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私が力を得る方法
その翌日。試験まであと三日。
仕事を休ませて欲しい。と、カスミラから申し出があったのは今朝のことだった。試験まで日もないし、夜会で疲れたのだろう。と、その時はそれだけで納得していた。今迄仕事を休みたいだなんて一度も言った事の無かったカスミラが、こちらの様子を伺く事もなくそんな事を言うなんて変だと気付けば、もしかしたらは未来は違っていたかもしれない。
そう気付いたのは、その日の夜だった。研究室で一人仕事をしていたレンデストはノックに気付いて目を丸くした。時計を見ると二十一時を回っている。こんな時間に誰だろう。他の教師だろうか?
そう思いながら返事をしてドアを開けると、カスミラが制服のまま立っていた。仕事を休ませて欲しい、と言った後のまま?
「先生…」
自分を見上げて呟く声は震えている。体も震えている。寒いのか? と思って、そうじゃない事に気が付いた。
「せんせぇ…」
そう言って、カスミラが泣きながら倒れる様に抱き付いてくる。その体を受け止めると驚く程冷たい。思わずその体を強く抱き締めた。
「…落ち着いた?」
熱いカップを両手に持ってぼんやりとしているカスミラに、レンデストは小さな声で問いかけた。頬は真っ赤だ。泣いたせいなのか、温度の変化のせいなのか。
「はい…」
と、小さく頷くカスミラの手はまだ震えている。一体何があったのか。聞いてもいいものか。そう逡巡したレンデストにカスミラは言った。
「先生…」
「ん…?」
応えてカスミラを見ると、彼女は俯いてカップの中身を見ながらこんな事を言う。
「私…」
「…」
黙って彼女を待っていた。けれど続きの言葉は聞こえてこない。ただ彼女が唇を噛むのが見えて、ああ、言いたくないのか。と判断した。
「大丈夫だよ。何も聞かないから」
「…」
その言葉にカスミラが顔を上げる。
「それを飲んだら帰ろう。送っていくから」
「…」
そして、また沈黙が訪れた。カスミラはカップを口に運び、静かに喉に流し込んでいく。それをゆっくりとテーブルに置いて、そのカップを見ながらこんな事を話し始めた。
「先生」
「ん?」
「…私、今日、王宮の図書室でリメート地帯の事を調べていたんです」
そこで初めて知った。彼女が今日、仕事を休んで何をしていたのか。彼女の試験に対する思い入れは知っている。だからその言葉にレンデストは小さく頷いた。
「実は昨日、一昨年の春、あの地域で危険種の生き物の目撃情報があったという記録を見付けました。それで詳細を調べにいったんです」
「…」
それは初耳だった。学校は国に安全確認をしていた筈だ。もしもその可能性が少しでも残っていたら許可が下りる筈がないのに。そして同時に納得もする。だから去年は別の場所で試験を行ったのかと。
「砂漠地帯に生息する大型蠍でした。物理的に刺殺する他、駆除する方法は無いそうです。足が速く、一度ターゲットになったら人間の足では逃げ切れないと書いてありました。毒針を刺して、獲物が動けなくなったらゆっくりと食べるそうです。…人間も」
合っていますか…。と、小さな声でカスミラが言う。それに躊躇いながらもレンデストは小さく頷いた。
「逃げ切る方法はただ一つ、水で足場をぬかるませ、相手の足を止めるしかないと書いてありました」
そう言って、深く息を吸い込んでからカスミラは話し続ける。
「これは、かなり信憑性の低い話のようです。図書室にあった記録も一文で終わっていました。それ以降の調査でも何も出ず、去年の春の調査を最後に問題なしと判断されたそうです。でも、もしも」
もしも自分達が遭遇したら、間違いなく。抵抗する手立てがない。
「…うん」
と、レンデストは理解した証に頷いた。けれど言える事もできる事も何もない。あまりにも不確定な情報に、自分も何も判断をする事ができない。学校への意見も無理だ。だとすれば最後は自分達がそれに挑戦するか否か決めるだけ。ただ、この状況で決断ができるのか?
