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涙は躍る
目が覚めた時、天国の様だと思った。差し込む光が見えて、優しいベージュ色の部屋。
「起きた?」
声が聞こえてくる。自分を優しく包んでくれたあの声がそのまま。
「先生…」
と、呟いて体を起こした。何をしていたかすぐに思い出せない。ただ、圧倒的な幸福感だけが自分を包んでくれているのを感じる。彼の後ろに見えた花の色がそれを具現化したように見えた。
「体は? 大丈夫?」
「…」
そう聞かれて、自分が何をしていたのか思い出す。戸惑いながらも小さく頷いた。昨日、与えられ続けた体。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。その分、終わって束の間理性を取り戻した時の、絶望的な程の罪悪感も全部覚えてる。それすらも癒してくれる彼の声。
「手を出して」
と、レンデストが言う。言われた通りに両手を出すと、手の平を上に向けてそれを下から支えてくれる彼の手。そこから熱と一緒に何かが伝わってくる。じんわりと心に届いて体が軽くなった様な…。
「心を落ち着けて」
その手を見ながらレンデストは優しく笑う。その彼との間に、透明なふにゃふにゃとした物体。水だ、と気付いた。知識だけはあるから分かる。そこにある水を動かす事と、水を生み出す事は全く違う。しかもこんなに綺麗な水。レンデストがどれだけの力を持っているか、それだけで理解した。
「鎮めて、静かに…君は全て知っているから俺が言う必要は無いかな」
と、目を閉じてレンデストが囁く。二人の手の上に浮かぶ水。それを今、誰が動かしているのか分からない。ただ透明な水が浮かんでいる。静かで美しいレンデストみたいな水。ああ、私はなんて事を。
「先生…ごめんなさい」
優しさに触れれば触れるほど、何よりも大きくなる罪悪感。駄目だと言われたのに。嫌だと言われたのに。明確な拒否をされたのに。自分は彼に無理を言って、なんて事をしてしまったのか。この幸福感が罪悪感を刺激する。
「ごめんなさい…」
手を繋いだまま、拭うこともできないカスミラの涙が零れ落ちていく。それがふわりと浮き上がって、とん、とん、と宙を跳ねた。何かを祝福する様に。それに気付いたのはレンデストだけ。一瞬見開いた目を、やがて眩しそうに細めた。その彼の前でカスミラの涙は踊る。
しばらくそれを見ていた彼は、やがてカスミラを抱き締めて言った。
「カスミラ。おめでとう。ちゃんと力が根付いたよ」
「…」
「優しくて穏やかな君に、水の力はぴったりだ。ずっと透明な水の様な君でありますように」
昨日の夜、手を伸ばした気持ちがここにもある。まるで求めている事を理解しているかの様に、彼はそれを与えてくれる。今までもずっとそうだった。
「先生…」
「君の力になれたなら嬉しいよ」
本当だよ。と囁いてレンデストは笑った。
それから試験までの間、カスミラはレンデストと水の力を使う練習に費やした。生まれた時から力を持っている他の人間と違って、カスミラはなかなか感覚を掴む事ができなかった。思考との連動も掴めない。文字で十分に理解していた筈のそれは、実際にやってみるとこんなにも難しいんだと実感した。
どうしても上手くいかない。それでもカスミラは諦めたり愚痴を言う事は無かった。弱音を吐く事すらなかった。「難しいですね」と言っても、束の間休みもしなかった。それを見ながら本当は休ませた方が良いのか練習を続けた方が良いのかレンデストも迷っていた。二人とも初めての経験にずっと手探りだった。
それでもたまらなく楽しかった。自分ができる事があって、それを手伝ってもらえる事。ガーベラの事を守れる力を得た事。成長を見守れる事。必死な姿を応援できる事。二人で一緒にいられる事。
それでもやっぱり、上手くいかない。
