甘い甘いホットミルクを。

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甘い甘いホットミルクを。

「弟のくせに!」 朝から姉の美桜の声が家中に響く。 毎日のこと。 まるで朝の儀式のようなもの。 「弟のくせになまいき! 姉に譲ろうと思わないの?」 「おとうとおとうとってうるさい美桜。たったひとつの年の差で姉面すんな馬鹿美桜」 「ひとつでも年上は年上なの!」 「うっへえ、じゃま」 桜輔はもごもご言い返し美桜の脇を小突く。 口には歯ブラシをくわえている。 朝の洗面所は姉弟二人の順番争いで毎日うるさい。 父親の誠史郎の出勤は朝がはやい。母親の清香のパートは10時から。 したがって洗面所は同時刻に家をでる美桜と桜輔の二人の争い。 中学1年の桜輔と中学2年の美桜。 小さい頃はもう少し仲がよかったのだけれど。 母親の清香はため息をついた。 「桜輔、さっさと場所をあけて。美桜は遅く起きたんだから、あと。当たり前でしょ。いやなら早く起きなさい」 * ピアノを始めたのは桜輔が先だった。 幼稚園で先生が弾いてくれる音に興味を持った。 ぽーん ぽーん 家にお迎えしたピアノを人差し指でさわる桜輔を横で見ていた美桜が、続いてピアノを習い始めた。 習字を始めたのは美桜が先だった。 清香が家で時折筆をとって字を書いているのを見て、書いてみたい、と言った。 鉛筆の持ち方から姿勢まで、まずは清香が自宅で教え、小学校に上がる頃に習字教室に通い始めた。週に一回わくわくした顔で教室に連れて行ってもらう美桜を玄関で見送っていた桜輔が、翌年から一緒に習字教室へ通い出した。 * 二人は追いかけあい、並んで成長してきた。 清香が思うに、あれは対抗心でもあり、同じことをしたいという執着であり。 要するに。 「仲がいいってことだと思うのよね」 「え? 俺たちのこと?」 「──あなたが夫でほんとに楽しいけど、ありがと、ちがう。ちがうくて、桜輔と美桜のこと」 清香は夫の誠史郎にむかって顔の前で手を振ってみせ、困った顔で応えた。 「ああ、あんなのほんとにただの仲良し姉弟だよ、清香は一人っ子だからわかんないかもしれないけど」 「あなた四人兄弟の三番目だものね」 しみじみと清香が言って、誠史郎が深く頷く。 「今思えば、あんな小競り合いかわいいもんだよ。俺なんか兄貴たちに何度穴に落とされて木から落とされたことか」 「よく生きてたわね」 「最終的には兄貴たちが助けてくれるんだよ。だから兄貴たち優しいなあってだまされるんだけどね」 「最後の印象がいいんだ」 「そ。だからあんなのはじゃれてるくらい。もっとあってもいいくらいだよ」 「──私はこれ以上朝がうるさくなるのはヤダけど?」 「ごめんごめん、でもよろしく。こんなのはもう、あと少しだけ。味わっていこうよ」 「子育て? じゅうぶん味わってるけどな。まあいっか。そうね、あと少しだものね」 * ピアノも習字もだけれど、勉強もお互いの成績が気になって仕方ない。 定期テストの順位をテスト終了から三日後に見せ合う暗黙の決まり事。 今回は美桜が学年で10位で桜輔が11位だった。 「おねえさまと呼んでもよくってよ?」 「やだね。呼ばねえ」 「11位のくせに」 「たったひとつだろ? 次みてろよ」 実は今回は自信がなかった。 だから美桜は姉としての威厳を保てるかどうか不安だったのだけれど。 なんとか面目が保てたことに、こっそり胸をなでおろしていた。 「美桜さあ、こないだ5位だったろ? 調子わりいじゃん」 「あんたに言われたくない。こないだ7位だった桜輔くん」 ばれてた。 調子悪いこと。 美桜は胸をなでおろした手を頬に持っていく。 あさっての方向をみて、なんでもないもん、と呟く。 「ふうん? 俺さあ、小耳に挟んだんだけど」 「え」 美桜の胸がどきんとはねた。 「なに、を?」 桜輔がじいいいいいっと美桜の顔をみつめて、それはそれは穴が開くほどみつめて、口を開く。 「3年のエース的なあの人、斎賀さん? あの人が」 「あの人が?」 どきんどきんと心臓が大きく鳴る音が美桜の耳を塞いでいる気がして必要以上に大きな声で聞き返していた。 桜輔はまた少し黙って、視線を空中にさまよわせる。 10秒くらいたったころ。 「美桜の友達とつきあいだしたんだって?」 * 桜輔がその名前を知っていたのは、学校内でも『かっこいい先輩』として有名だったから。 というのはもちろんなのだが、美桜の部屋で漫画を漁っているときに見つけてしまったからだ。美桜がおそらく隠していたのであろう、日記帳を。 いまどき手書きで日記なんてつけるのか? 見つけたときは笑ってしまって、ついついページをめくってしまったけれど。 同じ人の名前が20回はでてきたと感じたとき、その日記帳を閉じた。 『斎賀先輩っていうんだって。かっこいいな』 から始まって、同じ委員会に入った、同じ道をとおった、授業の移動中に見かけた、窓から体育の授業を見ていた、──目が合った気がする、という妄想まで。 美桜の気持ちを覗き見している後ろめたさで心臓がバクバクした。 「やばい、これ」 これは見たらだめなやつだった。 すでに後の祭りだったけれど。 * 桜輔が『斎賀先輩』と言い出したとき、美桜は心臓が止まるほど驚いた。 逃げるように自室にもどって、ベッドにぽすんと体を放りだす。 枕に顔を埋めて息を止めた。 目を瞑らなくても目の前は真っ暗だった。 友達の菜々子が斎賀先輩と手をつないでいる光景が嫌でもうかんでくる。 目の前は真っ暗。 美桜は寝返りを打って天井を見上げる。 外はまだ明るい。 けれど目の前は真っ暗。 真っ暗な上になんとなくぼやけてきて、目のふちをすっと指でぬぐうと温かく湿った感触。 「あーあ」 大きなため息をつきながら、大きな声を出したくなる。 あーあ。 あーーあ。 あーーーあ。 窓から叫びたいけれどそれは恥ずかしい。 桜輔にも聞こえてしまう。 「いやだし。桜輔に知られたらどんなに笑われるか。そんなのサイアクだし」 もう一度寝返りを打って今度は枕に顔を埋めたまま叫ぶ。 『あーーーーあ!! わたしも好きだったのに!』 まだ菜々子と笑い合える気がしない。 美桜は何度か鳴ったスマホの画面を見つめた。 菜々子からのメッセージがあることを知らせている、画面を。 * 「美桜、お友達きてるわよ」 「だれ」 「菜々子ちゃん」 清香に部屋をノックされ、美桜はベッドから飛び起きた。 ぐっちゃぐちゃの髪、顔、だらだらの部屋着。 自分の姿を瞬時に悟って、美桜は大声で応えた。 「いないって言って!」 「むーりー。あ、桜輔? ちょっと待って桜輔」 のんびりした清香の声が途中から焦ったように聞こえた。 部屋の外のことだから美桜には見えないけれど、どうやら桜輔が玄関に降りていった気配。 「なんで桜輔が?」 それでも乱れた姿で菜々子の前に飛んでいく勇気は美桜にはなかった。 好きな人と付き合いだして、キラキラ輝いている菜々子の前にはとても。 部屋からそっと廊下へでて、玄関で桜輔が菜々子と話している声を盗み聞きする。 小さい声で話しているから、いくら聞き耳をたててもよく聞こえない。 「美桜!」 ぎくりとする。 突然桜輔が美桜を呼んだのだ。 「おまえ、逃げたらだめだろ! 決着つけろよ!」 なんで、なんで桜輔なんかに。 怒られないといけないの、わたし、お姉ちゃんなのに。 美桜は泣きたい気持ちで、廊下にしゃがみ込んだ。 ──なんでなんで。 ──なんでなんで、桜輔に。 ──なんでなんで、菜々子がくるの。   「ほっといてくれていいのに」 混乱する頭がまとめられず、膝を抱えてそこに顔を埋める。涙がでてきて膝をぬらす。 しばらく動けずにいた。下からは美桜を呼ぶ声が何度も聞こえてきたけれど。 気持ち悪いくらいぐしょぐしょに、涙と鼻水で顔も膝もぬれたとき。 不意に人の気配がして顔をあげた。 「ほら、ホットミルク。母さんが」 湯気のでているカップを桜輔が美桜の目の前に、にゅっとだした。 わずかに甘い匂いがする。 こういうときの、特別な匂い。 「砂糖、はいってるから甘いよ」 こういうとき、つまり気持ちが落ちているとき、お母さんはホットミルクをいれてくれる。 でもホットミルクに砂糖を足していれてくれるのは、桜輔。 桜輔特製の、甘い甘いホットミルク。 始まりは美桜が砂糖をいれてあげたホットミルク。 桜輔が友達と喧嘩して元気がないときに。 そしていつのまにか、美桜が元気のないときには桜輔が砂糖をいれてくれるようになった。 お互いの特製の。 カップを受け取って一口飲み込む。 「あま」 「サービス」 「太るし」 「じゃ飲むな」 「うそ。ありがと」 「菜々子さん、帰ったよ」 「ん」 「ぬけがけしてごめんって」 「……ん」 「負けてんじゃねーよ。馬鹿美桜」 「「ん?」」 階段下で姉弟の会話を盗み聞きをしていた清香まで思わず『ん?』と声をだしてしまい、慌てて口を塞ぐ。 「菜々子さんキレイだけど、おまえ負けてねえよ」 「んん?」 「だーかーらー! 次の恋にいけってこと!」 そこまで聞いて、階下で笑いをこらえていた清香が吹き出した。 その声につられて美桜もぷぷぷっと吹き出す。 「なに? 励ましてくれるの?」 「ちがっちがうくて」 さっきまでの冷静な桜輔がどこかへ行ってしまった。 赤い顔で地団駄を踏んでみせる。 「おまえがっ」 「わたしが?」 「おまえが俺の先いってくれないと、追いかけて追い越す優越感を感じられないだろってこと!」 「つまり?」 「次の恋にいけ」 どうでもいいような顔で、声で、桜輔は美桜に、先に行けと言った。 『仲良しなんだなあ』 二人の会話が清香の心を軽くした。ほんわりとあたたかく。 これからもこんなふうに追いかけっこが続くこと。 仲のいい二人を見守れること。 子育ての楽しみってこれかな、と思いつつ。 * 『菜々子が斎賀先輩の横を歩いて登下校する。 その姿をみてももう涙は出ない。』 数日後、桜輔はこっそりと再び美桜の日記帳を盗み見た。 しおりが挟まれたページの最初の文章にほっとして、さらにページをめくってみる。 そこには一言。 『桜輔、ありがと。でももう読むな』 思わず吹き出す。 ──読んだことバレてたか。 パタンと日記帳を閉じて、桜輔は元の場所にそれを戻した。 『次に期待』 その一言だけを、書き足して。
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