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同じようで違う
帰りたくないな。と、思った。食事を終えて、何となく家に向かって歩き始めた。こっちに歩き出さなければ良かった。すぐにそう思ったけれど今更引き返すのも不自然だ。だからゆっくりと歩いた。二人、自然に手を繋いで。まるで当たり前のように。でも当たり前じゃないそれは心を乱す。疼くような不快感は、息苦しさも連れてくる。手が強張りそうで、意識して力を抜いた。
帰りたくない。もう一度はっきりとそう思う。帰る場所は同じなんだから、どこかで別れることもない。部屋に戻れば二人になれる。けれど帰りたくない。カスミラと二人だけでいたい。誰にも邪魔されずに、カスミラだけを途切れることなくずっと見ていたい。ただ、ただ、二人きりでいたい。そう思う。情けないほどの恋煩いをしていると気付いた。今更こんな気持ちになるなんて。
「…先生…」
不意にカスミラが、戸惑った様に自分を呼んでほんの僅かに手を引っ張った。彼女を見ると泣きそうな顔をしている。その彼女が言った。
「あの…」
その声で、何も欲しいものがない、満たされて幸せな筈の彼女に不満があると気付いた。それを口にする彼女が震えている。
「もう、少しだけ…」
二人で。
全く同じ気持ちだったからすぐに分かった。彼女が言いたかったこと。
だから我慢できなかった。さっきの様に待てずにレンデストは口を開く。
「カスミラ」
ぴくん、と、彼女の肩が震えた。伝えきれなかった願望を持て余して戸惑っているのが分かる。そこに手を添えて、それを二人で持ち上げた。
「今日、どこかに泊まろうか」
「…」
二人だけでいたい。たった二人だけで。苦しいくらいにそう思う。それが叶うと分かって、カスミラは震えながら頷いた。
その後、宿を取ってもすぐには部屋に行かなかった。家に今日は戻らない連絡をするついでに、何か連絡があれば一時間後に確認しに来るから手紙を預かって欲しいと配達人に依頼した。本当に二人きりになったら外に出られる気がしない。だから時間を潰そうとカスミラをバーに連れて行った。卒業式の日に連れて行った場所とは違う。大人しかいない静かなそこで、あの時と同じ様に隣に座ったカスミラに言った。
「お酒飲む?」
「…え?」
まだ飲酒をして良い年齢ではない。その決まりはもう破ってしまっているけど、この前は止められたのに。
そう思っているカスミラの気持ちが分かったらしい。レンデストは目を細めてこんな事を言う。
「もう生徒と教師じゃないし、何かあっても責任取れるから」
いきなり大胆なことを言われてカスミラは目を丸くした。でも酔いたい気もする。この前の酔いをはっきりと覚えている訳じゃないけれど、お酒の力を借りて大胆になりたい。そうしたら、このもどかしい程の恋心を少し満たしてくれるくらい甘えることができるかもしれない。まるで欲情しているみたいだ。自覚すると恥ずかしいけれど、それでもそれにすら縋りたい。
「じゃあ…はい…」
「酔いたい?」
「え?」
「そういう顔してる」
「…」
考えていた事を見られた気がしてカスミラの顔は真っ赤になった。そんな筈がないのに。
けれど、やっぱりそれを全て見透かした表情でレンデストが笑う。
「酔わせないけどね」
そう言って、今日も度の低いお酒を頼んでくれた。
何かあったのかな。と、甘い酒を口にしながらカスミラは思った。今まで気にならなかったのは、少なくとも悪いことが起きている予感がしなかったからだ。それは今もそう。けれどレンデストが何だか変。それとも自分が変なんだろうか。
さっき自分から零れ落ちた言葉が自分を刺激している。彼は確かに自分を愛してくれている。大切にしてくれて、家族にしてくれた。それをたまらなく幸せだと思う。けれど関係は親と子じゃない。その事実が経験不足の自分に戸惑いと欲を連れてくる。夫婦で家族なのに、レンデストが言った様に実感がある訳ではない。ただ、心までそういう風に馴染ませてくれた。だから自覚してしまった。本当なら自分達はもっと近くにいても良い存在なんだと。例えば、こんな風に二人きりになったり。
「…先生」
「…ん?」
会話がない。それに耐えかねて彼を呼んだ。まるで心ここにあらずの様なタイミングで返事が聞こえてくる。
「…何かありましたか?」
「どうしてそんな事聞くの?」
何もないよ。ではなくそんな言葉が返ってくる。それに少し困惑した。
「…何となく…」
考えてみれば朝から変だったのかもしれない。と、カスミラは気付く。急にデートしようと言ってくれたり、外に連れ出してくれたり。そういう事を避けていた筈なのに。だから何もないと言わないんだろうか。だとしたら彼は隠しているだけで何かあった?
「せん…」
「何もないよ」
走り出そうとした足を止める様なタイミングでレンデストは言った。まるでその会話を嫌うかの様に素っ気ない口調で。珍しいその口調に、別のことを思い出す。
「じゃあ…あの、お疲れではないですか?」
「? 急に何で?」
「昨日までお仕事大変そうでしたし…睡眠も足りてないんじゃないかと…」
「…まあ…」
うん。と、レンデストは素直に頷いた。別に隠すことでもない。でも、その返事にカスミラが動揺したのを感じる。だから言いかけた彼女の言葉を遮った。
「あの…」
「カスミラ」
そう言って手を握ると、カスミラが驚いた顔を上げる。その顔を間近に覗き込んで囁いた。
「何も心配しなくて大丈夫だから、俺の事だけ考えていて」
「…」
「今の俺だけを見ていて。カスミラ、そうしたいと思ってるよね?」
どくん。と、今まで感じた事のない鼓動を感じた。心臓が壊れてしまったのかと思うくらい、体まで震える大きな鼓動。そうしたくて二人でいたいと望んだのに怖くてできない。だってそんな事をしてしまったら。
「先、生…酔っているんですか?」
一歩、気持ちが引いた。だってそんな事をしてしまったらたがか外れてしまう。そうしたら、多分。
無理…。
まだ自分にそこまでの覚悟はない。だから逃がして欲しい。臆病なのは分かっている。でも怖い。だから、先生。
「酔ってないよ」
「…」
この会話は一度経験済みだった。逃げたい。と暗に伝えて、前はそれに応えてくれたのに。
「カスミラも酔ってないでしょ?」
真っ直ぐに目を見てそう言ったレンデストから、もう逃げられないと悟った。
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