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昔、私達母子の棲むこの村は、荒神の災禍を受けて滅びかけた。
――荒神が村を滅そうとしたのは、あの鬼――オマエの母のせいだよ。アレが荒神を誑かしたのさ。
過去に一度、実に忌々しげに吐き捨てたのは村長の妻である。女の態度と言動で窺えたが、どうやら母を誰よりも憎んでいたきらいがある。
そして女の罵詈の後、村長は口を下卑た笑みで歪めながら続けた。
――アレは昔、人だったのよ。誰もが目を覆うような醜女でな。されど、荒神の覚えはよかったのだろう。荒神を色で誑かしおった。
愚かな女よ。お前を宿すまで幾度もあの災禍と交わり、果ては鬼に堕ちてしもうた。
村長とその妻が、侮蔑と共に吐いた母の過去の真偽は私にはわからぬ。だが、彼女が心身ともに人でないのは確かである。
なんでも、荒神と交わることで肉体は徐々に人間離れしてゆき、やがて心も鬼へと変じたのだとか。そして、私を産んだ直後、母は完全に人でなくなった。
――アレは鬼、そしてお前はバケモノだ。
村長をはじめとした村人の殆どが、私達をそうと見なした。
もっとも、私に言わせれば、私達を酷く罵る彼奴らこそが人でなしの畜生に見えたが。
母ももしかすると、私と同様に感じているのかもしれない。
母は娘である私以外の者の言葉を解さない。されど、人の心がまったく汲めぬわけではない。
彼女は人間の邪心にのみひどく敏い。殊更、他者から私に向けられる邪な感情には敏感で、僅かでも不穏を感じれば、私の制止など聞かず、容赦なく相手に牙を剥いた。
そんな母子を村人達が疎ましがるのは尤もなことで。
元より孤児だった母は、荒神の子を宿したと周知されたその時に、村長と村人総出で荒神を祀る社に追われた。
そして、母は私が産まれると同時に、バケモノを始末しようとした村人の邪心に触れて完全な鬼となってしまう。
子を守って暴れた母は、その場にいた全ての村人を血祭りに上げたことで、とうとうその身を社に縫いつけられたのだった。以後、今日まで私達母子は村八分に遭ったままだ。
私達の棲むこの社は、祓い師により退治された荒神の魂を鎮め、封じるために建立されたものである。
荒神を祀るにしてはあばら屋のようななりで、そこに村人の荒神と鬼への怨みが容易に窺えた。
この荒んだ社は天候に左右され易く、決して快適とは言えない。村八分に遭っているために生活は常に困窮しているが、それでも私は構わなかった。だって、ここにいれば、荒神の守護を受けられるのだから。
それというのも、私が食糧や生活に必要なものを求めて社の外を出れば、村人から迫害を受けてしまう。しかし、社に籠もって大人しくしていれば、彼奴らはこちらを遠巻きに監視するのみで、決して私達母子に手出しはしない。
彼奴らは恐ろしいのだ、社の最奥に封じられた荒神の骸に近付くのが。荒神の眠る地でその娘を害し、母鬼の怒りを買うだけならいざ知らず、うっかり荒神の逆鱗に触れて祟りに遭うのを至極恐れているのだ。
よくも悪くもこの土地には、荒神の畏怖が染み着いている。その上で、私達が社に籠もっている限りは身の安全が保証される。
母も身を寄せているのが荒神の眠る社だからか、ここで娘の私といる間は心穏やかに過ごしていられた。
だが、今、その母が社にいない。
あろうことか、村人が下卑しつつも恐れる鬼が、行方知れずとなってしまったのだ。
ヒュウヒュウと甲高い隙間風の音と、ピシミシと家鳴りが聞こえる。
ヒイィーーッ
ドサリ
夜の闇の中で響く、耳を劈く甲高い音。次いで重く鈍い衝突音が隙間風の音に混じった。
外は連日、大雪が続いている。平時であれば、先の音は突風と屋根だか木の枝に積もった雪が落ちた音と言い切れたかもしれないが、今はまったく別の音のように思える。
(いや、思えるのではなく、そうだ)
ここは山村。冬になれば当然のように大雪に見舞われるし、突風や雪の音など嫌というほど聞いてきた。だから分かる。今の音は聞き慣れたものではなくて、非日常でしか聞けぬ異音であると。
嫌な予感がした。外は大雪であろうが真っ暗な深夜であろうが、行方知れずの母を探さねばならない。頭の中で絶えず警報が鳴る。
私は寝間着の上に母の羽織を着て、風が吹き荒び、牡丹雪が降る極寒の闇の中へと足を踏み入れた。
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