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何よりも欲しかったもの
翌日、カスミラはレンデストの研究室に来た。そして与えられた仕事をきちんとこなした。いつも通り、仕事中は言葉少な目に。
昨日の話は幻のようだった。試験は明後日。それまでこのまま…いや、もしも受験日が今日だったら問題は綺麗に消え失せたかもしれないのに。そう思っていたレンデストにカスミラが言った。
「先生。終わりました。他に何かお仕事ありますか?」
差し出された書類を無言で受け取ってレンデストは首を横に振る。もう十分だ。何もかも。こんなに頑張っている彼女がこれ以上辛い目に遭うのは耐えられない。けれどそう思う自分の考えは正しいのか分からない。少なくとも、どちらを選んでも彼女は苦悩する。そういう岐路に二人で立っている。
「先生」
その言葉に視線をカスミラに向ける。その目を真っ直ぐに見てカスミラは言った。
「昨日、ちゃんと考えました」
「…うん」
「先生の仰った通り、考えうる全ての選択肢を検討しました。でも、やっぱり、私にとって最善の選択肢は水の力を得る方法です」
「…」
そうだろうな、と納得する。本当は分かっていた。次点で考えればリタイアだろう。信憑性が低いとは言え、ガーベラを巻き込むことを考えたら万が一にもカスミラはこのままの継続を選択しない。では、リタイアを選べるのか。答えはノーだ。カスミラにはガーベラを納得させる手段がない。それともなければ天秤に掛けた時に自分が傷付く方が選択肢として妥当だったのかもしれない。あんなに二人で頑張って喜んで時間を過ごしたのだから。これ以上、彼女の人生に自分が踏み込む権利はない。
「分かった」
「先生…」
ほっとしたような力のない声にカスミラを見ると、その感情は間違っていたと知った。彼女はありがとうございます。ではなく、こう言った。
「本当にすいません…」
そして深く頭を下げた。
その後、レンデストはカスミラに二つ条件を出した。本日二十二時に家を出てくること。明日まで帰れなくても困らないようにしてくること。
普通に考えれば親の管理下にある若い女性が当日対応できる条件じゃない。けれどカスミラは二十二時にレンデストの元にやってきた。
「親は説得できたの?」
歩き出さず、その場でレンデストはカスミラに問いかける。それだけでも抑止力になる筈だった。けれど。
「親は私に興味がないので説得は必要ありません。いなくても気付きません」
本当は他人に言うつもりはない事情だったのだろう。けれどこの時は誤魔化すべきではないと判断したのか、カスミラは正直に口にした。
本当は分かっていた。昨日、遅くにカスミラを送っていった時、混乱した様子の無かった邸宅。迎えに出てこない使用人。端に向かって歩いていたカスミラ。
不幸と悲しみがカスミラに落ちて溜まる。もうすぐ、もう一つ。
カスミラが連れてこられたのは暗い屋敷だった。人の気配を感じない。そして一人で使うには違和感があるほどの大きな屋敷。
ここは何だろう。と、思った。でも聞かなかった。
屋敷の中は綺麗だった。清潔で埃の匂いすらしない。けれど生活感が全く無い。ここが何なのか想像できない。でも、それも見逃すことにした。自分には関係のないことだ。
ランプを持ったレンデストの後ろをついて行く。薄暗い廊下。電気が通っていないのだろうか? 次から次へ出てくる疑問を無視する。そして、私は何を考えているんだろう、と思う。これから大切な事が始まるのに。先生に嫌な思いをさせてまで自分が望んだことをするのに。どうでも良いことばかり考えている。
やがて一つの部屋の前でレンデストは止まった。ゆっくりとドアを開く。そして中に進む彼に従った。
「コートを脱いで、その椅子にでも掛けておいて」
そう言いながらレンデストもコートを脱いで椅子に掛け、テーブルにランプを置いて部屋の奥へ行く。カスミラは言われた通り、コートを脱いで椅子に掛けた。そしてレンデストの様子を伺おうと奥の部屋を覗く。そこにはぽつんと一つ、蝋燭の火。あとは天窓から月なのか街灯なのか分からない光が薄く部屋を照らしている。
「…先生?」
「おいで」
そう呟いたカスミラの手をとってレンデストが中へ導く。ほっとしたのも束の間、そのままレンデストはカスミラの口を塞いだ。
「ん…ん、ん…」
キスをする自分など、想像した事はなかった。けれど、もしも想像をしていたとしたら。こんなキスじゃなかった筈。そう思う。
「先、生…あ…ん…」
こんなに濃厚なキスじゃなかった筈。こんなキスは知りもしなかった。口に入っているのが舌だと認識したのは、かなり後の方だった気がする。それまでは必死に息をするばかりで、自分が何をしているのかも分からなかった。
何で…。
体から力が抜けて、倒れそうになった体をレンデストは抱いてくれる。そのまま、その手は自分をベッドに寝かせてくれた。ゆっくりと、大切に。
「…先生?」
光が少なくてよく見えない。けれど自分の上に載っているのがレンデストと知っているから安心する。こんな状況なのに。
「カスミラ。最後の選択だよ」
聞こえてきたのがレンデストの声で、カスミラは冷静さを取り戻した。そのカスミラにレンデストは言う。いつもの優しい声で。
「結論から言うとね。土の属性が力を得るには『種』を貰えばいい。それがカスミラが力を得る手段だよ」
「…種?」
「そう。種。欲しい属性の力を持った男に抱いて貰えば良い。でも、その種を植えられるのは一度だけ。それが根付くかどうかも分からない。相性があるのかもね」
レンデストは自分に必死に隠していた筈の事を淀みなくすらすらと口にする。ここまできたら全てを晒してカスミラに選ぶ権利を与えるしかないと腹を決めたのが分かる。いつもの声だけが変わらない。
「先生…は…」
混乱した様子のカスミラは、やがて小さな声でこう言った。
「…水の力をお持ちなんですか?」
「うん。良い質問をしたね。冷静な様で良かった」
「…ひ…っ」
「そうだね。他の属性の男に抱かれたら何もかも台無しだからね」
首をくすぐり、そこにキスをしてレンデストは言った。そして子供を宥めるように優しい声で言う。
「心配しなくて良いよ。ここまで覚悟したカスミラの決意を無駄にする気はない。うまく根付けば水の力を使えるようになるよ」
「ん、ん…」
冷静でいて欲しいと思っている筈なのに、それを乱すようにレンデストはカスミラに触れる。首に、唇に、手にキスをして笑った。
「どうする?」
「…」
「俺は全て教えたよ。君が最善の答えを得られますように」
願う様にそう言って髪を撫でて、レンデストは額にキスをくれる。悲しくて優しい声。それが何か、分からないままカスミラは受け入れ呟いた。
「先生」
「ん?」
力じゃなくて、その気持ちをもっと。
もっと。それは言葉にならない。でも力よりももっと。自分が何よりも欲した筈の力よりももっと、もっと欲しいものがここにあった。そう思って手を伸ばした。
「下さい…」
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