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