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最後の仕事
乗るタクシーを選り好みする人間なんか、そういない。片田舎の駅ロータリーにもともと停まっていた一台だった、というだけ。
一人使いには広すぎる、バン型。個人タクシー。それだけじゃ別に、見送る理由にはならない。
「いらっしゃいませ。どちらまで?」
帽子をかぶった白髪の運転手が、わざわざ振り返って笑いかけてくる。住所を伝えるのも、道案内も面倒。
「前のタクシーを追ってください」
フロントガラスの向こうに見える緑のタクシーが、徒歩でも追い抜けそうな速度でロータリーを出ていく。
10分はかかるだろうけど、友達に愚痴を書き送る気力はない。
握らされたばかりの千円を、もっと強く握った。これに頼らなきゃいけないのが、本当に嫌だ。
「うっ……ううっ」
泣いている。私じゃない。運転手が、だ。
私、何かした? いや、何も。
「これも何かの罰なのか」
白手袋を目頭に当て、ぶつぶつ言っている。
前の座席の背に貼られているネームプレートを、初めてまともに見た。「助川 倫」。ネットとSNSで検索する。ヒットしない。犯罪者とかではなさそう。
だけど、どう考えてもやばい。降りよう。今ならゼロ円。
「降りま」
「わかりました」
圧のある一言にかき消された。体が固まってしまう。
「普段でしたら絶対……絶対に、お受けしないご依頼ですが、本日は特別ですから」
「何なんですか……こわ……もういいです、降りて歩きます」
「だ、だめです! 絶対に下ろしません!」
ドアが開かない。ロックをかけられた!
電話をかけた方がいい? 110番か、家で待つママか。スマホを持つ手が震える。パパは頼りたくない。
迷っているうちに、タクシーはロータリーを出た。少し先で、前のタクシーが停まっている。
「後を追ってこないから心配して停まってる! 行くなら早くしてください!」
涙声の「申し訳ございません」が車内に落ちる。まだ、心臓がバクバク言っていた。
このおじさん、ボケているのかも。
不安で仕方ないけど、走り始めてはくれたから、様子見。スマホと千円札をまとめて握りしめ、運転席を監視する。
バックミラー越しに目が合いかけ、反射的にそっぽを向く。外が暗いせいで鏡になっている窓に映った私と、代わりに目が合った。その向こうに、林、畑、合間に家。駅回りを離れると途端に広がるド田舎の景色が、うっすら浮かびながら瞬く間に飛び去っていく。
「前のタクシーにお乗りの方と、どのようなご関係で?」
無視しようとした。
でも黙っていたら車の速度が落ちて、車間がぐんぐん開きだした。答えなければ停まりそう。
面倒な一台に当たった。次からタクシーはよく選ぼう。制服のズボンで、手汗を拭った。
「家族。パパです」
「なるほど……なぜ、ご一緒ではないのです」
「……親子の問題に口出さないで」
「失礼しました。しかし、前の車のお客様のもとに、あなたを送り届けた結果、取り返しのつかない事態になっては困りますので」
そんなこと、起こるわけないじゃん。
――口に出さなかったのを、誉めてほしい。疑り深いな、ドラマの見すぎじゃないか。
「ケンカ中なの。家に帰りたくないくらい。さっさと親元離れて、東京の大学に行きたいなぁ」
あのクソ親父には、「東京なんかやめとけ、ろくなところじゃない」とばかり言われてきた。控えめに言って洗脳だ。
しかも今日は、眼中にない地元大学のオープンキャンパスに連行され、古くてダサい校内を延々歩かされた。
ちょうど文化祭をやっていて、酒も売っていた。クソ親父は何杯もビールを飲んで、帰りの電車で爆睡。酒が抜けないせいで、駅近くの駐車場に自家用車を置き去りにする羽目になった。タクシーで帰ると連絡したら、ママは「もったいない!」と怒った。二台に分かれて乗ったと知ったら、怒りを通り越して呆れるかも。
家に着いたら、ママからは小言を食らい、クソ親父の説得第二ラウンド開始だろう。
嫌だな。どうしたら逃げられる。
「そうだ。今から東京へ向かってよ。お金は……あとから親に請求して」
うまい思い付きだと感じたのは、声にするまで。
口が苦い。親元を離れたいとか言っておいて、ムシが良すぎる。
「やっぱ、今のなしで。カッコ悪いな」
「大丈夫。今、カッコよくなりましたよ」
「……ふふ」
いつの間にか、前のタクシーとの距離は元に戻っていた。つかず離れずで程よい。
料金メーターが一つ上がる頃、トンネルに差し掛かった。おじさんが「なぜ、東京の大学に行きたいのですか」と聞いてくる。こんなに質問責めにしてくる運転手、珍しくないか。
面倒だけど、怖くはなくなっていた。
「目立たなくて済むじゃん。東京ならさ、私みたいなのがいっぱいいて、『ちょっと変』くらいだと思うんだ」
ゴツゴツした手に、マーブルのネイル。窓から差し込んできたトンネル照明が爪先に当たって、鈍く輝く。
男なのにネイルなんて、と親を絶句させたけど、押し切った結果だ。
こんなの序の口。メイクが上手くなりたいし、スキンケアもちゃんとやりたい。おしゃれなファッションにだって挑戦したい。知識や理論を専門的に学んで、それを仕事にしたいんだ。