何かの助け船を出してやりたい。そう思う、けど、できない。
「先生…」
「…うん?」
「それで私、どうしようか考えたんです」
もう結論が出たのか? そう思ったレンデストに、カスミラはこんな事を言った。
「諦めようかとも思いました。でも悔しくて、どうしても諦めきれなくて、何か方法は無いか探しました。そうしたら、土の属性に関する古い論文を見つけたんです」
目を見開いたレンデストの方は見ずに、カスミラは下を向きながら話し続けた。
「その中に、土の属性の女性が水の力を身に付けた事実が記されていました。私…」
「駄目だ!」
と、カスミラの言葉を切ってレンデストが叫んだ。いつも冷静な彼らしくない。目を丸くして顔を上げたカスミラに、彼は首を横に振って叫ぶ。
「馬鹿な事を考えるんじゃない。たかが試験の為にする事じゃないだろ!」
「…先生?」
怪訝そうな顔をしてカスミラが呟く。
「その方法、ご存知なのですか?」
「…!」
しまった。と、口を押さえても言葉は取り戻せない。そのレンデストにカスミラは縋るように言った。
「教えて下さい! もしも可能性があるなら諦めたくないんです!」
「…駄目だ。絶対に」
叫びそうなのを堪えるように、肩を震わせてレンデストは言った。カスミラの視線から逃げず。
「先生…」
「頼むから自分の体を大切にしてくれ。そんな事をしたら君が傷付く」
「傷付く? …日常生活を送れなくなりますか?」
「…」
その質問に、レンデストは引きつった顔を顰めた。それ程のことではない。きっとそういう事。
「少し傷付く位構いません! 跡が残ったって…」
「そういう事じゃない。でも君は大きく傷付く。体も。心も」
「…心?」
「頼むから、この話は全て忘れてくれ。絶対に教えることはできない」
「…じゃあ、自分で調べます」
「カスミラ!」
肩を掴んで叫んだレンデストは、真っ直ぐにカスミラの目を見た。けれどそこにあるのは憤りではない。悲しみのような、懇願のような。
「頼む。本当に頼むから止めてくれ」
「…何故ですか?」
その感情の意味が分からない。困惑してカスミラは呟いた。彼は誰よりも自分の苦しみを知ってくれていると思ったのに。
「私が今迄どんなに辛かったか、先生はご存知ですよね? その解決方法を知りながら教えて下さらなかったのは、私か傷付くからというのが理由ですか?」
「…」
その言葉に、レンデストは小さく頷く。それが勝手な判断だと理解しながら。
そしてその感情はカスミラに伝わる。その苦悩すら。
「…先生」
カスミラのその言葉に二人は視線を合わせた。
「ありがとうございます。私の事を気遣って下さって」
「…」
「でも知ってしまったら諦められません。私にも知る権利を頂けませんか?」
「…今日は帰りなさい」
少しの沈黙の後、顔を逸らしながらレンデストは言った。そしてカスミラから離れてこんな事を言う。
「帰って、他の方法は無いか、他の選択肢を選ぶ余地も無いか、よく考えて欲しい。感情に任せて決める問題じゃないことは理解してくれ」
「…分かりました」
「俺の言った意味も察して欲しい。想像できないかもしれないけれど、もしも選択をすれば、君は間違いなく辛い目に遭う」
今よりも? そう思ったカスミラは背中を向けたレンデストに問いかけた。
「…先生も辛い思いをしますか?」
「…」
背中を向けたまま沈黙をした彼は、やがて小さく頷いた。
「その君を見るのは、正直辛い」
「…」
「だけど君が自分の知らないところで」
そう言いかけた言葉は唐突に止まった。その言葉の続きは明確に分かるのに、何故か彼は言うのを止めた。
「…帰ろう。送るよ」
と、レンデストはカスミラを見ずに呟いた。
「じゃあ」
と、邸宅の前でレンデストは言った。
「はい。ありがとうございました。送って下さって」
「…うん」
帰り道、二人は無言だった。その言葉だけを交わして二人は離れていく。
カスミラが見えなくなるまでレンデストはそこにいた。そして邸宅の端の陰にカスミラが見えなくなってから目を細め、ゆっくりと歩き出した。
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