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透明な雨の中で、深紅の飛沫が散った。
その時の敵の顔を、吉之助は忘れない。
やってしまった、と内心思いながら、どこかで、どう胡麻化すかと考えているような目つき。
あれは弱い者を蔑む目だ。相手の痛みを認められない者の顔だ。
吉之助は傷ついた腕で応戦した。思いがけない流血で、敵は最初から腰が引けている。
首根っこを掴んで泥水の中に顔を押し込んでやり、「認めて詫びろ」と怒鳴った。
だが、いくら相手が認めて詫びたところで、吉之助の腕は治らなかった。この時の傷がもとで、右腕は生涯、伸びなくなった。
武芸を磨き、誰よりも強かった吉之助は、剣の道を諦めざるをえなくなった。
(やってしまった後は、もう、戻らぬもの)
雨に濡れながら、帰宅する。
まあまあ、すっかり濡れて。お帰りなさい。
家族が驚いて迎え入れてくれる。
「大事な体なのですから」
妹たちが案じてくれる。
貧しいが、家族は仲が良かった。
「兄上、雨漏りが酷くて、兄上のご本が濡れてしまうので、ぜんぶ、押し入れに移しました」
迎えてくれた弟が言う。
吉之助は頷くと、「ありがたい」と礼を言った。
剣を諦めて以来、吉之助は勉強家になった。
郷中で右に出る者がないほどの読書家である。
(俺は倒れても立ち上がる)
本当に弱い者とは、誰なのだろう。
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