ライバル?

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ライバル?

私のことを人は「紫式部」と呼ぶようです。 もちろん本名ではありません。 中宮彰子さまにお仕えしていた時は、 「籐式部」と呼ばれておりましたので、 「紫式部」の名で呼ばれるようになったのは、もっと後のことになります。 私の生きた平安時代は、本名は「諱」または「忌み名」ともいわれ、 親や目上の人以外が呼ぶことは憚られることでした。 女性であればなおなこと、名前が後世に伝えられる事は少なく、帝の妃になった方など、公の文書に書かれる方ぐらいでした。 宮仕えに出たとしても、大抵は、家族の役職名などで呼ばれました。 家にいる女性は〇〇の母や〇〇の娘などという呼び方でしか後の世には伝わっていません。 ですから、私も宮中に出仕する事なく、 日記や私撰和歌集のみが伝わる女人であれば、“藤原為時の女(娘)”とでも呼ばれたことでしょう。 私の父は藤原為時といい、越後守を務めたこともある、いわゆる受領階級でした。 藤原北家良門の流れをくむ家柄ですので、元は卑しい身分ではありませんでした。 ですが、政治には長けていない人が多かったのか、私の父なども、受領の任を受けても貪欲に蓄財するようなことなく、 よく言えば清廉なのですけれど、要は世渡りが下手な人で、無官で過ごした時期も長く、 生活は楽ではありませんでした。 代々学者の家柄で、文の才に優れた者を多く出していました。 父も30代に東宮さまの読書役を務め、 正五位下(下級貴族)ながら、漢学をお教えする漢詩人、歌人でした。 東宮さまが花山天皇になられると蔵人、 式部大丞と出世いたしましたが、 花山天皇が出家されると散位となり、 しばらく無官の時期を過ごしました。 10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、 ようやく越前国の受領となり、 私も父と共に任地に下り、約2年任国で過ごしたこともございました。 京に戻ってから、私は藤原宣孝に嫁ぎ、 一女(大弐三位)を生みましたが、 長保3年(1001年)に結婚後3年程で夫は亡くなりました。 『源氏物語』を書き始めたのはその後のことです。 私は幼少期に母を亡くし、姉と弟がおりました。 私も父に似たのか、世渡り上手ではありませんでしたし、容姿も十人並みで、平凡。 人付き合いもどちらかといえば苦手な方でした。 ひとりで、本を読んだり、空想をしたりすることが、幼い頃から好きでした。 父が弟に学問を教えている横で、 針仕事などしている私の方が先に覚えてしまうので、 父が「この娘が男だったら、上級役人になれただろうに、惜しいことだ。」 とよく嘆いていたそうです。 ですから、文の才も父から受け継いでいたのかもしれません。 それでも、女が文の才があるからといって、何の役に立つのでしょう? もっと高貴な家の姫君であれば、 貴公子と和歌を詠み交わして愛を受けることもあったでしょうが。 何の役にも立たないとわかっていても、 好きな物は止めることができないものです。 家事の合間に本を読むことが唯一の楽しみでした。 私は後に宮中に出仕する事になるのですが、私と清少納言と呼ばれた女房を、宮中におけるライバルだったと勘違いされている方がいるようです。 私が日記に彼女の悪口を書き散らしていたりしていたからなのでしょうか。 それは、彼女を意識し、密かに“あの様に生きてみたい”気持ちの裏返しだったのですが… そもそも彼女とは、同じ一条天皇の妃に仕えたとはいえ、同じ時期に宮中に居たわけではありません。 清少納言は、中宮 定子(ていし)様の教育係として993年(正暦4年)頃に 仕え始め、役7年間お仕えしたそうでございます。 私が、中宮・彰子様に女房兼家庭教師役としてお仕えしたのは、寛弘2年(1006年)からですので、実際は顔を合わせたこともないわけです。 それでも、彼女の存在が私に影響を与えたことは確かです。 彼女が宮中でのできごとや、お仕えする 定子様の素晴らしさを褒め称える 『枕草子』を書かなければ、 私も『源氏物語』を書くことは、なかったかもしれません。 紀貫之が『土佐日記』に、 「男もすなる日記といふものを、 女もしてみむとてするなり。」と記したように、本来漢字や文書を書くということは、男がすることとされていました。 