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「あの朝、父さんと口喧嘩になったんだ」
唐突に彼が話し出した。
うつ向いて、麦茶のグラスを指でいじっている。
「ほんのつまらないことだよ。夜寝るのが遅いとか、宿題をちゃんとやれとか、そんなことだった」
私たちが日頃から大人に言われていること。
お互いに言いたくないし、聞きたくないけど、日常で呆れるくらい繰り返される出来事だ。
「朝ごはんの間、ずっと言い合いになって。二人ともイライラして仲直りしないまま、僕は学校に出かけてしまったんだ」
気にならなかった訳じゃないだろう。
むしろずっともやもやして、居心地の悪さを抱えていたと思う。それはお父さんも同じだったようだ。
「午後になってメッセージが来て。言い過ぎた、ごめんって」
でも、宮田くんは返信しなかった。
意地悪ではなく、スマホの充電が切れてしまったのだ。
「朝にゴタゴタしてたから、うっかり切らしちゃったんだと思う。それに既読は付いただろうし、父さんがもう怒ってないことに、安心したのもあった」
父さんが帰って来たら 僕も謝ろう
そう思っていた彼の元に、父親が事故に遭ったとの知らせが届いた。
彼は悲しみに暮れる暇もなく父親を見送った。
呆然としたまま静寂な家に戻ると、言葉に出来ないほどの喪失感を覚えたそうだ。
せめて あの時
ごめんねって言えてたら
数日を泣き明かした彼は涙は枯れたものの、心が空っぽになってしまった。
「自分も責めたけど、父さんのことも腹が立ったよ」
何で僕たちを置いて 逝ってしまったんだ
「それは間違いだって、わかってるんだけどね」
現実逃避と悲しみの次に訪れる感情は怒りだ。
不甲斐ない自分に。
置いてきぼりにした相手に。
そして鬱々とした夜を経て、いつか受容の朝が来る。
少なくとも彼は、私が辿ってきたところを歩いている。
そうか。
彼はちゃんと向き合っているんだ。
だからこれほどまでにつらくて、でもだからこそ凛として見える。
グラスに残った僅かな麦茶を飲み干して、彼はため息をついた。今、自分が考えていることをどう言葉にしたらいいのか、私には思いつかなかった。
何の疑いもなく、ずっとこのまま続いていくと思っていた日常が、突然失われてしまった。
大切な存在を失くすまで、誰かに明日が来ないことがあるなんて、想像したこともなかった。でも、それは不意にやって来て、こんなにも簡単に私たちを苦しめるんだね。
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