最初の仕事

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最初の仕事

――その新米運転手は、40で早期退職を強いられ、タクシー業界に飛び込みました。今から20年くらい前の話です。 まじめで皆勤、それだけが取り柄で、融通と機転は利かず、意地っぱりのくせに臆病。年次が上がるごとに上からも下からも、同輩からも煙たがられていました。 それでも、体よくクビになってからは、新しい会社で心を入れ換えて働くつもりでした。 簡単な研修を終え、いざ、初仕事。雨の日でした。 運転手は、先輩タクシーと共に、都会の有名オフィスの地下駐車場で待機していました。法人契約を結んでいる企業の社員に、帰宅や会食先への足として使われるためです。 初仕事で乗せたのは、ネイビーのきれいなスーツに身を包んだ、20代くらいの男性でした。 「前のタクシーを追ってください」 男性は乗り込んでくるなり、ただならぬ様子で言いました。 前のタクシーと言えば、先輩が運転する車。ただ、誰を乗せたかは把握していません。 運転手は、言われるまま車を出しました。 初めは、行き先を知らないまま運転する不安で頭がいっぱいでしたが、ふと研修内容を思い出したのです――「前のタクシーを追え」というオーダーに応えてはならない、と。ストーカー被害を誘発する恐れがあるからでした。 「お客様、念のため、行き先をうかがえませんか?」 たったそれだけを聞くのに、何度も舌がもつれました。 男性は「たぶん駅です」と呟きました。座席に深く沈み、考え込む顔がバックミラーに映りました。 本当にわからないのか、とぼけているのか、詳しく尋ねる勇気はありません。運転手はしばし、アクセルを踏み続けました。 しかし、黙っていると悪い予感が膨らむもの。 「前のお客様とは、どういうご関係ですか?」 男性は「そうですね……」としか言いません。濁されたと、運転手は思いました。 声も手も、震えっぱなしでした。先輩や会社に状況を知らせてよいかわかりません。無線で伝えたくとも、本当に男性がストーカーだったら脅されるかもしれないのです。 「単に、同じ部署の先輩後輩というだけです。彼女、今日が最終出社日で……このまま、故郷に帰っちゃうんです」 何を聞いたのか忘れた頃に、男性はぽつねんと語り出しました。 「好きだったんですけど、伝えそびれていて。ずっと踏ん切りがつかなかったんですが、彼女がタクシーに乗り込むのを見て、居てもたってもいられず」 運転手は、迷いを捨てることに決めました。自分がここでブレーキを踏めば、一組の男女の恋路も断たれると思ったからです。 いえ――本当は、考えるのをやめたかっただけです。 それから程なく、前のタクシーがオフィス最寄りの駅ロータリーに入っていきました。数十のタクシーがひしめく、都心有数の巨大駅です。 合流や出入りが激しく、あっという間に前のタクシーを見失いました。 ようやく乗降場に落ち着くと、料金メーターは千円に満たない額を表示しており、運転手は目を疑いました。ハンドルを握っていた時間がたった数分だったとは、思えなかったからです。 男性は千円札を置いて「おつりはいりません」と言った勢いで、車内から走り去りました。 運転手はその後、新しい客を乗せて次の目的地へ向かいました。初仕事で善き行いに寄与したと満足していました。 こんな無線が届くまでは。 「……駅で傷害事件発生。新幹線ホームで、女性がストーカーに刺された模様。生死不明。駅封鎖により、大幅な需要増が見込まれる。至急、応援求む」 それは、運転手が後にしたばかりの駅でした。後部座席の客が「タッチの差で帰れなくなるところだった」と呟きました。 運転手の記憶は、そこで一旦途切れています。どうも、数十件の仕事をこなしたようなのですが。 翌朝帰社すると、社内は騒然としていました。「刺された女性を乗せたタクシー、うちのらしい」と。 裏付けるように、私の指導に当たった先輩社員の姿が見えませんでした。各所からの噂を束ねると、目撃者として、警察で事情を聞かれているようでした。 その時、運転手の頭には一つの最悪な可能性が鮮烈に閃きました。自分が送り届けたあの男が事件に関与しているかも、と。 であれば遠からず捜査の手が伸びてきて、殺人幇助の罪に問われるのでは。そうでなくとも研修で教わったルールを破ったのを叱られるのでは。何より、自分の判断ミスで人が死んだのでは――。 どれも憶測です。しかし運転手にとっては、人生を揺るがしかねない「もしも」でした。 コピー用紙に書いた「退職願」を残し、人事とろくに話もせず、逃げるように会社を辞めたのです。 家も何もかも放り出し、その足で東京から離れ、地方の小さなタクシー会社に拾ってもらいました。そこでも「前のタクシーを追ってくれ」という依頼を何度か受けましたが、そのたびに過呼吸になるため、扱いづらい社員と敬遠されました。 一つの会社に長く留まれず、各地を転々とし、今ではしがない個人タクシーをやっています。 例の事件の顛末は、追えていません。犯人の顔と名前はおろか、女性が命を取り留めたのかさえ、確かめていないのです。 知れば「自分に落ち度はなかった」と安心できる可能性がある一方、恐ろしい事実を突き付けられるだけかもしれないからです。 絶望の底に落ちるくらいなら、淵に立たされたきりでいる方がいい。 そんな人生でした。いつしか"そうして苦しみ続けること"が、贖罪になるとも思い込んで、現在に至ります。
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