全国で待ってる――

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 ゴールしてからのことは、いまいち覚えていない。  そのままトラックの内側に倒れ込んで、妙に青い秋空を見上げていた。  0秒87。それが、7人で42.195kmの距離を襷でつないできた俺たちと翔たちの差だった。  1秒にも満たない僅かな時間。その分だけ俺は翔に届かなかった。俺たちは全国に届かなかった。  隣でどさりと音がする。ぜえぜえという荒い呼吸が俺のものなのか、隣に倒れ込んだ翔のものなのかはもはやよくわからない。 「はじめてだ」  翔の声に首を動かすと、翔は空を見上げながらぼんやりと呟くように言葉をこぼしていた。 「はじめて、走ってるときに負けるのが怖いと思った。そしたら、体がガチゴチになって、上手く走れなくなって。全部、はじめてだ」  翔の首が俺の方を見る。初めて見るような笑みだった。疲れ果ててるけど、やり切った顔をしてる。 「追いかけられるのって、こんなに怖かったんだな」 「お前にそう言ってもらえたら、少しは救われた気がする」 「何言ってんだよ。勇人、お前ほぼ確実に7区は区間賞だぞ。個人勝負なら俺は負けてる」 「でも、」  翔から視線を空に戻す。上を向いていないと涙が零れてきそうだった。  確かに今日、俺は一対一という意味では翔に勝ったかもしれない。 「でも、全国に行くのはお前らだ」  1秒にも満たない時間、追い付けなかった。最後の1歩分、俺たちは翔たちに届かなかった。まだ高校生活は残っているけど、高校最後のレースは翔より一足先に終わってしまった。 「全国大会、頑張れよ。というか、今日みたいな不甲斐ない走りしたら許さねえから」  こうやって隣を走ってわかってしまった。俺と翔の間にはまだまだ高い壁があって、どうやったらそれを乗り越えられるか見当もつかない。今日、こうやって俺が翔に追いつけたのはコースとかコンディションとか――後押ししてくれる応援とか、色々なものが重なった偶然だ。 「今日の勇人みたいに怖いやつなんて、全国大会でもそういないさ」  翔が小さく笑って立ち上がり、俺に向かって手を差し出す。 「だから勇人。大学行ったら、またガチンコでかけっこしよう」  その手を取って、疲労困憊の体をどうにか起こす。翔の手を握ったのはそこまでだった。 「言ったな。首洗って待ってろよ」 *  監督が色々締めくくりの言葉を言って解散してからも、しばらく競技場から離れることができなかった。  それは高校最後のレースが終わった寂しさみたいなものも少しはあったけど、本当に体力を最後の最後まで使い果たしたみたいで全く動けそうにないのが一番だった。  競技場のスタンド席から赤褐色のタータンを眺める。他の部員もしばらく付き合ってくれてたけど、いつになったら動けるかわからなかったから流石に帰ってもらった。 「お疲れ、勇人」  後ろからふぁさりとタオルが掛けられる。振り返ると、ジャージ姿でニコニコ笑う早苗がいた。 「お前、なんでここにいるの?」 「久しぶりに再会した第一声がそれってどうなのよ」  早苗は小さく頬を膨らませながら、隣の席に座る。何となく、中学時代に授業を受けてた頃を思い出した。  とにもかくにも、早苗はここから遥か離れた場所で過ごしているはずで、ちょっと遊びに来るような感覚で来れるはずないのだけど。 「来ちゃった。勇人の応援したくて」 「応援って、昨日の電話は」 「あれ、ホテルからかけてたんだよね」  それならそうと初めから言ってくれればよかったのに。ああ、だけど、何も知らなかったからこそ途中のあの応援は効いた。あれがなければレース展開は全く違って、今以上に悔いばかりが残る結果になっていたかもしれない。 「でも、来てよかったと思ってる。負けず嫌いの勇人にはあの応援が一番きくと思ってたし」  それについてはぐうの音も出ない。心が折れかけてたところに気持ちいいくらいにぶっ刺さった。  でも、だからこそ。こうして早苗の隣座ると胸がギリギリと締め付けられる。 「ごめん、早苗。俺、また全国に届かなかった」  せっかく遠路はるばる応援に来てもらったのに、俺は約束を果たせなかった。全国で再会するという約束は高校ではもう果たせない。 「そうだね」  早苗はさっき座ったばかりの席から立ち上がると、俺の正面に回る。とても近い距離から目と目が合う。 「でもね、私には届いたよ。勇人の気持ち」  早苗がそんな言葉とともにはにかんで、思わずその顔を見ていられなくなって下を向く。  どういう意味だよ、それ。今日は翔に勝つことに精一杯で気持ちとか言われてもよくわからないんだけど。  いや、本当はさよく知ってる。なんでそこまでして早苗と約束した全国に行きたかったかなんて、とっくのとっくに気づいている。 「ね、勇人。来月の全国、よかったら応援来てよ。予定は空いてるんでしょ?」  早苗の両手が俺の頭を掴んで、無理やり目を合わせられる。そんなふざけた仕草をしているけど、早苗の目は真剣だった。正面からまっすぐに見据えられて、心の奥の方まで見透かされたような気分になる。 「……いや、テレビで応援しとく。全国は自分の力で勝ち取っていくよ」  だから、正直に返す。早苗は県大会まで応援に来てくれたのに怒るかなと思ったけど、早苗はちょっと呆れたようにして笑っていた。 「うわっ、本当に負けず嫌い」 「悪いかよ。もう今更直らねえよ」 「直せなんて言ってないよ。私はそんな勇人の走りだから見たくなったんだし」  ポンと俺の頭を支えにするように手を置いて、早苗が立ち上がる。それはちょっと冗談めかした仕草にも、最後に励まされたようにも感じ取れた。 「ま、そういうことなら仕方ないか」 「ん……もう行くのか?」  そう声をかける頃には早苗は歩き出していた。まあ、そうだよな。翔も早苗も一か所にじっとしていられるようなやつじゃない。  だから追いかけるのは死ぬほど大変で、そのおかげで俺はここまで這い上がってこられたと思う。 「うん。これから戻って明日からしっかり調整しないといけないしね」  ふっと立ち止まった早苗が振り返る。その顔に浮かんでいるのは挑戦的な笑顔。 「またね、勇人。全国で待ってるから、今度こそ追いついてね」
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