遺伝子が反応した様な不思議な感情

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遺伝子が反応した様な不思議な感情

 翌日。戻ってきたレンデストは、眠るカスミラを見て肩を落とした。そして、ため息のようなものを吐いてからベッド脇の椅子に座る。カスミラの吐息は乱れずに穏やかだっだ。それを確認して安心した。  学校に行って、本日休暇を取る事とカスミラも休む事、明日の試験の予定を変更するようにガーベラへの言伝を頼んだ。確認したら最終日の午後だけが空いていた。試験はそこで受けることになるだろう。結局ガーベラが冗談で言っていた事が現実になってしまった。  手に取った書き置きを握り締める。小さな音を立てたそれを、灰にしようかと思って止めた。そんなに重要な事は書いていない。目覚めてもここにいるように。そう書いてあるだけだ。でも昨日の事を思い出させる物を残したくはない。そう思って、後で処分しようとテーブルの上にそれを置いた。  そして、さっきは気付かなかった事に気付いた。テーブルの上の花が枯れて干からびている。茶色くなった花弁が落ちていた。  この屋敷は実家の別宅だ。通常は使用していないけれど、使用人が三日に一度は手入れにきている筈。それなのに? 換え忘れた?  …そうじゃなかったら?  その茶色い花弁に触れてみる。まるで水に砂糖が溶けるように、それは音もなく形を無くした。 「何か、いい子がいる」  と言ったサンブラントの声をはっきりと覚えている。まだ二人とも十歳に満たない幼い日の事だった。  従兄弟同士の自分達は、意外な程にウマがあった。性格も全く違うのに。多分お互いがそう思っていただろう。 「へー。好きな子?」 「好き…うーん」  何だろう。と、サンブラントは本気で悩んでいる様子で呟く。 「好きか嫌いかと言われれば好きだけど、何て言うのかな。いい子」 「…?」  何を言っているのか分からない。礼儀正しい子って事か? そう勝手に理解して、その時はそれで話を終えた。  それがカスミラの事だったと知ったのは、自分がまだ学生で、卒業まで一年となった時。 「いたいた! レンデスト!」  と、小声なのに勢い良く肩を捕まれてびっくりした。振り返るとサンブラントがいる。…ん? 何故ここに? そう思ったレンデストにサンブラントが言う。 「久し振り! なぁ。昔俺が言ってたいい子の話、覚えてるか?」 「突然何? 何でここにいるの?」 「いいから覚えてるかって聞いてんの」 「…あの、礼儀正しい子の話?」 「礼儀正しい? そんな事言ったか? まぁ、礼儀正しいけど」 「え? 何で制服着てるの?」 「とりあえず来いよ。紹介するから」 「え? ちょっと。え?」  混乱するレンデストを無視してサンブラントは手を引っ張って歩き出した。 「は? 初めまして…。カスミラ、です」  そして引き合わされた女の子。…も、混乱している。自分とサンブラントを交互に見ながら目を丸くしている。こっちも同じ気持ちだ。この従兄弟は何をやっているのか。そう思って黙っていた自分の事を、三年生だと勝手に紹介するサンブラント。 「あ…先輩なんですね」  と言って、ぺこりと頭を下げたカスミラを見て、サンブラントの言っていた事を理解した。確かにいい子。何が? 分からない。けど居心地が良い。会ってすぐにそんな事を思った。  自分の性格上、誰かに執着したり、自分からアプローチをする事は考えられなかった。思えばサンブラントと仲が良いと思えるのは、彼がこちらに好意を持ってぐいぐいと接してくれるからだ。と、この時期に気付いた。  そんな自分がカスミラにだけは別だった。見かければ声をかけてしまう。挨拶程度でも。向こうが自分に気付いていなくても。  一目惚れ、なんて感情じゃなかった。そんな恋愛という感情じゃなくて、魂が惹かれた様な、遺伝子が反応した様な、そんな不思議な感情だった。それがいつからか。少しずつ変化したのか、本当は元からそうだったのか。  学校を卒業する時期になって、カスミラの事を考えた。仕事よりも将来よりも、近くにいて、もしかしたら会えるかもしれない学生生活の終了に思考を奪われた。それ以外の場所に魅力がない。けれど自分は卒業する。もう学校に留まる理由が無い。そう思っていた時、サンブラントが言った。 「カスミラ、家で辛い思いしているかも」と。  興味がない振りをしていた自分に、サンブラントは自分の見た事、推測した事を全て話してくれた。夜会に来たり来なかったりする事。弟との扱いに差を感じる事。挨拶の後、カスミラはどこかへ消える事。他にも細かい話は沢山あった。今まで何となく思っていたことを、社交界にお互いが参加するようになって確信したらしい。無能力者、と囁くあちこちの声にぶち切れそうになったとも言っていた。そこで改めて思い出す。そうだった。彼女は無能力者だったな。と。それを今迄認識すらしていなかった自分に驚く。 「あいつ、学校卒業したらどうなるんだろう」  と、呟いたサンブラントの言葉に指が冷たくなるのを感じた。話を聞いていても状況も、とても彼女に望ましく明るい未来を用意してくれるとは思えない。親も体裁の為に学校に行かせているんだろう。それを失ったら? カスミラは?  助けたい。と、思った。彼女に気付かれないように、そっと。だって、彼女はそれを知ったら自分のせいでと悲しむから。