最後の仕事

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

最後の仕事

乗るタクシーを選り好みする人間なんか、そういない。片田舎の駅ロータリーにもともと停まっていた一台だった、というだけ。 一人使いには広すぎる、バン型。個人タクシー。それだけじゃ別に、見送る理由にはならない。 「いらっしゃいませ。どちらまで?」 帽子をかぶった白髪の運転手が、わざわざ振り返って笑いかけてくる。住所を伝えるのも、道案内も面倒。 「前のタクシーを追ってください」 フロントガラスの向こうに見える緑のタクシーが、徒歩でも追い抜けそうな速度でロータリーを出ていく。 10分はかかるだろうけど、友達に愚痴を書き送る気力はない。 握らされたばかりの千円を、もっと強く握った。これに頼らなきゃいけないのが、本当に嫌だ。 「うっ……ううっ」 泣いている。私じゃない。運転手が、だ。 私、何かした? いや、何も。 「これも何かの罰なのか」 白手袋を目頭に当て、ぶつぶつ言っている。 前の座席の背に貼られているネームプレートを、初めてまともに見た。「助川 倫(すけがわ さとし)」。ネットとSNSで検索する。ヒットしない。犯罪者とかではなさそう。 だけど、どう考えてもやばい。降りよう。今ならゼロ円。 「降りま」 「わかりました」 圧のある一言にかき消された。体が固まってしまう。 「普段でしたら絶対……絶対に、お受けしないご依頼ですが、本日は特別ですから」 「何なんですか……こわ……もういいです、降りて歩きます」 「だ、だめです! 絶対に下ろしません!」 ドアが開かない。ロックをかけられた! 電話をかけた方がいい? 110番か、家で待つママか。スマホを持つ手が震える。パパは頼りたくない。 迷っているうちに、タクシーはロータリーを出た。少し先で、前のタクシーが停まっている。 「後を追ってこないから心配して停まってる! 行くなら早くしてください!」 涙声の「申し訳ございません」が車内に落ちる。まだ、心臓がバクバク言っていた。 このおじさん、ボケているのかも。 不安で仕方ないけど、走り始めてはくれたから、様子見。スマホと千円札をまとめて握りしめ、運転席を監視する。 バックミラー越しに目が合いかけ、反射的にそっぽを向く。外が暗いせいで鏡になっている窓に映った私と、代わりに目が合った。その向こうに、林、畑、合間に家。駅回りを離れると途端に広がるド田舎の景色が、うっすら浮かびながら瞬く間に飛び去っていく。 「前のタクシーにお乗りの方と、どのようなご関係で?」 無視しようとした。 でも黙っていたら車の速度が落ちて、車間がぐんぐん開きだした。答えなければ停まりそう。 面倒な一台に当たった。次からタクシーはよく選ぼう。制服のズボンで、手汗を拭った。 「家族。パパです」 「なるほど……なぜ、ご一緒ではないのです」 「……親子の問題に口出さないで」 「失礼しました。しかし、前の車のお客様のもとに、あなたを送り届けた結果、取り返しのつかない事態になっては困りますので」 そんなこと、起こるわけないじゃん。 ――口に出さなかったのを、誉めてほしい。疑り深いな、ドラマの見すぎじゃないか。 「ケンカ中なの。家に帰りたくないくらい。さっさと親元離れて、東京の大学に行きたいなぁ」 あのクソ親父には、「東京なんかやめとけ、ろくなところじゃない」とばかり言われてきた。控えめに言って洗脳だ。 しかも今日は、眼中にない地元大学のオープンキャンパスに連行され、古くてダサい校内を延々歩かされた。 ちょうど文化祭をやっていて、酒も売っていた。クソ親父は何杯もビールを飲んで、帰りの電車で爆睡。酒が抜けないせいで、駅近くの駐車場に自家用車を置き去りにする羽目になった。タクシーで帰ると連絡したら、ママは「もったいない!」と怒った。二台に分かれて乗ったと知ったら、怒りを通り越して呆れるかも。 家に着いたら、ママからは小言を食らい、クソ親父の説得第二ラウンド開始だろう。 嫌だな。どうしたら逃げられる。 「そうだ。今から東京へ向かってよ。お金は……あとから親に請求して」 うまい思い付きだと感じたのは、声にするまで。 口が苦い。親元を離れたいとか言っておいて、ムシが良すぎる。 「やっぱ、今のなしで。カッコ悪いな」 「大丈夫。今、カッコよくなりましたよ」 「……ふふ」 いつの間にか、前のタクシーとの距離は元に戻っていた。つかず離れずで程よい。 料金メーターが一つ上がる頃、トンネルに差し掛かった。おじさんが「なぜ、東京の大学に行きたいのですか」と聞いてくる。こんなに質問責めにしてくる運転手、珍しくないか。 面倒だけど、怖くはなくなっていた。 「目立たなくて済むじゃん。東京ならさ、私みたいなのがいっぱいいて、『ちょっと変』くらいだと思うんだ」 ゴツゴツした手に、マーブルのネイル。窓から差し込んできたトンネル照明が爪先に当たって、鈍く輝く。 男なのにネイルなんて、と親を絶句させたけど、押し切った結果だ。 こんなの序の口。メイクが上手くなりたいし、スキンケアもちゃんとやりたい。おしゃれなファッションにだって挑戦したい。