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「夕凪、里の子と遊んでみたら?」
山を駆けるようになって、ひとつの季節が過ぎようとしていた。夏の終わりがけ、千草が提案すると、夕凪は顔をしかめた。
夕凪は里ですこし浮いている。日中は寺で奉公して、夕刻になると山を駆け回る。笑顔を振りまいていれば友だちもできるだろうに、彼女はそうしない。
もともと蝶に追いつけないことに最近は焦っているらしい夕凪は、「友だちとか、いらない」と言ってそっぽを向く。
だが、夕凪はひとが嫌いなわけではないと思う。こうして千草の話にも付き合ってくれるのだから。なぜ、こうも頑ななのだろう。
「俺、夕凪ともっと遊びたいな。花見とか、市場に買い物とか、色々したいことがあるよ」
ぴくりと、夕凪が反応した。もしかして彼女も興味があるのかと期待するが、夕凪はふんと鼻を鳴らす。
「遊ばないから、わたしは」
「気に入らなかった? じゃあ夕凪は、なにかしたいことないの?」
「蝶の群れを見つけたい」
「それ以外で」
夕凪は口をつぐんだ。本当に、ほかのことに興味がないのかもしれない。夕凪をそこまで引きつけるなんて、どれほど蝶は美しいのだろうか。それともなにか、魔性の力でもあるのだろうか。
――俺には見えないから、わからないけど。
この頃の千草は、見えない悔しさがもやもやとした思いとなって腹にたまっていた。
「きれいな着物」
やがて、夕凪がぽつりと言ったから、千草は我に返った。
「え?」
「きれいな着物は、すき」
夕凪は、寺に奉公していることもあって、質素な身なりだった。けれどきっと、華やかな着物も似合うだろう。想像して、うんと微笑んだ。
「いいと思う。俺の家、呉服屋だから遊びにおいでよ。着物、たくさんあるし」
けれど、彼女ははっとするや首をふった。
「やっぱり、いまのなし。遊ばない。わたし、遊ぶのきらいだから」
え、と思う間に、夕凪は突然すべてを振り切るように駆け出した。
「蝶がいた! わたしは、蝶に追いつけたらそれでいい! なにもいらない!」
今日は川辺に向かって行った。夕凪は身軽に川岸まで下りて、水の流れに浮き出た岩を蹴りつけて対岸に渡ろうとする。
「待ってよ夕凪!」
いつものように、夕凪は一心不乱だった。
だがその足下が、ぐらりと揺れた。
ぞっとした。
「夕凪!」
蝶を追っていると、こういうことがよくあった。蝶は山の深い部分を飛ぶから、千草や夕凪には危険な場所を駆けることになる。
夕凪の後ろについていた千草は手を伸ばす。夕凪を岸に放り投げ、代わりに川に落ちた。夏も終わりかけの夕刻は肌寒い。しかも彼女を庇ったときに足首を傷めたようだ。
千草は水の流れに巻き込まれて、いくつか岩にぶつかった。それでも伸ばした手が、ひとつの岩をつかむ。どうにか顔を水面に出して、ほっとした。だがまた、心がひやりとする。
夕凪は無事だろうかと川辺を見れば、彼女はこちらに見向きもせず走っていこうとしていたのだ。まるで千草のことなど見えていないように。
「夕凪!」
思わず叫んだ。
彼女ははっとして、振り返る。いま気づいたというように驚いた顔で駆け寄ってきて、夕凪の細い手が千草を引っ張り上げようとする。どうにか川からはい出した千草は、寒さと痛みと衝撃に震えた。
――いま、見捨てられそうになった?
これまでも似たようなことはあった。転んだ千草に気づかず、走って行こうとすることが。でも川に落ちたことまで、放っておくのか……?
夕凪も気まずそうに、千草の腕を自分の肩に回させて立ち上がる。
「今日はもういい。帰ろう千草」
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