ですから、私も自分の中で溢れ出る妄想があっても、清少納言が『枕草子』を書かなければ『源氏物語』はなかったかもしれません。 清少納言は、教養にあふれ明るい人柄の 定子様という理想の主人と巡り会い、 才能が開花させ『枕草子』を書きました。 そのことは、宮中の外にいる私の耳にも届き、人伝に写本を手に入れ読むことが出来ました。 その時、“あぁ、女でも、私でも書いていいのだ”と思ったのです。 それから、“自分のために”少しずつ 物語を書き始めたのでした。 清少納言の悪口を日記に書いた私ですが、 彼女が主人である定子様が急逝され、 宮廷を去り、その後書くことがなかったのは、とても残念に思います。 彼女にとって、宮中での耀く定子様や その周りで起こる出来事に比べれば もう、書くほどの出来事はなかったのでしょうか。 それまでの書物は、漢籍にせよ造り物語にせよ、男性によって書かれたものでした。 男性の書く女性は、男性の願望や 「女は〇〇」という固定観念で表現されてしまいます。それは、仕方のないことかもしれません。 私が、男性の本音が分からないように、 男性が女性の本当の気持ちを分かることは出来ないのでしょうから。 そして、漢文というものは、初めの成り立ちからして、商売や政治を行う上で、言葉の通じない者同士が“筆談”するために作り出された物ですから、 繊細な感情表現は難しいのです。 かな文字が生まれたことにより、 初めてそれが可能になったのです。 私は、色んな女性の生き様を読みたかった。でも、それが書かれた物語はありませんでした。 私は、なかなか縁に恵まれず、かなり晩婚で、しかも夫と過ごした日々も長くはありませんでした。 それでも、娘に恵まれ夫の残してくれた物でなんとか生活もできていました。 心の侘しさを埋めたいという想いもあったのかもしれません。 私は、自分のために物語を書き始めました。誰かに読ませようとか読んで欲しくて書き始めたのではなかったのです。 最初は、読者は私ひとりでした。 自分が読みたい物語を自分で書いたのです。 そのうち、姉が 「いつも何を書いているの? 物語なのなら、私にも読ませて。」 と言ってきたのです。 そして、「友だちも読みたいというから、書き写して貸してあげたわ。」というのです。 「自分の為に書いた物だから、恥ずかしいわ。 お姉様だから、貸したのに…」 「ごめんなさい。 でも、今までの物語に似てるようで、 なんとなく違って面白いのよ。 ねえ、続きが書けたら、教えてね。 楽しみにしているから。 “紫の姫”がどんな風になるか気になるわ。」と。 私は、幼い“紫の上”が光る君に見いだされる 北山の場面から書き始めていました。 私も、書き始めの頃は、それまでの造り物語のように、 “不遇の姫が貴公子によって幸せになる”という、 女性が一度は夢見る場面から始めたということは、やはり自分の中の乙女心を満足させたい想いがあったのかしら と思います。 そんなわけで、2人目の読者になった姉からその友だちへ、そしてまた、 その友だちへと、いつの間にか書き写されて広がっていったようです。 そして、その評判はいつしか藤原道長さまのお耳まで達していたのでした。 道長さまは、一条天皇のもとに娘の 彰子さまを入内させていらっしゃいます。 中宮となられた彰子さまの教育係となり、 そして、彰子さまが一条天皇のご寵愛を受けられる環境作りのため、身辺に才のある女性を女房として集めておられたのでしょう。 私も、道長さまに召し出されて、 彰子さまにお仕えすることとなりました。 人付き合いの苦手な私には、宮中で上手くやっていけるのか、あまり気が乗らないことではありましたが、 娘の将来を考え、思い切って出仕する事にしたのでした。 このように、『源氏物語』と後に呼ばれるようになる物語を書き、それがきっかけで時の中宮彰子様にお仕えすることになり、歴史に名を残すことになったのは、全く意図したことではありませんでした。 あの物語を書かなければ、受領階級と言われる中流公家の娘に過ぎない私のことなど、他の多くの女と同じように、その存在さえ記憶されることなく時間の彼方に消え去っていたことでしょう。 「紫式部」という名でさえ、『源氏物語』が人に知られ、その登場人物、 紫の上を好む人が多かったことから、 後になって言われるようになった名だったのですから。
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