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赤い唇
#6
ジェイムスは席を立つと、ケイトの飲み残しのグラスを手に持ち、それを流しに持って行った。
「ジェイムス、考え直すなら今だけよ。いま断ったら、二度とここには来ないわよ」
彼はグラスを洗い終えると、キッチンの前に置かれたグラスホルダーにグラスを逆さに差す。水滴がグラスをゆっくりと流れ落ちた。
彼は振り返りもせずに言う。
「二度と来ないか。こんな嬉しい言葉はないね」
ケイトは席を立ち、ジェイムスに歩み寄る。赤いハイヒールの音がコツコツと部屋に響いた。
「私ね、往生際が悪い女なの。一度目をつけたら必ず契約させる。これが私の信条よ」
ジェイムスはケイトを振り返り、キッチンに背中を預けた。2人の間は2メートルも離れていない。
ケイトが、ハッとした顔をして、それから急に艶かしい眼でジェイムスを値ぶみするように見た。
「わかったわジェイムス。あなたが欲しいのは、デザートなのね」
彼は真顔で、微かに頭を傾げる。
「何のことだか」
ケイトが彼にゆっくりと近づく。
「美味しいデザートが欲しいんでしょ、ジェイムス。私という」
そう言って、さらにジェイムスに近づいた。手を伸ばせば触れるほどの近くに。
彼の目とケイトの目が絡み合う。
「ずっと一人暮らしで、甘いデザートなんて食べてないんじゃない?いいわよ、私は。た、だ、し」後ろ手に組んでいた手を前に回す。そこには契約書が握られていた。「これにサインしたら、だけど」
ケイトはさらにジェイムスに近づき、彼の胸に契約書を押し当てた。2人の顔は30センチも離れていなかった。甘く強烈なフェロモンの香りが彼の鼻腔をくすぐった。
40年近く、女にはまったく縁のないジェイムスにとって、それはリボルバーで頭を撃ち抜かれたような感覚だった。
ケイトの赤い唇が微かに開き、その間から真っ白な歯と、濡れた舌が見えた。
初めて神の声を聞いたのは、その時だった。
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