別に、「女」になりたいわけじゃない。"一般的に、女の子が好きだとされるものが好きな、男"というだけだ。
それでも、この辺りじゃオカマ扱い。いじめられなかっただけマシなのかも。
「東京で成し遂げたい夢は?」
「パパと同じこと言うなあ。夢がないと、東京に行っちゃいけないの?」
おじさんは、ハンドルを強く握るだけ。「はい」か「いいえ」をくれれば、出方を決められるのに。
トンネルを抜けてもしばらく、車内は暗い海みたいに静かだった。
仕方ない。メーターがもう一つ上がっても、おじさんが黙ったままなら――ああ、もう上がった。
「……あるよ、一応。やりたいこと、みたいなのはさ」
渋々、打ち明ける。おじさんはほっとしたように「ご家族には伝えていますか?」と乗ってきた。
どんな夢か、じゃなくて、親に伝えたかを聞くのか。
「反対されるから言わない。あ、ママには話したよ。微妙な反応だった。応援はしてくれてないね」
「なるほど」
「けどさ、やる後悔と、やらない後悔って言うじゃない。やらない後悔の方がよくない、みたいな。だったらやりたいことを追いかけた方がいいじゃん、って」
「追いかけた結果、取り返しのつかないことになる場合もありますがね」
窓辺に頬杖をついていたのが、弾みで肘がずり落ちた。
優しいのか冷たいのか、よくわからない。
「ああ言えばこう言うなぁ」
「長く生きてきますと、どうにも慎重になるのですよ。自分にも、他人にも」
メーターがもう一つ上がる。950円。そろそろ到着だ、外を見なくてもわかる。
降りる前に、はっきりさせておきたいことがあるのに。
「一つ、私からも質問ね。どうしてさっき泣いたの?」
「……くだらない理由ですよ。お耳に入れるようなことでは」
急激に速度が緩まる。車を停めてまで語ってくれようとしている――わけじゃない。
見慣れた質素な平屋が、行く手に待ち構えている。パジャマ姿のママが玄関前に仁王立ち。パパはタクシーから降りたところ。スーツと同じようにくたびれている。
「ご到着のようですね。料金950円です」
声が弾んでいて腹が立つ。このまま金を払わずに籠城、いや籠車してやろうか。
息を詰めたら、外から窓を叩かれた。両親お揃いだ。「歓迎ムード」は感じない。お小言マシンガンで蜂の巣にされそう。
「やりたいこと、お話しされてみては?」
おじさんが、バックミラー越しに頷く。ご機嫌な三日月みたいに、両目がにっと細まった。
「正直に伝え、真っ向から反対されたら、すぐさましぼむ程度の夢なのかどうか。ご両親を利用して測ってみればよろしい」
その考えはなかった。目から鱗が落ちる感覚を、初めてまともに味わった。感動すると、お金を自然と払いたくなることも。
千円札を差し出す。おつりを出そうとするおじさんの手を、夢中で押さえていた。
「いらないよ。ちょびっとだけど、チップ? ってことで。親の金なのにエラそうか」
突き返されるかと思いきや、おじさんは口も目も円くした後、千円札を胸に抱えた。
「ありがとうございます、最初で最後のお客様。大変光栄です。普段でしたら絶対に余剰金は受け取りませんが、今夜だけは特別に、ありがたく頂戴します。私、これにてタクシー運転手を廃業するのです」
「えっ」
おじさんは帽子を取り、座席の後ろに貼っていたネームプレートを剥がした。
本当なんだ、本当に私が最後の乗客なんだ。
全身の血が顔に集まってくるみたい。恥ずかしいわけじゃない、怒っているのでもない。何か言い返したいのに、頭がこんがらがる。
さあ、の一言に合わせて扉が開かれる。降りる前に、両親が我先にと頭を車内に突っ込んできて、ギャーギャー言い出した。
「車を駅に置きっぱなしで、明日どうするの! しかも、タクシー二台も使って!」
「仕方ないだろう! 健が、俺と一緒に乗るくらいなら歩いて帰る、って聞かないんだから!」
予想していたけど、いざ目の前にすると溜め息が出る。
おじさんも困り顔だ。最後の仕事を、こんな思い出で汚したくないし、どうしても気になる。このおじさんが、なんで泣いたか。ここで聞き出せなきゃ、一生チャンスがない。
手を伸ばして、パパとママの腕を掴んだ。体を思いきり、後ろへ倒す。
「出世払いするから、パパもママも乗って!」
一人ずつ、車内に引きずり込む。おじさんに「私たちを、駅まで乗せて!」と伝えると、三人分の「ええっ」が響いた。
「何言ってるの!」
「ママの運転で、車拾って帰ってこられるでしょ。いいよね、おじさん?」
「健、お前な」
「パパは黙ってて。ってか、何ならパパはいなくていいんだけど」
親を上手く利用しろ、と教えたのはおじさんだ。私はそれを、早速実践しているだけ。
カチ、カチ、カチ。ハザード音が、等間隔に沈黙を埋める。
おじさんはひとまず千円札をしまって、項垂れた。迷っているみたい。
「駅まで、また10分くらいある。話をしてくれるよね」
「……本当に、くだらないですよ」
脱いだばかりの帽子をかぶった手で、おじさんがハザードを消す。
メーターが最初の料金に戻った。
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