知識や理論を専門的に学んで、それを仕事にしたいんだ。 別に、「女」になりたいわけじゃない。"一般的に、女の子が好きだとされるものが好きな、男"というだけだ。 それでも、この辺りじゃオカマ扱い。いじめられなかっただけマシなのかも。 「東京で成し遂げたい夢は?」 「パパと同じこと言うなあ。夢がないと、東京に行っちゃいけないの?」 おじさんは、ハンドルを強く握るだけ。「はい」か「いいえ」をくれれば、出方を決められるのに。 トンネルを抜けてもしばらく、車内は暗い海みたいに静かだった。 仕方ない。メーターがもう一つ上がっても、おじさんが黙ったままなら――ああ、もう上がった。 「……あるよ、一応。やりたいこと、みたいなのはさ」 渋々、打ち明ける。おじさんはほっとしたように「ご家族には伝えていますか?」と乗ってきた。 どんな夢か、じゃなくて、親に伝えたかを聞くのか。 「反対されるから言わない。あ、ママには話したよ。微妙な反応だった。応援はしてくれてないね」 「なるほど」 「けどさ、やる後悔と、やらない後悔って言うじゃない。やらない後悔の方がよくない、みたいな。だったらやりたいことを追いかけた方がいいじゃん、って」 「追いかけた結果、取り返しのつかないことになる場合もありますがね」 窓辺に頬杖をついていたのが、弾みで肘がずり落ちた。 優しいのか冷たいのか、よくわからない。 「ああ言えばこう言うなぁ」 「長く生きてきますと、どうにも慎重になるのですよ。自分にも、他人にも」 メーターがもう一つ上がる。950円。そろそろ到着だ、外を見なくてもわかる。 降りる前に、はっきりさせておきたいことがあるのに。 「一つ、私からも質問ね。どうしてさっき泣いたの?」 「……くだらない理由ですよ。お耳に入れるようなことでは」 急激に速度が緩まる。車を停めてまで語ってくれようとしている――わけじゃない。 見慣れた質素な平屋が、行く手に待ち構えている。パジャマ姿のママが玄関前に仁王立ち。パパはタクシーから降りたところ。スーツと同じようにくたびれている。 「ご到着のようですね。料金950円です」 声が弾んでいて腹が立つ。このまま金を払わずに籠城、いや籠車してやろうか。 息を詰めたら、外から窓を叩かれた。両親お揃いだ。「歓迎ムード」は感じない。お小言マシンガンで蜂の巣にされそう。 「やりたいこと、お話しされてみては?」 おじさんが、バックミラー越しに頷く。ご機嫌な三日月みたいに、両目がにっと細まった。 「正直に伝え、真っ向から反対されたら、すぐさましぼむ程度の夢なのかどうか。ご両親を利用して測ってみればよろしい」 その考えはなかった。目から鱗が落ちる感覚を、初めてまともに味わった。感動すると、お金を自然と払いたくなることも。 千円札を差し出す。おつりを出そうとするおじさんの手を、夢中で押さえていた。 「いらないよ。ちょびっとだけど、チップ? ってことで。親の金なのにエラそうか」 突き返されるかと思いきや、おじさんは口も目も円くした後、千円札を胸に抱えた。 「ありがとうございます、最初で最後のお客様。大変光栄です。普段でしたら絶対に余剰金は受け取りませんが、今夜だけは特別に、ありがたく頂戴します。私、これにてタクシー運転手を廃業するのです」 「えっ」 おじさんは帽子を取り、座席の後ろに貼っていたネームプレートを剥がした。 本当なんだ、本当に私が最後の乗客なんだ。 全身の血が顔に集まってくるみたい。恥ずかしいわけじゃない、怒っているのでもない。何か言い返したいのに、頭がこんがらがる。 さあ、の一言に合わせて扉が開かれる。降りる前に、両親が我先にと頭を車内に突っ込んできて、ギャーギャー言い出した。 「車を駅に置きっぱなしで、明日どうするの! しかも、タクシー二台も使って!」 「仕方ないだろう! (たける)が、俺と一緒に乗るくらいなら歩いて帰る、って聞かないんだから!」 予想していたけど、いざ目の前にすると溜め息が出る。 おじさんも困り顔だ。最後の仕事を、こんな思い出で汚したくないし、どうしても気になる。このおじさんが、なんで泣いたか。ここで聞き出せなきゃ、一生チャンスがない。 手を伸ばして、パパとママの腕を掴んだ。体を思いきり、後ろへ倒す。 「出世払いするから、パパもママも乗って!」 一人ずつ、車内に引きずり込む。おじさんに「私たちを、駅まで乗せて!」と伝えると、三人分の「ええっ」が響いた。 「何言ってるの!」 「ママの運転で、車拾って帰ってこられるでしょ。いいよね、おじさん?」 「健、お前な」 「パパは黙ってて。ってか、何ならパパはいなくていいんだけど」 親を上手く利用しろ、と教えたのはおじさんだ。私はそれを、早速実践しているだけ。 カチ、カチ、カチ。ハザード音が、等間隔に沈黙を埋める。 おじさんはひとまず千円札をしまって、項垂れた。迷っているみたい。 「駅まで、また10分くらいある。話をしてくれるよね」 「……本当に、くだらないですよ」 脱いだばかりの帽子をかぶった手で、おじさんがハザードを消す。 メーターが最初の料金に戻った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!