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四種の卒業試験4
「ガーベラ」
研究室に入ってすぐ、レンデストは彼女を呼んだ。肩を落として座っている彼女と、労わる様に添えられたサンブラントの手が見える。その彼女は呼ばれて顔を上げた。本当はここにいるべきじゃない。すぐにでもベッドに横になって休息を取るべきだ。疲労困憊なのが伝わってくる。それなのにレンデストに敵意を含んだような強い視線を向けて、先に口を開いたのはガーベラだった。
「先生。あれはどういう事ですか? 何でカスミラ様が…」
「先に状況報告をしてくれ。質問にはその後答える」
「カスミラ様は無事ですか?」
絶対に逆らう筈のないレンデストの言葉に、ガーベラは当然の如く食い下がった。それに気付いてレンデストは僅かに目を見開き、そして受け入れ小さく頷く。今は暖かい部屋で医者に診てもらっている。命の危険はないと聞いた。どこまでダメージがあるかは分からないけれど。
その返事を受け取って、ガーベラは気が緩んだ様に泣きそうになった。それから堪えるように膝に置いた手をぐっと握り締めて、それを見ながら大型蠍と遭遇した時の事を話し始めた。
「ゴールまであと三キロ程の地点で、他の生徒が乗った馬車が少し離れた場所を通り過ぎていきました」
砂漠地帯を超えて見通しの良い乾燥地帯。一気に寒くなる場所だ。体には堪えるかもしれないけれど、ここまで来れば安全だと思っていた地域。そこまで何事もなく到達していたのか。と、レンデストは予想はしていたのに絶句した。でも、蠍が砂漠地帯からそこまで移動してきたとは考え辛い。そうならもっと早く襲われた筈だ。じゃあ、何で?
もしかしたら、とレンデストは想像する。蠍は本来の生息地である砂漠を離れて生息していたのかもしれない。だとしたら調査をしても何も出てこない筈だ。討伐隊の監視区域も外れてる。これで全部辻褄が合う。
「カスミラ様は、常に周囲を気にされていました。物陰があれば確認をしたり、適切な距離を取り、逃げるルートも常に私に教えて下さいながら進みました。まるで…危ないものが出てくるのを知っていたかのように」
道の途中でもカスミラは蠍の事をガーベラには言っていなかったらしい。無用な心配で済めばそれでいいと思っていたのだろう。恐怖に晒されると、人はどうなってしまうか分からない。それを全て一人で背負った。
「それを見送って歩き出そうとしたら、その後ろを黒いものがすごいスピードで追っていくのが見えたんです」
そこまで言ってガーベラは寒さを覚えたのか泣きそうになったのか、こんなにも暖かい安全な場所にいるのに目をぎゅっと閉じて震えた。
「カスミラ様は、すぐに危険種の蠍だと気付きました。ゆっくりと走っている馬よりも遥かに早くて、カスミラ様はその馬車に向かって叫んだんです」
「逃げてー!!!」
ガーベラの隣でカスミラが叫んだ。あれは何? そう思っていた自分の判断が如何に遅かったか。
「え?」
「何…うわ…うわぁぁぁ!!!」
「ひ…っ!? いやーーー!!」
ものすごい勢いで追ってくる蠍を見て、馬車はパニックになった。馬の脚が乱れ、台の中でも人が移動したのか傾きかけて車輪が軋む。いけない! と思って風を当てた。横揺れしながら体制が整った馬車は、乱れた轍を残しながら自分達から遠ざかっていく。
その時、カスミラの息を飲む音が聞こえた。馬車を見ていたガーベラは、カスミラと同じ方を見て黒いものの正体を知った。黒い大きな蠍。体長は五十センチを超えている。それが、こっちをじっと見ている。あまりの静かに鳥肌が立った。
次の瞬間、それは氷を滑る石のような速度でこっちに向かってきた。自分達の方が馬よりも遅いと気付かれたのか。気持ちが悪い程の速さに悪寒すら覚える。必死で、何も考えずに自分の力をぶつけていた。カスミラに教えて貰った範囲を設定した空気の塊。それが蠍の足に当たり、転んで音を立てる。
その音にぞっとした。なんていう重さ。あのスピードからは考えられない程、その音は重かった。多分手でも持ち上げられない。勿論風で持ち上がる重さでもない。不意打ちを喰らわさなければ今の様に倒す事すらできるかどうか。押し返す事もできない。
その隣で、カスミラは必死に水を探していた。けれど見渡す限りにそれはない。自分の地図の中にも無い事は分かっていた。どうしよう。未熟な自分では動かす事しかできないのに。
でも、たとえ水があったとしても、ここじゃぬかるみを作る事はできない。と、早々にありもしない水を諦めた。乾燥した固い土。どんなに大量の水があっても地面は濡れるだけだ。足を止める方法が見付からない。
「カスミラ様。火は効きますか?」
「…効かないと思う…」
元々暑い地域の生き物だ。灼熱の砂漠でも生き残ると調べた文献に書いてあった。もしかしたら、あのスピードですらこの気候で弱っているのかもしれない。下手に熱を与えたらどうなるか分からない。
そんな事をしている内に、立ち直った蠍がこっちに向かってきた。慌てて後ろ脚の一本を風で捉え、その場に固定する。それでも蠍は前進を止めない。がちがちと音を立てながら地面に爪を立ててじりじりと近付いてくる。
その音の間に聞こえてくるガーベラの息切れに気付いた。風は血流に連動する力。一気に負荷のかかった体が悲鳴を上げている。
「カスミラ様! 逃げて下さい!!」
「だ…駄目よ! そんなの…」
「私はここでこの状態で待っていますから、助けを…」
「嘘言わないで! もつ訳がない!!」
「…!」
知識だけは豊富なカスミラに、言い逃れは無理だった。そう気付いたガーベラは、浅い息をこまめに繰り返しながらこんな事を言う。
「でしたら正直に言います。一人だけでも逃げて下さい」
「…」
「もう、一人死ぬか二人死ぬかの違いです。それもお分かりですよね? だったら一人だけでも生き残って下さい」
ガーベラのその言葉に絶望した。言い返す言葉がない。必死に貯めてきた知識がそれを後押ししてしまう。水は無い。固い地面。助けを呼びに行くこともできない。照明弾も打ち上げたところで間に合わない。だとすれば何の手も無い。
こうなる事は想定していた。その対策もした筈だった。想定しうる全ての可能性を考えて、全部解決した筈だったのに。
水の力まで得て。ガーベラを守る為にレンデストに力を貰ったのに、自分は何の役にも立てない。
「先生…」
ガーベラを助けて。と、ここにはいない彼に縋る。こんな自分の手を取って、将来の夢を見せてくれた人。もしも他の誰かだったら彼女は助かる見込みがあったかもしれない。それなのに、こんなところで絶対に死なせたくない!
「カスミラ様!! 早く! 逃げて下さい!!」
「…嫌…」
拒否するように首を振って呟いた。嫌だ。けれど何もできない。悔しい。悔しくて仕方がない。その絶望が声を弱くした。それに気付いて、ぎゅっと体に力を入れる。
「絶対に嫌!」
先生。お願い。教えて下さい。
私はどうすればガーベラを助けられますか。
「カスミラ」
と、静かな声が聞こえてきた。記憶が蘇る。思考を落ち着ける彼の声。
「手を出して」
自分の手に触れた温かいあの人の手。
「心を落ち着けて」
「鎮めて、静かに…君は全て知っているから、俺が言う必要は無いかな」
深い水の中の様な完全な沈黙に、沈み込んだような青を見た。
がぼ…っ。
がぼっ。ごぼっ。
「…え…?」
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