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その次の朝、僕はスマホの着信音で眼が覚めた。
「うぅ……もう朝か」
彼に腕をやさしく掴まれたあと、2時間ほどの記憶がない。いや、正しくは少しだけ違う。頭の中は真っ白で本当に覚えがないのだが、僕の全身が記憶している。
あれから何があったのかを。
「どう……接したらいいんだ、これから」
もう以前のような関係に戻れないのは分かっている。だが仕事は仕事なのだ。そしてこの関係を他人に悟られてはならない。どう距離感をとっていいのか分からない。
混乱のまま、とりあえず鳴りっぱなしのスマホに出る。
「……はい」
《昨日の退勤報告がありませんでしたが、トラブルでしたか?》
電話の相手は会社のマネージャーだった。
「え? あ、ああ。そうではなく、単純に端末操作を忘れただけです。すいませんでした」
とてもじゃないが『それどころではなかった』とは言えない。すると。
《それはそうとして、急で申し訳ないんですが今日から派遣先を変更しますので》
「ええ?! 今日からですか!」
突然の申し渡し。
《はい。隣県の福祉養護施設から緊急依頼がありました。至急、荷物一式持って向かってください。寝泊まりもその施設内に場所を確保しますので》
それはつまり彼と顔を合わせる機会すら無くなるということで。
「そ、そんな急に! せめて、引き継ぎだけでも……」
《それはこちらでやります。電車のチケットを取ってありますので、後程タブレットに予約コードを送ります。ではよろしく》
会社の命令に逆らうことはできないから、ここは引くしかないか。何処かで再任の道筋が付けられればそれで。
だが、不安がなくもない。もしかして……。
「ちなみに次は誰が……。はい、その方は以前一緒に仕事をしたことが」
後任者は『女性』だった。
「……」
知られたのだ。彼の『性的嗜好』を。そして僕を彼から引き離す決断をしたと。これだけ早い決断の裏には何処か確実な情報源があったに違いあるまい。その心当たりがあるとすれば。
「御庭番か」
庭に出ることもない主の屋敷にどうして庭師が必要なのか不思議だったが、やっと合点がいく。『庭師』なら屋敷の内外を歩き回っても不自然ではないからだ。『2時間の残業』をあの庭師が彼の両親に伝えたのだろう。
スマホの通話を切ると同時に、タブレットにチケットの予約コードが転送されてきた。今から準備してギリギリだ。どうやら感傷に浸る時間すら与えないつもりらしい。
「……すまない、rain」
僕に彼の人生を掻き乱す権利なんてない。分不相応にもほどがある。
だから。
キャリーバッグに荷物を積み込む手を止めてスマホを操作し、彼の番号を着信拒否設定にした。
「僕のことは忘れてくれ」
天井のクロスが、涙で滲んだ。
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