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7区は最初の1kmが平坦で、そこからはゴールまで殆ど登り坂になる。わかっていたことだけど、登り坂に辿り着くころには襷を受け取った時よりも翔の姿は小さくなっていた。
「勇人先輩、先頭との差25秒です!」
1km地点でタイムをとっていたマネージャーから声が飛んでくる。
5秒離された。
大丈夫だ、想定の範囲内だと言い聞かせる。どのみち、フラットでまともに走っても翔とは勝負にならない。
勝機は、ここから4kmの登り坂。練習だけじゃなくて、普段から山を上り下りするような生活をしているからか、アップダウンだけは翔と勝負できる自信があった。いや、勝負できるだけじゃ足りない。追いついて追い越さなければ、これが高校最後のレースになる。
「勇人先輩! ファイトです!」
マネージャーの応援を背中に受けて、足に力を込める。1位になれなければ、2位でも3位でも一緒だと勇気をもってピッチを上げる。無茶なペースだけど、もし潰れてヘロヘロになったらその時はその時だ。
それくらいのリスクをとらなきゃ、万に1つも翔に勝てる可能性なんて残っていない。
登り坂でペースを上げたせいで、足と肺がジワジワと苦しくなる。それでも絶対に翔から視線は外さない。
――桜林も頑張ってるけど、今年も1位は開米で決まりだな。
沿道からそんな声が聞こえてきた。そんな声に反骨心がムクムクと湧いてくる。
上等じゃねえか。どこの誰だか知らねえけど、今の言葉忘れんなよ。
少しずつだけど、翔の背中が近づいている感触がある。
翔からすれば失敗しなければ勝てるレースだ。落ち着いた走りでまとめてくるだろう。その翔を慌てさせてやる。
じわりじわりとだけど、翔との距離が迫っていく。このペースを維持できれば追いつけるかもしれない。
残り3km、翔との差は15秒に縮んでいた。いける。このペースで追いかければギリギリ追いつける。
沿道からざわめきを感じた。いけ!、追え!という声が大きくなる。その声がますます俺を励まして、疲れが溜まり始めた足を後押しする。追いつける。
だけど、追いかけ続けた翔のフォームが少し変化した気がした。
それは気のせいではなかったようで、そこから1km走っても距離を詰めることもできなかった。
翔も俺とのタイム差は要所要所で聞いているはずで、距離を詰められていることを知った翔が2kmの地点からペースを上げたんだろう。
俺が1走とか2走なら翔相手に離されないだけで上出来だけど。
焦燥感。
追いつけと体は焦るのに、無理なペースを刻んできた体は悲鳴を上げ始めている。追いついている間は気分的にも無理が効いたけど、その距離が詰まらなくなると途端に疲労感が増した気さえした。
無理なのか。結局俺はどこまでいっても翔にはかなわないのか。どれだけ追いかけても、この距離を詰めることはできないのか。
悪い、早苗。俺、また約束果たせそうにないわ。だけど、十分頑張ったよな――
「勇人!」
ざわめきを突き抜けるような声がした。
まさか、と思う。だって、日本の端と端にいるような相手だ。
そんなやつが県大会の会場に来ているはずがない。それなのに。
「諦めんな、勇人!」
もう一度声が聞こえて、声の方を見ると沿道の中にその姿を見つけた。
ジャージ姿の早苗がじっとこちらを見ていて、目が合うとニッと笑みを浮かべる。
次の瞬間、早苗はショートカットを跳ね上げて俺と並走するように沿道を走り出した。
「勇人が走ってきた6年間は、こんなところで折れるようなものじゃないってアタシは知ってる!」
勝手なこと言うなよ。少なくとも高校に入ってからの三年間、俺がどんなふうに走ってきたかをお前は知らないだろ。
そもそも、俺みたいに届かないものをひたすら追いかけてきた奴の気持ちなんてわからないだろ。
「何度心が折れかけたって、絶対にあきらめないで走り続けた姿を見てきた!」
早苗がペースを上げて俺よりもズイズイっと前に出る。
「だからっ! 勇人なら、絶対に届く!」
くるりと振り返った早苗は不敵な笑みを浮かべて口元に両手を添える。
「全国で待ってる――」
足を止めた早苗の声は急速に遠ざかっていく。
けれど、その言葉が何度も頭の中で反響した。別に特別なことじゃない、スポーツ漫画じゃ月並みに出てきそうな言葉。
そんな言葉がどうして今更心に響くんだろう。何がこんなに俺をかきたてるんだろう。
負けたら2位も3位も一緒だ。もう一度自分に言い聞かせる。
小さく息を吸って、自分の体に問いかける。無茶なんて何度もやってきただろう?
吸い込んだ息を吐きだして、カチカチカチと体のギアを切り替える。
「行けーっ! 勇人ーっ!」
遠くから微かに聞こえてきた早苗の声が、トンっと俺の背中を押した。
ペース配分とか関係ない。まずは翔に追いつく。そこからどう勝負するかはそこから考えればいい。
いつまでも縮まらなかった翔との距離が嘘みたいに縮んでくる。1m、また1mと迫ってくるその背中を励みに坂道を駆け上る。
初めて翔が小さくこちらを振り返った。
レース中にそんな仕草をする翔の姿は初めてだったし、焦った顔をする翔を見るのも初めてだった。
周りの景色も声も遠い。ただ視界の中にあるのはゴールへと続く道と、前を走る翔の背中だけ。
さあ、進め。あと一歩前に出ろ。俺はきっとこの日のために地べたから空を見上げて走ってきた。
「勇人さんっ! あと3秒!」
ラスト1km、もう翔の背中は目の前だった。もう一度翔がこちらを振り返る。表情が硬い。
いける、届く――。
完全にオーバーペースなはずなのに、まるで息が苦しくない。多分、今の俺は笑ってる。
走るのが楽しくて、楽しくて仕方なかったあの頃のように。まだ翔と隣を並んで走っていたあの頃みたいに。
――並んだぞっ!!
沿道から響く誰かの声とどよめき。それ以上に大きく聞こえてきたのはすぐ横の翔の息遣いだった。こうやって本気で隣を走れるのはいつぶりだろう。同じころに陸上を始めたはずなのに、翔は俺の遥か先にかっとんでいってしまっていた。
だから、この瞬間が楽しい。
でも、楽しいだけで終わらせたくはない。さっき、三度目の約束を交わしちまったんだ。全国で会うって。
もう一段階、多分これがギリギリまでペースを上げる。けれど、横に並ぶ翔との距離は変わらなかった。ピッタリ真横に着く翔と並走しながら、ゴールとなる県営競技場に近づいていく。
あと600m。二人分のメチャクチャな呼吸が聞こえる。もう呼吸もフォームも気をつかっていられない。ただ、隣を走るこいつには負けないという意識だけで足を前へ前へと推し進める。
競技場に飛び込むと、怒号のような歓声に包まれた。
この6年間、散々走ってきたタータンのトラックを駆け抜ける。
これが本当に本当の最後の直線。
体中から最後の一滴までエネルギーを振り絞って、スパートをかける。焦るように息を吸う翔の声が隣から聞こえた。
なあ、早苗。もし俺が全国に届いたら――。
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