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プロフェッサーと誘拐犯 1
「少々、お話をするだけですよ、プロフェッサー」
そう慇懃無礼に言いながら、紅茶を勧めた。
花柄のテーブルクロスに置かれた白く清潔そうな丸いソーサー。その上にはソーサーとセットになっているティーカップ。カップの縁はゆるい曲線を描いていて、口をつける分には飲みやすそうだと、ウィンストンはのんびりと思った。
「どこの紅茶なんだろうね」
「勿論、あなたのお好みの産地ですよ。バハマです」
そう言いながら、ワインレッド色の眼鏡の縁に囲まれた目尻が、からかうようにあがる。バハマ産の紅茶なんて聞いたことがないなと、ウィンストンは真面目に考えた。いや、もしくは自分の知らない間に、バハマでも茶の栽培が始まったのかもしれない。観光業と金融業だけでは国の経済が危ういのだろう。特にタックス・ヘイヴン絡みは、近年世界を騒がせた。
ふうむと、新たな発掘を目前にしたように、顎に手を添えて考え込む。考古学の教授に意識が切り替わり、テーブルの上にあるティーカップの中身を注視する。紅茶の色合いが、ロンドンにあるヴィクトリアン様式の建築物の赤レンガみたいだと感じた。少しだけこちらが薄いかもしれない。だが、とても良い匂いが鼻から身体の中へ入ってくる。精神をリラックスさせる香ばしさだ。これは実に……
「プロフェッサー」
軍人のような張りのある声が、ウィンストンの思考を現実世界へすくい上げる。網にかかった獲物を、海から引っ張りあげるように。
「冗談です。インド産ですよ。安心して下さい」
眼鏡の奥で、切れ長の目が薄く笑う。
「あなたの知的好奇心を、刺激してみたかっただけです。すみません」
ソーリーと簡単に動いた口元を、ウィンストンは何かの発掘物のように興味深そうに見やる。大変に殊勝な言葉だとは思うが、これくらい口にする当人に似合わないものはないと感じた。大体そういう表情を全くしていない。先程からずっと太々しいままだ。
「ああ、そう。それじゃあ、次に進もうか」
ウィンストンは段々とこの状況に飽きてきた。
「君の言うお話とは何だろうね。五分くらいで終わるのかね。君との愉快な紅茶の話は終わりにして、私は大好きなスフィンクスの世界へ飛び立ちたいんだがね」
「ええ、分かっています。貴方を困らせるつもりはありません」
と、オックスフォード大学からウィンストンを強引に誘拐してきた男は頷いた。
「時間はかかりません。とても単純で簡単な話です」
言葉遣いは真っ当だが、野性的で獲物を狙う獰猛な匂いをふんだんに放っている。まるでアムールトラが牙を剥いて、涎を垂らしているように。こういう手合いが一番面倒なのだと、ウィンストンは今までの経験から分析したが、結果は間違っていなかった。
「これから、私と一緒に暮らして頂きます。ああ勿論、貴方に選択する権利はありません。申し訳ありませんが、素直に従って下さい、プロフェッサー・バートン」
驚きのあまり、アイビーのように深くて暗いグリーン色の瞳が惑星のように丸くなっている姿を見て、アドリーは笑いを噛み砕いた。まあそうだろうと理解は寄せる。だが、理解だけだ。
「紅茶を飲みませんか? 気分が落ち着いて、冷静になれますよ」
テーブルに置いた清楚な感じのティーカップとソーサーのセット。バートン教授に似合いそうなものをと、わざわざハロッズで購入したのだ。会計をする時に、アンティークのセットを目の前に並べた、いかにも胡散臭そうな長身で黒ずくめの男を店員はじろりと見上げて、「商品をお間違えではありませんか、お客様」と典型的なイギリス人のように失礼なことを言って寄越した。同じく典型的なイギリス人であるアドリーは、頬に皮肉たっぷりな笑みを貼りつけて言い返した。「ああ、大丈夫だ。アマゾンと間違えてハロッズに来てしまったからね」
――余程不釣り合いだったんだろうな。
アドリーは片腕で大切に袋を抱えながら思った。言い返したものの、別段腹は立たなかった。ティーセットではなく、銃や手榴弾でも購入すれば、あの店員も普通に接客してくれたに違いない。
そんなことを思い返しながら、アドリーは目の前のウィンストンをうっとりと見つめる。ウィンストン・バートン教授は整った頬を小難しそうに引き締めて、顎に右手を添えている。考えに没頭している時の癖だ。アドリーは知っている。バートン教授に関する検定試験があれば、全問正解できる自信があるほどに。
「プロフェッサー」
呼ぶ舌が震える。なんて魅力的な男性だろうと、つくづく感じてしまう。遊具を高速回転するハムスターのように胸がクルクルと踊って、ハート形に変身した心臓がドキドキと高鳴る。これが恋だ。アドリーは両目を閉じると、乙女のようにときめくような息を吐いて、両手で胸を押さえた。自分は恋をしているのだ。このアドリー・ランカスターともあろう男が。
「素晴らしい……」
「何がだね」
その不愉快そうな声で我に返り、秒速で目を開ける。目の前には、紳士的な顔立ちを不快気な色に染めて、身だしなみに頓着しない性格がもろに出ている無精髭がとても素敵な男性がいた。
「失礼」
アドリーは目を輝かせながら、飛びつきたくなる自分に落ち着けと言い聞かせる。
「貴方が素晴らしいのですよ、プロフェッサー」
「ああ、そう。君が満足したのなら、帰ってもいいかな。スコットランドヤードに駆け込みたいんだがね」
スコットランドヤードはロンドン警視庁を指す言葉である。
アドリーは不思議そうに首を傾げた。
「警察へ何の用事ですか」
「勿論、君を訴えに行くんだよ」
ウィンストンはこの馬鹿者というような表情になっている。
「私を誘拐して、挙げ句に監禁とは、それを社会では何と言うか知っているかね? 犯罪というんだよ。君はちっともわかっていないようだから、警察に登場してもらうんだ」
「そんなことはありません。全てわかっています。私は愚か者ではありません」
アドリーは両手の手のひらを胸の前に出して、毅然と教授の勘違いを訂正する。
「貴方とお話がしたかったのです。そして、一緒に暮らすという計画を伝えただけです。少しも犯罪行為ではありません」
「私に選択権がないというだけで、立派な犯罪行為だ。いいかね、私は見ず知らずの君に連れ去られて、さらにはわけのわからないお喋りをして、人生における貴重な時間を大いに浪費している。これがどれだけ私にとってとてつもない損失なのか。それだけで怒りが湧いてくるほどだ」
「ああ、プロフェッサー、成程」
バートン教授検定試験に合格する自信があるアドリーはすぐに察して、まるでどこかの探偵のように額をひとさし指で軽く小突く。
「スフィンクスですか」
「そうだ」
エジプトの考古学者であるウィンストンは、心のスイッチを押されたようにアンティークな椅子から自動的に立ち上がると、そのまま回れ右をした。
「そうだ。私はエジプトへ行かなければならない。愛しのスフィンクスが私を待っている」
そのまま日当たりの良い部屋から脱兎の如く出て行きそうになるところを、即立ち上がったアドリーが追いかけ、後ろから羽交い締めにした。
「落ち着いて下さい、プロフェッサー。大丈夫ですよ、スフィンクスはこの地球上から逃げも隠れもしませんから」
「放したまえ。君こそ落ち着いたらどうだ」
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