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この日、一番乗りで部室へとやって来た涼は、辺りの静けさを噛みしめながら、畳を拭いていた。鼻から肺へ、吹き抜ける優しくて温かい畳と木の香りに酔いしれていると、藍色の着物姿の秋が来た。
「失礼します。」
何度聞いても、秋の声は、心地が良い。安定感のあるやや低めのその声に、つい、瞼を閉じて、耳を傾けたくなる。
「僕は、花を用意するね。」
「嗚呼。」
必要以上に言葉を発さず、ただ黙々と、花の用意をするその姿に、一緒に居ると、こちらの姿勢まで正されるような気持ちになる。
「この間の……涼ちゃんの点前、凄く格好良かった。」
「……涼ちゃん?」
「!」
自分の反応に対し、一瞬、肩をピクッと狭めた秋を見て、涼は、
「ごめん。一瞬、驚いた。ありがとな。」
と、素直に返した。
他に返す言葉が見当たらなかった涼は、耳まで真っ赤になっているのを、秋に悟られないように、深く呼吸した。
とは言え、所詮は狭い御茶室での出来事なので、当然、お互いの反応はよく見えているのだが、人付き合いが苦手な者同士、上手い言葉が見当たらない。そんな空気が、部屋中に漂っている。
こんな時に限って、宗也はいないのかと、涼は内心、宗也に八つ当たりした。
気まずい空気が時間の経過と共に、やがて、ただの沈黙へと変わった頃、ふと、涼は、例の名簿の名前を思い出した。
「秋ってさ、綾波辰って奴のこと、知ってる?」
訊き方を間違えただろうか。秋の顔も、昼間の和仁と同じ顔へと変わってしまった。
ふたりにとって共通の知人で、なにか揉め事でもあったのだとしたら、宗也に質問するのも、やめた方がいいな。そう思ったが、秋の反応は、そこで終わりではなかった。
「辰ちゃんは、進学クラスなんだ。……だから、同じ茶道部仲間だけど、色々あって、……今は、学校にも来てないみたい。」
「そう。色々、教えてくれてありがとな。」
秋はきっと、辰と仲が良かったのだろう。名前を呼ぶとき、ほんの一瞬だけど、嬉しそうな顔をしていた。そういうのは、隠そうとしても隠せないものだ。
茶道部の部員が、ひとり、不登校になっていること以外は、正直、よく解らなかったけれど、どんな理由にせよ、名前を呼ぶだけで顔が綻ぶような関係の人間に、不登校になった理由を問いただすのは、不躾に思えた。
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