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11
「ただいまー」
その日、後から家に帰ってきた茉凛は一見いつもと変わった様子がなかった。
ほんの少し鼻声で、まぶたが少し腫れぼったいこと以外は。
でもやっぱり口数が少ないし、どこか様子がおかしい。
それくらいのことは、いつも一緒にいる私にはわかる。
「花凜、お風呂空いたよっ」
夕飯後、パジャマ姿の茉凛が部屋に戻ってきても、私は机に向かったまま返事をしなかった。これから私がお風呂に入って、また風呂掃除するのかと思うと、ひどくいやな気分。
両肘をついて組んだ手におでこを預けるようにして、感情をおさえる。
進路資料室で三木となにを話していたの?
聞きたいけど、どう切り出せばいいんだろ……。
はっきり聞いてみるべき? それとも知らないフリをして探ってみる?
「あ、花凜。そういえば――」
沈黙が気づまりなのか、いやに明るい声で茉凛が切り出した。
「今日、唯吾君がね」
「え?」
唯吾君……って?
胸の辺りでなにかいやなものが弾けた。
すごく不快な感触が、じわじわと私の中に広がっていく。
「あー、俺も藤崎姉に勉強見てもらえばよかったーっ! とかって吠えてたよー。唯吾君、暗記もの以外は全然苦手らしくてさっ」
茉凛、いつから三木を下の名前で呼ぶようになったの?
放課後の進路資料室。私が立ち去ったあとで三木は……茉凛になにを言ったの?
「三学期の期末、三人で一緒に勉強しない? 唯吾君、話してみると面白いなーって」
無邪気な茉凛に耐えることなんて、もう長い間慣れているはずだったのに。
文化祭前から、久しぶりに毎日がキラキラしてるって思えていたのに。
ぶちまけられたバケツのペンキみたいに、どす黒いものが私の胸を覆っていく。
――この感情は、嫉妬だ。
「あとね、唯吾君が他の男子と話してたん――」
バン! と力任せに机を叩いた。
もう、限界!
「……いい加減にして、茉凛!」
「え? か、花凜?」
三木が作ってくれた私の世界なのに。
また茉凛はそうやって、あとからやってきて私の場所を奪う気なの?
椅子から立ち上がってにらみつけると、茉凛はわけがわからないといった顔つきになる。
「な、なにっ? なんか怒ってる? 私、変なこと言った?」
「そうだよね……茉凛はいつだって悪気なんてないんだよね。そのうえ想像力もゼロ」
「え……」
「だから私がどんな思いしてるかなんて、考えてみたこともないんでしょ!」
「え……、え……?」
「いつもいつもそうやって、あとからやってきて、おいしいとこばっか持ってって! 調子良く人に甘えて、周りみんなに許してもらえるんだよね、茉凛は!」
茉凛が絶句したのに、私の言葉は止まらない。
「もう小さい頃からうんざり! 生まれてくるのは私だけでよかったのに! 茉凛なんて……茉凛なんて、いなくなっちゃえばいいのよ!!」
言い放った一秒後に、私はすぐさま後悔した。
なぜなら唇を震わせている茉凛が、明らかに傷ついているのがわかったから。
「……ひ……ど、……――な、んで…………ん、な、こと……いう、の……」
大きな瞳からみるみるあふれ出した涙が、茉凛の頬を伝っていく。
「か、りん……だっ――……いつ、も、私……おい、てっちゃう……のに……――」
カーペットにしゃがみ込んで嗚咽を漏らし、茉凛は泣き出した。
私は着替えを手にして部屋を出ると、足早に階段を降りた。
「ちょっと。あんたたち、なに騒いでたの?」
母さんの声も無視して、お風呂に向かう。
ただの醜い八つ当たりだって、わかっていた。
それでもあの言葉をすぐに取り消せるほど、私は大人にもなれなかった。
茉凛とそっくりな、私。
私とそっくりな、茉凛。
三木との時間が嬉しかったのに……。
今までのミラクルは身勝手な私が創り上げた、ただの夢だったみたい。
どうして、夢って覚めちゃうんだろ……。
お風呂の中で私はひとり、泣いた。
茉凛とろくに口を利かないまま、翌日を迎えた。
いつもなら、寝起きの悪い茉凛を起こすところだけど。
急に朝の当番になった、と適当に母さんをごまかして、私は先に学校へと向かう。
学校にくれば茉凛とはクラスが違う。
けど、もうすぐ冬休み。毎日家にいれば、いやでも茉凛と顔を合わせる時間は長い。
でも学校に来なければ、三木にも会えないんだ……。
「花凜、あんま気にしすぎんなよ?」
「え?」
休み時間、星那に話しかけられて面食らった。
「ほら、社会のテスト。一点悪かったくらい、まぐれみたいなモンだろ」
「あ……」
よほど呆気に取られた顔をしちゃったみたい。星那ががくっと肩を落とす。
「なーんだよ。かなりショックだったみたいだから心配してたのに。ちがうのかよ」
正直、試験の点数のことなんて、もうすっかり忘れてた。
「ま、気にしてねえんならいいけど。……じゃあ、なんでそんな落ちこんでんだよ」
「お、落ちこんでなんか……」
「……そっ? まあ、話したくないなら、無理にとは言わねえけどさ」
星那は本当に、いい友達。
素直になれない不器用な私との距離感をよくわかってくれている。
星那にいやな詮索をされたことは一度もない。
じゃ、と去っていく星那の後ろ姿が、ちょっと寂しそう……? けど、何も聞かずにいてくれる星那に、少しホッとしてもいる。
これが三木だったら、また強引に踏み込んでくるんだろうな……。
なんて考えていたら。
それはみごとに、放課後に的中してしまった。
クラスの当番を終えて校舎を出たあと。校庭脇の道を通用門へと向かっていたとき。
「藤崎!」
三木の声が追ってきて、心臓が跳ね上がった。
足を止めて振り返ると、三木が校庭からフェンスを回ってこちらへやってきた。
サッカー部のチームジャージ姿だった。ふと校庭を見ると、サッカー部はもう一年が集まってボールのカートを運んだり、カラーコーンの準備をしたりしている。
「……み、三木。練習、出てきちゃっていいの? サッカー部すごく厳しいんでしょ?」
「ケンカでもしたのか? おまえと妹」
私の言葉なんてまるっと無視して、三木がずばりと言った。
なんで三木って、私と茉凛のことにはいつもこんなに鋭いの?
