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吉野若葉の場合
亀坂美緒と出井彩芽の喧嘩の一部始終を見ていた。朝霧麗華が本当に親友だと思っていたのは自分だと主張し合う彼女たちを止めることはしなかった。あまりにも不憫だったから。
担任を受け持ったクラスでいじめがあっても止めなかった。被害者は「朝霧麗華は失恋を理由に自殺した」と不謹慎なデマを流そうとしていた。それならば自業自得だと思ったから。
「先生、婚約したって本当?」
真っ赤な嘘だったけれども否定しなかった。その方が都合良かったから。
母校に赴任して早四年。顧問を務めるバドミントン部に入部してきたのが朝霧麗華だった。彼女は別格の腕前を持ち、飛びぬけて美しかった。
部内の圧倒的エースとして目をかけるうちに、彼女は私を信頼するようになった。バドミントンの話だけでなく、プライベートな相談を受けるようになり、学校外で会うことも増えた。
おかしいことだろうか。十歳も年下の同性に心酔することは。たとえおかしいことだとしても、麗華のような特別な人間が私に心酔することに比べたら随分と自然なことに思えた。
「先生、私と付き合って」
麗華は自分が美しいことを自覚していた。だから、私はふと見たくなった。もし、一度断ってみたら彼女はどんな顔をするのだろう。麗華の心の全てを暴きたかった。
「卒業まで待ちなさい」
おあずけをくらった彼女は私に縋った。
「絶対待っててね。裏切ったら死ぬから」
彼女は自分自身の価値を分かっていた。にもかかわらず、精神的に不安定なところがある。その危うさも含めて、私は麗華を愛していた。
生徒と教師の禁断の同性愛という道を選ぶこともできたし、きっとそれが一番幸せな道だったのだろう。でも、それは束の間の夢に過ぎない。
麗華がこの先大人になれば、私より素敵な女性にも男性にもいくらでも出会ってしまう。彼女が私に心酔しているのは、この学校という空間には麗華が歯牙にもかけない子供と冴えない中年の大人しかいないからだ。教師の中でたまたま一番若く、化粧もろくに覚えていない子供や親世代の教師に比べれば相対的に美しい。頭の固い中年と人生経験の乏しい子供に比べれば相対的に理解者としてふさわしい。
麗華が広い世界に飛び出せば、三年間だけの魔法は解けてしまう。部活の顧問かつ担任という立場ゆえ共に過ごす時間もなくなれば、私が依存するほどの価値のある人間でないと気づいてしまう。そうすれば麗華は恋人の私を捨てるだろう。私以外の誰かに抱かれ、私を忘れて生きていく麗華。想像するだけで恐ろしい。
だから、私は朝霧麗華を殺すことにした。私が心酔した朝霧麗華を、朝霧麗華のまま殺すことにした。麗華を永遠に私のものにするために。
匿名のSNSで流した私の婚約情報は、噂好きの男子生徒によってあっという間にクラスに広まった。真偽を確認せずに軽率に噂を流すようなことをするから、破滅する。面白いほど計画通りに動いてくれた。
「ねえ、嘘だよね?」
私は噂を否定しなかった。
「恋人と別れてくれなきゃ死ぬから」
「どうせ口だけだって分かってるのよ」
こう言えば麗華が自らの本気を証明するために死ぬと分かっていた。
「私が死んだら、泣いてくれる?」
「きっと後を追うでしょうね」
私の言葉に麗華は笑った。麗華は私の目の前で、極めて自然な動作で車道に飛び込んで自殺した。
麗華は失恋して自殺した、そう言い出した生徒への制裁を私は黙認した。紛れもない正解だったから。麗華の死に私が絡んでいると知られては迷惑だ。地動説を唱えたコペルニクスもガリレオも糾弾されたように、触れては身を亡ぼす真実もある。ただ、一つだけ訂正するのならば、自殺の理由は失恋だったとしても、髪を切った理由は失恋ではない。麗華はそのような陳腐な行動をする女ではない。
だから、表面上の麗華だけを見て分かったような気になっていがみ合う教え子が酷く滑稽に見えた。自分の知る範囲の常識に麗華を当てはめる馬鹿な子たち。可哀想な彼女たちに優越感を覚えた。
どちらが麗華に愛されていたか。どちらも愛されていないに決まっているでしょう。麗華の口から亀坂美緒の名前も出井彩芽の名前も聞いたことはない。あの日麗華に渡された遺書にだって一言も書いていなかった。あなたたちは麗華に心酔しているんじゃなくて、麗華が好きな自分に酔っているだけなのよ。
心酔者気取りの哀れな少女たちが帰った後の中庭で薬指のダイヤを見ながら思う。さて、いつ死のうか。でもね、早く会いたくて仕方がないけれど、私から会いに行くよりも麗華から会いに来てほしいの。だから、私を殺してよ。そうしたら、貴女の声をまた聴けるかしら。
「好きよ、麗華。愛してる」
生前の麗華に言えなかった言葉を指輪に口づけて呟く。やっと手に入れた。私だけの麗華。もう少しだけ、生きてこの幸せを堪能してもいいかもしれない。
この世界で唯一の朝霧麗華の心酔者として。
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