月の蝶が誘ひ給ふは

4/9
前へ
/9ページ
次へ
「夕凪、里の子と遊んでみたら?」  山を駆けるようになって、ひとつの季節が過ぎようとしていた。夏の終わりがけ、千草が提案すると、夕凪は顔をしかめた。  夕凪は里ですこし浮いている。日中は寺で奉公して、夕刻になると山を駆け回る。笑顔を振りまいていれば友だちもできるだろうに、彼女はそうしない。  もともと蝶に追いつけないことに最近は焦っているらしい夕凪は、「友だちとか、いらない」と言ってそっぽを向く。  だが、夕凪はひとが嫌いなわけではないと思う。こうして千草の話にも付き合ってくれるのだから。なぜ、こうも頑ななのだろう。 「俺、夕凪ともっと遊びたいな。花見とか、市場に買い物とか、色々したいことがあるよ」  ぴくりと、夕凪が反応した。もしかして彼女も興味があるのかと期待するが、夕凪はふんと鼻を鳴らす。 「遊ばないから、わたしは」 「気に入らなかった? じゃあ夕凪は、なにかしたいことないの?」 「蝶の群れを見つけたい」 「それ以外で」  夕凪は口をつぐんだ。本当に、ほかのことに興味がないのかもしれない。夕凪をそこまで引きつけるなんて、どれほど蝶は美しいのだろうか。それともなにか、魔性の力でもあるのだろうか。  ――俺には見えないから、わからないけど。  この頃の千草は、見えない悔しさがもやもやとした思いとなって腹にたまっていた。 「きれいな着物」  やがて、夕凪がぽつりと言ったから、千草は我に返った。 「え?」 「きれいな着物は、すき」  夕凪は、寺に奉公していることもあって、質素な身なりだった。けれどきっと、華やかな着物も似合うだろう。想像して、うんと微笑んだ。 「いいと思う。俺の家、呉服屋だから遊びにおいでよ。着物、たくさんあるし」  けれど、彼女ははっとするや首をふった。 「やっぱり、いまのなし。遊ばない。わたし、遊ぶのきらいだから」  え、と思う間に、夕凪は突然すべてを振り切るように駆け出した。 「蝶がいた! わたしは、蝶に追いつけたらそれでいい! なにもいらない!」  今日は川辺に向かって行った。夕凪は身軽に川岸まで下りて、水の流れに浮き出た岩を蹴りつけて対岸に渡ろうとする。 「待ってよ夕凪!」  いつものように、夕凪は一心不乱だった。  だがその足下が、ぐらりと揺れた。  ぞっとした。 「夕凪!」  蝶を追っていると、こういうことがよくあった。蝶は山の深い部分を飛ぶから、千草や夕凪には危険な場所を駆けることになる。  夕凪の後ろについていた千草は手を伸ばす。夕凪を岸に放り投げ、代わりに川に落ちた。夏も終わりかけの夕刻は肌寒い。しかも彼女を庇ったときに足首を傷めたようだ。  千草は水の流れに巻き込まれて、いくつか岩にぶつかった。それでも伸ばした手が、ひとつの岩をつかむ。どうにか顔を水面に出して、ほっとした。だがまた、心がひやりとする。  夕凪は無事だろうかと川辺を見れば、彼女はこちらに見向きもせず走っていこうとしていたのだ。まるで千草のことなど見えていないように。 「夕凪!」  思わず叫んだ。  彼女ははっとして、振り返る。いま気づいたというように驚いた顔で駆け寄ってきて、夕凪の細い手が千草を引っ張り上げようとする。どうにか川からはい出した千草は、寒さと痛みと衝撃に震えた。  ――いま、見捨てられそうになった?  これまでも似たようなことはあった。転んだ千草に気づかず、走って行こうとすることが。でも川に落ちたことまで、放っておくのか……?  夕凪も気まずそうに、千草の腕を自分の肩に回させて立ち上がる。 「今日はもういい。帰ろう千草」
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加