同じ背表紙をなぞる。

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 ――ねえ! ねえ、ママ!  ――もうちょっと……もうちょっと待ってね。  ――やぁだ! ちぃちゃん、かえりたい!  ――もうちょっと……もうちょっとだから。  何十年ぶりかに地元の古い本屋に入り目的の本棚の前に立った瞬間、幼い自分の声とまだ若かっただろう母の声がふとよみがえった。 「あらぁ、千佳ちゃん! 久しぶり! 帰ってきてたの?」  ニコニコ顔をのぞかせたのはこの店の店主でご近所さんでもある佐藤のおばあちゃんだ。  本を読まない私がこの店に客として来ることはほとんどなかった。でも、回覧板を持って行ったり畑で採れた白菜を持って行ったりはしょっちゅうしていた。  東京の大学に行くために実家を出てからはそれもなくなってしまったけど。 「里帰り出産でちょっと前からこっちに戻ってきてたんです。やっと動けるようになったんで母に子供を預けてちょっと……」  買い物に、と言おうとして言葉がのどにつかえた。本を買いに来た。そうと言えばそうなのだけれど――。 「……」  ずらりと並んだ育児本。そのタイトルをなでる気持ちは買いに来たというよりもすがりに来たという気持ちだ。  娘が生まれて一か月も経っていない。妊娠中にたくさん勉強したつもりでいた。先にママになった友達や職場の先輩たちからもたくさん話を聞かせてもらった。覚悟をしていたつもりだった。  なのに――。 「あらぁ、千佳ちゃんがもうママ? て、いうことは佳代さんはおばあちゃんで千晃さんはおじいちゃん!? あらあらぁ! 女の子? 男の子?」 「……娘です」 「あらぁ! いいわねぇ、かわいいわねぇ! 佳代さんも千晃さんもデレデレでしょー!」  佐藤のおばあちゃんの九十歳を超えているとは思えない元気なおしゃべりに愛想笑いしたあと、私はまた本棚に向き直った。 「ねえ、佐藤のおばあちゃん」 「なあに?」 「この店のレイアウトって……本の置き場所って私が子供の頃から変わってる?」  尋ねると佐藤のおばあちゃんは手をひらひら振りながらケラケラと笑った。 「千佳ちゃんがこぉんなに小さいときから佐藤の"おばあちゃん"だったのよ? 古い本と新しい本を入れ替えたりはしても置き場所を大きく変えたりなんて無理よ、無理!」  つまり私が小さかったあの日からずっと、この本棚には育児本がならんでいたということ。  ――ねえ! ねえ、ママ!  ――もうちょっと……もうちょっと待ってね。  ――やぁだ! ちぃちゃん、かえりたい!  ――もうちょっと……もうちょっとだから。  私と同じように本なんて読まない母がそう言って見つめていた本はこの本棚に当時、ならんでいた育児本だったということ。  よみがえった母の声はよく聞けば今にも泣き出しそうにも思える。実際はどうだったのだろう。 「お母さんも、こんな気持ちだったのかな」  新品の本の横に並ぶ色あせた本の背表紙をなでた瞬間、肩の力が抜けた気がした。
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