「……べつに、なにも。ごめん、私……急ぐから」
目をそらしたままきびすを返して、足早に去ろうとしたら。
「なあ、待てったら!」
強引に腕を引かれ、声を荒らげた三木に引き止められる。
「ちょ、ちょっと、やめてよ!」
下校ラッシュの時間だ。今も何人かの女子の集団がこちらに好奇の目を向け、ひそひそとやりとりしながら去っていく。
私はさっと辺りに目を走らせた。
こんなところ、茉凛に見られたくないのに……!
「妹ならもう帰ったぞ。さっき見かけた」
また言い当てられ、私は悔しくてつい三木を睨み返す。
「なにがあったんだよ。おまえの妹、今日はずっと、この世の終わりみてえなツラしてたんだぞ。あの明るい妹が全然しゃべらない、って二組じゃちょっとした事件だった」
「……そう。茉凛らしいよね。いつも周りにちやほやされてるんだし」
だめ、と思ったのに。よりによって、そんな皮肉を三木にぶつけちゃう。
当然、三木の顔つきは険しくなった。
「そういう言いかたすんの、やめろよ。くだらないケンカでもしたんなら、ちゃっちゃと謝って仲直りすりゃいいだろ」
「くだらない?」
その言葉についカッとなって、私は三木をにらみ上げた。
「三木には……三木にはわかんないわよ。わかるはずなんてない。同じ顔した妹が、同じ学校の同じ学年にいるのがどんな気分かなんて。いつもいつも、周りに比べられるのが、どんな気持ちかなんて……!」
こちらを見下ろす三木は渋い顔つきのままなにかを言いかけ、ためらう。さんざん迷ったらしい末に、重々しく口を開いた。
「……顔が似てるから、妹のことが気に入らねえのかよ」
「え?」
「もしも妹と顔が似てなかったら、なにもかも許せんのかよ!?」
その三木の言葉の意味を、私はこの時まだ知る由もなかった。
(な……なによ、こんな怖い顔して……)
まだつかまれていた腕に、ぎりっと力が込められる。
「いた……っ、や、やめてよ! やめてったら! 放してっ!」
私が声をあげると、三木は我に返ったように私の腕を放した。
けど、謝ってはくれなかった。
「……藤崎。おまえ結局、なんか理由つけて妹と自分を勝手に比べていじけてるだけじゃねえかよ。そういうの、ダっセえぞ」
「…………」
悔しいけど、ぐうの音も出ない。
三木が言ったのは、私が気づいていて認めたくなかった事実そのもの。
……わかってるわよ、そんなの。本当はわかってるけど……!
「最近、妹のほうともちょくちょく話すようになってわかったけどさ。あいつだっておまえと自分を比べてんだぞ」
「えっ」
「姉は成績優秀だけど、妹の方はバカだよな――周りはそんなふうに私を見てる、父さんも母さんも、花凜はしっかり者で茉凛は出来が悪いって思ってる、ってな」
「ま、茉凛が?」
「いつも花凜が先に行っちゃう、ついていかないと、置いていかれそうで怖い ――なんも取り柄もない、やりたいことも見つからないのに、進路もわかんないのに、って。あいつ、泣いてたぞ」
「…………」
「おまえ、妹のことなにもわかってやってねえじゃねーか!!」
茉凛が、自分と私を比べていた?
自分は出来が悪いと思っていた?
進路資料室にいた三木と茉凛のことがちらりと頭をよぎる。涙まじりの茉凛の声も……。
「俺が好――」
三木はそこで初めて周りを気にして口をつぐみ、数瞬のあと、かすれた声で続けた。
「……きなのは、妹のほうじゃなくて、おまえなんだよ」
「えっ」
「けど、妹のことを悪く言う藤崎なんて見たくねえよ。ばか!」
すねた子どものようにそう言うと、三木はくるりと背を向けて、去っていった。
…………。
バカ騒ぎをしながら通り過ぎていく男子の声。
噂好きな女子たちの黄色い声。
全部、全部、私の耳から遠のいていく――。
下校する生徒の流れの中、私はしばらくの間、ただ立ちつくしていた。
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