月の蝶が誘ひ給ふは

6/9
前へ
/9ページ
次へ
 障子の隙間から満月を見上げて、千草はため息をつく。岩にぶつけた身体は痛むし、水に濡れたせいで風邪までひいて寝床から出られなかった。いまごろ、夕凪は山を駆けているのだろうか。千草には見えない、月ノ蝶を追って。  ――なんなんだよ、月ノ蝶って。 「どうしたんだい、千草。難しい顔して」 「ばあちゃん」  祖母のしわくちゃな顔を見て、そういえば祖母なら月ノ蝶に詳しいかもしれないと思い出す。 「ばあちゃん、月ノ蝶って知ってる?」  迷信だよと言ってほしかった千草だったが、祖母の答えに言葉が詰まった。 「ああ、死の蝶だね」 「……え?」 「あんたって子は、昔教えてあげたのに、覚えてないのね。もう、土地に伝わる昔語りっていうのは、ちゃんと意味のあるもので、大事にしないと」 「待って」  長くなりそうな祖母の話を、千草は必死に遮る。 「死の蝶って、なに?」  千草の声色に、祖母も真面目な顔になった。 「安らかな死者の国に導く蝶だよ。ここらでは、昔から蝶にさらわれる者が多いんだそうだ。蝶が見えるのは、死に触れたり、死に近い人間だけ」 「死に……? え、それ本当?」 「だれが嘘なんてつきますか。まあ、そういう話があるってだけで、わたしは見たことないけど」  千草はぞっとした。彼女があんなにうれしそうに追っていたのは、そんな恐ろしげな蝶だったのだろうか。 「夕凪かい?」  祖母が眉をひそめた。 「あの子が、月ノ蝶を追っているのかい?」 「そ、そうだけど……、でも、ただの昔語りなんだよね? ばあちゃんも見たことないんでしょ?」 「わたしはね。でもだからって、存在しないとは限らない。……あの子の家族、亡くなってるんだよ」  千草は今度こそ言葉を失くした。 「夜盗に押し入られたそうでね。夕凪だけは、友だちの家に泊まりに行っていたから助かったんだそうだ。家をなくして、この里の寺に奉公に来ることになったんだってさ」  祖母は、月を見上げた。 「月ノ蝶は、それはそれは美しいらしい。魅了されたら、死に引き込まれてしまうよ」  千草は話を聞き終わる前に、家を飛び出した。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加