だから知られないように、彼女にせめて人並みの人生を送れる環境を。そう思った時に進路が決まった。 「レンデスト先ぱ…あ、教授。先生!」  と、明るい笑顔で言われて、嬉しいよりも照れ臭かった。彼女の為に学校に残った自分を意識してしまう。けれど後二年ここで一緒に過ごせる。そう思った時の高揚感は生まれて初めてのものだった。 「お前、生徒ですらないのかよ」  そこで初めて知った事実。教師の権限で色々調べてみたら、サンブラントはただの部外者だった。呆れて物が言えない。そんな自分に従兄弟は言う。 「お互い様だろ」 「…」  そういうことか。と、理解した。サンブラントはカスミラの為にこの学校に来ているのだ。それをすんなり受け入れる。自分もそうだ。どうして? なんて疑問すら浮かばない。ただ、そうしたい。それだけだ。  奇妙な学校生活。としか言えない日々が始まった。恋愛対象でもない一人の女性を護る為に学校に通う自分達。本当におかしな状況だ。当時は毎日、毎時間思っていた。けれどそれもやがて風化する。じゃあ後悔している? 止める? 答えは即答でノーだったから。  ここにいると決めたなら、無駄なことを考えずにできる限りのことをしよう。時間は二年しかない。その間にカスミラが安全に過ごせる土台を作らなければ。  その計画と同時に、土の属性に関する研究も始めた。どうせ自分の仕事の範疇だ。そう言い訳しながら仕事中に私的な事をしていることを無視した。  そんな風に仕事を始めて半年も経った頃、カスミラに仕事を手伝って欲しいと依頼した。知識は邪魔にならない。使えなくても持っていれば必ず何かの役に立つ。当時はその程度の気持ちだった。自分はそれを使う事ができないのに辛くはないだろうか。そう思った事もあるけれど、カスミラは嫌な顔一つせず仕事を手伝ってくれる。穏やかに、丁寧に。いい子だ。と、その時にも思った。  時をほぼ同じくして、カスミラの属性に関する論文を見付けた。カスミラの見たものとは違い、詳細に内容が記されたそれを見た時、血の気が引いたのを覚えている。彼女がその他大勢と同じ様に過ごす為のハードルは、自分にとって高過ぎた。想像もしたくない。彼女が傷付くところなんて。けれど、もしもこれをカスミラが見付けたら? 彼女はどうするだろう。どうしても力が欲しいと願って、どこかの男と。  そう想像して、手の中にあった論文を握り締めた。燃やしてしまいたいと思った。けれど彼女の為の重要な資料だ。それに、もしも彼女に誰か良い人が現れたらこれを教えて上げられる…。  そこまで想像して吐き気を覚えた。カスミラに恋人? 結婚? 政略結婚が当たり前のこの世界で、想像したのは最悪の事ばかりだった。彼女にとって良い人だったとしても、自分が許容できる自信がない。それなのに、そうでなかったとしたら?  冗談じゃない。  彼女の幸せすら分からない自分が、それをコントロールすることは不可能だ。もしかしたら今すぐこれを知って誰かと交渉し、人並みになる事が彼女が一番望むことかもしれない。けれど絶対に受け入れられない。自分勝手だと分かっていても、絶対に、どうしても嫌だった。もう、籠の中の鳥の様に、捕らえて逃がさない様にしてしまいたい、とすら思った。誰も触れないで欲しい。自分も触れないから。 「レンデスト? …どうした?」  不意にサンブラントが入ってきて目を丸くした。自分は真っ青な顔をしていただろう。そう思ったけれど、本当は隠したかった。何でもないと言ってしまえば、もしかしたらその場は収まったかもしれない。けれど、もしかしたら。もしもカスミラがこれを知って、サンブラントに助けを求めたら。相談したら。縋ったら。それを想像したら黙っていられなかった。自分がこれを知っていると伝えておけば、少なくともサンブラントは何かの合図をしてくれるだろう。それだけにでも縋りたい程、自分の知らないところで物事が進んでしまうのが怖かった。 「もしかしたら、だけど、カスミラが力を得る方法があるかもしれない」 「え?」  驚いたその声は、やがて歓声に近いものになった。 「本当に? 良かったじゃんか」 「でも、させたくない」 「…」  その声に、サンブラントは目を丸くした。その顔すら見ずにレンデストは呟く。 「カスミラが傷付く。その後、今まで通り過ごせるか分からない程」  この時は本当にそう思っていた。心が深く傷付けば、その後の人生に大きな影を残す。けれどカスミラ本人からその後の事を問われた時、言えなかった。それを知らずに過ごす事も、人生に大きな影を落とすと知ってしまったからだ。結局、本人の意思に任せるしかなかった。 「…そう」  そうか。と、サンブラントは呟いた。 「それから、俺の頭の整理をする為に聞いて答えて欲しい。カスミラは、今から何かの力を得たとして幸せになれると思う?」 「え?」 「今まで家族にも蔑ろにされて、学校でも蔑まれてきた。それは全て解消されるかもしれない。けれど手の平を返した周囲をカスミラはどう思うのか、俺は分からない」 「…」  長い沈黙の後、そうだな。と、サンブラントらしくない小さな小さな声が聞こえてきた。  その後、彼は何も聞いてこなかった。自分と同じくらい…いや、それよりも強くレンデストがカスミラを思っている事を、もしかしたら彼だけが知っていたのかもしれない。
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