三日過ぎて焦ってきた。もう明後日は試験だ。どうしよう。と、カスミラは頭を抱えていた。本当に自分に力があるのかすら疑問に思えるほど何もできない。レンデストはちゃんと力が根付いたと言ってくれたけれど、もしかして凄く小さな力なんだろうか。どの程度の? もしかしてコップの水すら動かせない位? でも、それを確かめる時間もない。確かめ方も分からない。生まれて寝返りをして歩き出す様な、本能と時間が教えてくれることだから。
「カスミラ」
と、声が聞こえてきた。研究室の机の上で頭を抱えていたカスミラは目を丸くして振り返る。いけない。時間を無駄にしてしまった。
「す…すいません。ちょっと考え事をしていて。練習します…」
そう言って目の前のコップの中の水を見た。けれど何もできる気がしない。泣きそうになった。何かきっかけでもないだろうか。一人でどうにかしなきゃと思うけれど、どうしても分からない。
「…カスミラ。ちょっと立って」
「…はい」
言われて、コップから目を逸らして言われた通り立ち上がった。視界から水が無くなってほっとした。そう思ってぞっとする。自分はこんなにも追い詰められているんだと。
「手が冷たいね」
と、レンデストが言った。気が付くと彼は自分の両手をいつかの様に持って温めてくれている。
「ごめんね」
と、そのままレンデストが言った。何の事か分からなくて顔を上げると、悲しそうに笑ったレンデストと目が合う。
「俺は教師なのに、カスミラを導いて上げられない」
「…そんなこと…」
否定しかけたカスミラに、レンデストは首を振ってこう言った。
「君はいつも努力家だったから俺は出番すらなかった。やっと君が困っているのに今度は俺が力不足だ」
けれど彼は冷え切った指先を温めてくれる。恐怖を溶かしてくれる様に。
「でも一つだけ、君に教えて上げられる事がある。もしも力が弱いのかもしれないと思っているなら、それは間違っているよ」
はっきりとそう言い切った言葉は、カスミラの中にあった大きな不安を吹き消した。だからそれに悩むことはない。そう言ってもらえるだけで、どんなに心強かったことか。
「俺の力を上げたんだから、カスミラの中には強い力がある筈だよ。今はまだ、その使い方が分からないだけ」
目を閉じて。と、レンデストが言う。まるで催眠術にかかったみたいに自然に目を閉じた。体の力が抜けていく。導いてくれる手だけが温かい。水に浮いているみたい。そう思ったカスミラの後ろで、コップの中の水が浮かぶ。
「カスミラ。自分を信じていて。必要なものは全部君の中にあるから」
そう言われて目を開けた。離された手はすっかり温まって、頬まで紅潮する程。
「…はい」
安心した様に笑って頷き振り返ったカスミラは、浮いていた水を見て悲鳴を上げた。
それをきっかけに、カスミラは水を動かす感覚を掴んだ。水を自分で作り出すことはまだできないけれど、この力があれば助かる可能性は飛躍的に上がる。
試した結果、最長で五メートルほど離れても手が届くことが分かった。レンデストと地図を見ながら水のある場所を確認する。砂漠の中でも水はある。そこから遠く離れないようにルートを微調整した。常に近くに水がある訳ではないけれど、これが自分の生命線だ。そう言えばと思い出し、流砂の場所も確認した。立ち入り禁止区域になっているけれど、知っていれば怖くない。もしかしたらそこに誘い込んで足を止める事もできるかも。いくつもあるそれを完璧に頭に叩き込む。繰り返し何度も何度も。希望が見えて、やる事が増える事は嬉しかった。
「とうとう明日だね」
とレンデストが言った。試験を受けると決めてからあっという間だった。でも本当に充実していた。試験に十分な準備もできた。一人だけの力じゃない事が申し訳ない反面凄く嬉しい。
「はい。先生には本当にお世話になりました」
「何にもできてないけどね」
と、笑うように言ってレンデストは手を出した。それを見て驚いたような顔をしたカスミラは、やがて嬉しそうにその手を取る。しっかりと握手をしてレンデストはこう言った。
「健闘を祈るよ。明日はゴール地点で待っているから」
「…はい」
きっと大丈夫。レンデストに握り締めて貰った手を自分でもぎゅっと握りしめてカスミラは小さく頷いた。
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