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先生が人間を拾ってきた。
家に入ってくる前から下ろせ放せとやかましかった子どもは、先生が術を解いて床に落ちると静かになった。「うっ、うぅッ、ぐうう」と何かを堪えるように唸って、泣くのかなと思ったら床を叩いてこっちに吠える。おー、睨んじゃって物騒な、って笑ってしまいそうなほど真剣で。
「僕を家に帰せ!」
泣かない代わりに怒っているような子どもだった。
「どうしたんですか、これ」
「拾った」
興味なさげにそれだけ言って、先生は部屋を突っ切って工房へ向かう。そんなことは見れば分かるんですが、と言いたいけれど、先生からすれば見て分かることを聞くなって言いたいんだろう。確かに、拾うことになった経緯だって予想がついてるわけで。ただ、関わりたくないなあとそれを見る。
元気いっぱいに要望を突きつけながら、防衛本能ゆえか行動は起こさない。顔を向ける相手だって僕を選ぶ徹底ぶり。案外知能がありそうなそれは、睨めば息を呑んで口を閉じた。
もしかしたら分かってるのかなあ、もう帰るところなんかないんだって。
先生は荷物を下ろして戻ってきて、大人しくなったそれに目を向けた。ふむと小さく頷いて僕を向くから、嫌だなって思いながらご期待どおりに口を開く。
「それで、どうするんですか」
「面倒を見てやれ」
「僕がですか」
「お前以外に誰がいる」
もさりと広がる橙色の髪を揺らして、先生は億劫そうに僕に返した。育てる気もないのに何で拾ってきたんですか、とは自分の身の上を考えれば言えるはずがなく、大きく吐き出した溜め息で不満を表しておく。
「死んでも知りませんよ」
「殺すのは禁止」
肩をびくつかせたそれは目を離せば勝手に死んでしまいそうで。そんなことになったら怒られるのは僕なんだよなあって少し憂鬱。
まずは何が必要かって、「おいで」と食器棚からグラスを呼ぶ。次いで「水も」と唱えて、先生の作った魔道具から飲み水をもらう。宙を浮遊して注がれた水を差し出せば、それは後ずさって僕を指差した。
「ま、魔女! おまえも魔女なんだな! 近づくな!」
「僕は男だから魔法使いね、ほら水」
「こっち来るな! 早く家に帰せよ! こっち来るな! 来るな!」
「あーもううるさいな」
そうそう、人間ってうるさいものだった。
どうすればいいんだって先生を見ても反応はない。すべて僕任せってわけだ。
面倒だなあって受け取ってもらえないグラスを揺らす。水がちゃぷちゃぷ波立って、小さく「溢れちゃだめだよ」と話しかける。それを塗りつぶすような人間の声に、嫌だなうるさいな面倒だなあって僕の頭も揺れそうだ。
そんな少し温度の上がった頭で、よく考えもせず言葉を返したのが間違いだった。
「帰りたいんだ?」
「へ、ぇあ。そ、そうだよ! 帰せよ!」
一度きょとんと黙り込んで、すぐに取り戻された勢い。ただ、視線も態度もこちらを窺うようなものに変わったから、なるほど勝手にやってくれと思ってしまって。
「そう、じゃあ帰れば?」
グラスを床に置いて、しゃがんでそれに視線を合わせて、指だけで向こうの扉を指す。そんな僕の指先を追って、扉を見て僕を見て先生を見て、立ち上がったそれは歩き出した。死なれちゃ困る僕はその後ろをついていくことになるけれど、言葉の通じない生き物の鳴き声を延々聞かされるよりは楽だろう。
と、思っていた。
「おいそこはだめ! ってあーもう! 枝お願い!」
まだまだ余っていたらしい体力で駆け回ってもらうことどれくらいだろう。走って転ぶのはかまわないけど、崖から落ちられるのはさすがに困る。
伸びた枝がぐるっとそれの腰に回って、怖がり暴れるのを引き上げる。地面に下ろされるなり逃げるように走り出したそれを、追い付かないように追いかける。
運動能力は悪くないが猪突猛進なそれは、中腹にある家からひたすらに山を登っていった。帰る気ないだろって思わずぼやいて、ちょこちょこ木の実を回収して、夕飯にいいかなって狐を一匹狩ったりして。これだけ歩いても頂上につかないのはもちろん結界が張ってあるからなんだけど、目の前のそれはもちろんそんなことに気づかない。
帰る場所なんてもうないけど、あっても帰ることはできないよ。
