月の蝶が誘ひ給ふは

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 千草はとっさに駆け寄って、落ちていく夕凪の腕をつかんだ。崩れる崖の下を見つめて、ぞっとした。月ノ蝶が舞い踊り、うすぼんやりと輝く世界が広がっていた。儚く美しい、死の世界だ。  千草はぐっと目を閉じて、手に力を込めた。 「千草、離して」 「いやだ」 「千草」 「いやだ!」  身体に力を込めると、岩で切った額の傷から血が流れ、ぽたぽたと夕凪の顔に降り注いだ。 「千草まで死んじゃうよ」 「死なない。夕凪も死なせない」  まだ、夕凪とやりたいことはたくさんある。また一緒にご飯が食べたいし、山だけじゃなくて色々な場所に行きたい。夕凪だって、きれいな着物が着たいと言っていたじゃないか。 「着物、俺が見繕ってあげる。だからこんなところで死なないでよ」  ぴくりと夕凪の指先が震えた。 「俺も、夕凪がいなくなったら困るからさ。だからこんなところにいちゃ駄目だ」  そのとき、千草の目の前に、蝶が舞った。その瞬間、千草の心が揺らぐ。  美しい蝶の世界に行くことは、はたして悪いことだろうか。あんなにも優しい光にあふれているのに。自分の身体を支える力が、ふっと抜ける。べつに、いいじゃないか、このままふたりで落ちても――。 「千草!」  夕凪の金切り声で、はっとした。 「なにやってるの、死にたくないんでしょ!」  ぱしん、と夕凪の手が蝶をはたく。一瞬、彼女はそんな自分自身に驚いたような顔をした。わずかに正気が戻った彼女の瞳に、蝶への恐怖が映った。しかしすぐに、またまどろむような光が灯る。完全に染まってしまう前に、千草は叫んだ。 「その言葉、そっくり返すよ夕凪!」  もう一度、身体に力をこめる。夕凪をつかむ手もぐっと強さを増す。彼女はどれだけ蝶にとらわれても、千草に危険が迫ると、最後には千草を振り返ってくれていた。優しい彼女の手を離してなるものか。  夕凪は自分でもわけがわからなくなっているのだろう。戸惑うように千草を見上げた。 「わかんないよ、千草。母さんたちとは一緒にいたいの、ひとりはいやだ」 「ひとりじゃないよ」  夕凪の目が見開いた。 「大丈夫、夕凪はひとりじゃない」  千草は、力の限り、つかんだ手を引く。 「やりたいことがあるなら、ほしいものがあるなら、帰るよ、一緒に。夕凪は、蝶なんかに操られたりしないだろ。俺も、夕凪には死んでほしくないし。だから」  思い切り、夕凪を引き上げる。 「帰るよ、夕凪!」  夕凪は迷う素振りを見せた。足元の蝶たちを見つめ、涙をこぼす。けれど最後には、千草の手を握り返した。
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