そう教えて、静かになるなら楽なのに。この思考が現実逃避とわかりながら、僕が追いかけているのも現実逃避行動中の背中なんだから笑ってしまう。
スピードの落ちたそれはどうやら水場を探していたようで、湖を見つけるなりふらふらと寄って顔をつけた。獣のように水を飲む姿に今までの生き方を見て、どうして帰りたいと思えるのか不思議になる。
先生が拾ってきたということは、生贄として捧げられた子だろうに。
「本当に帰りたいの?」
「帰る」
「帰ってどうするの」
「…………母さんを、」
湖面に映る彼の顔が、くしゃりと歪んだ。
悲しそうというよりは苦しそうな表情に引っかかりつつも、母親に捨てられたんだなってよくある話に相槌を打とうとした。理解してるなら認めればいいのにって言いたくなって、またうるさくなるかなって口を閉じた。そうしたらそれは振り向いて、願うかのように言ってきた。
「母さんを葬りたい」
あまりの言葉に、一瞬時の止まったような。
声大きく主張して考えなしに走っていたそれが、真面目な顔して何を言うんだって。
目を逸らし「母親ね」って雑な相槌を打てば「うん」ってなんだか幼い返事。話が途切れて数秒たって、様子を見ればぽたぽたとそれのあごから落ちる雫に涙が混じっていた。
嗚咽もだんだん大きくなって、けれどうるさいなとは言えなくて、我慢できずに溜め息が出る。それに反応しておそるおそると視線を向けてくるんだから、鬱陶しくて眉間に皺が寄るのもしょうがない。
「いいから。泣きたいなら泣けば」
はあ、と何度でも出てくる溜め息。ただ感じ取るものは違ったらしく、それは僕にくっついて泣き始めた。
顔は涙でぐちゃぐちゃで、髪は湖水でびちょびちょ。僕の服はすぐさまべたべたになって、それの頭を離そうとするけどこれが意外と力が強い。
「水の子、湖にお帰り」
それの髪は汚れが落ちて乾いて綺麗に。僕の服はそれの涙と鼻水で濡れたまま。初めましての水分たちをどこかへやることはできなくて、しがみつく手も解けないしって、さらりと流れる黒髪を引っ張る。
けっこう遠慮なく引いているのに嫌がるどころか頭をぐりぐり押しつけられて、ふわりと数年前の記憶が蘇る。
そういえば、子どもって引っ付きたがりなものだったなあ。
思い出した何かを飛ばすように風の子を呼んで、ついでに彼の体を浮かしてもらう。驚いた隙に彼の手首をとれば、お返しのように彼は空いた右手で僕の手を掴んで。ほら、やっぱり引っ付きたがり。なんてまた考えちゃって気分が下がる。
「もういいよね、家戻るよ」
手を引いて道を戻っていくのに、彼は反抗せずに宙を歩いてついてきた。諦めたのかな、ってそれは聞かずとも明らかで。何も言わない僕の代わりに風の子たちが遊び出す。
彼の黒髪を広げて編んで、楽しそうに。器用だねって褒めれば寄ってきた花の子が赤のポピーで飾り始めて、華やかさに笑えば彼は不満気に僕を見た。
「歩く?」
「歩く」
実はずっと浮かしておくのも大変なわけで。
もういいよと下ろしてもらって、ありがとねとさよならをする。木の葉を起こしながら去っていく風の子たちを、彼は束の間じっと見ていた。
歩き出してもたまに振り向くほど気になるようで、前見て歩いてと言う代わりに手を引っ張る。その度僕をちらりと見ては、何も言わずに顔を伏せる。また帰りたいとか言うのかなって無視していたら、呟かれたのは予想してなかった内容だった。
「ねえ、僕も魔法使いたい」
鼻をぐずぐず鳴らして、詰まった声で。
聞いた瞬間、自嘲みたいな乾いた音が出て、そうだったなあって納得してしまう。どうして忘れていたんだろうって思いながら軌跡をたどれば、アドバイスは一つだけ。
「先生に言いなね」
「……あの人こわい」
「そうだね。じゃあ諦めればいいよ」
「…………言ってみる」
諦めればいいのにって言いたくなって、どうせ無駄かと考え直す。ようやく見えてきた家を見て、彼はお腹すいたと訴えてきた。子どもってこんなにふてぶてしかったっけとちょっと悩んで、もういいかって手を離す。
握り直してきた彼の手は小さくて、けれど僕といくらも変わらなかった。
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