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人魚の王子様
海の底にある大きな珊瑚の城。
暮らしているのは、俺の父である国王と、兄や姉が5人。そして、末っ子王子の俺だ。
今日は俺の、17歳の誕生日。
人魚の世界では17歳になると、海の上にある人間の世界に行くことが許されるようになる。
兄や姉から色んな話を聞いて育った俺は、この日をずっと待ち侘びていた。
早く人間の世界を見てみたい……!
はやる気持ちを抑えて、俺は海に差し込む月明かりを頼りに、海面を目指した。
海の上に顔を出すと、空には眩しいほど明るい月が浮かんでいた。
直に月を見るのは、これが初めてだ。周りに散らばる小さな光は、確か星だったはず。
話には聞いていたけれど、想像よりもずっと幻想的で美しい景色が、そこには広がっていた。
しばらく夜空に見惚れていた俺の耳に、風に乗って、微かな音楽が聞こえてきた。
少し先に、大きな船が浮かんでいる。音楽はその船から響いているらしい。
俺はそっと船に近づいて、ロープを伝い、こっそり甲板を覗き込んだ。海の上に行くことは許されているけれど、人間との接触は、父から固く禁じられている。
甲板には大勢の人間がいた。
陽気な音楽に合わせて踊っている者、歌を歌う者、食事をしながら笑う者……誰もがみんな、楽しそうだった。
そんな中、ひと際目を引く人間がいた。
すらりと背が高くて、鼻筋の通った顔。月明かりを反射する髪は綺麗なブロンドだ。
「王子も一緒に踊りましょう!」
王子と呼ばれた彼は、少し照れたように笑いながら、踊りの輪に加わった。
……彼が、人間の世界の王子……。
なんて優雅で、綺麗な人なんだろう。
思わず見惚れていた俺を、「嵐だ!!」と叫ぶ切羽詰まった声が、現実に引き戻した。
このあたりの海は荒れやすい。
突然天気が急変し、嵐に飲まれて沈んでしまった船を、海の中で何度も見たことがある。
さっきまでの和やかな空気が一変し、船の上は恐怖と緊張感に包まれていた。
一気に荒れだした波が、容赦なく王子たちの乗った船を揺らす。
ひと際高い波が甲板に乗り上げ、あっという間に王子を夜の海へと引きずり込んでしまった。
「王子!!」
咄嗟に叫んで、俺は大急ぎで王子の元まで泳ぎ、彼を近場の砂浜へ運んだ。
夜が明けて朝日が昇っても、王子はまだ目を覚まさない。
「王子……。俺の声が聞こえたら、目を開けて……!」
俺が必死に呼びかけても、王子が目覚める気配はない。
すると、遠くから人間の女性が歩いてくるのが見えた。俺は慌てて海へ飛び込み、近くの大岩の陰に身を隠した。
綺麗なドレスを纏ったその女性は、王子に気づくと血相を変えて駆け寄った。
「まあ、大変……! 大丈夫ですか!?」
「ん……キミは……?」
そこでようやく、王子が目を覚ました。女性がホッと息を吐く。
「ああ、良かった……! 気がついたんですね!」
「そうか……キミが、僕を助けてくれたんだね。ありがとう」
──違う、そうじゃない。
あなたを助けたのは俺だよ!
そう叫びたいのに、住む世界が違う俺には、それすらも叶わない。
女性と寄り添って歩き去る王子の後ろ姿を、俺はただ見つめることしかできなかった。
「……ここだ」
海の底の奥深く。
光も届かないほどの場所にひっそりと建つ、小さな家。
ここは、海の悪魔と呼ばれる魔法使いの住処だ。
強力な魔法を使う代わりに、大きな代償を求めてくるので、決して関わってはいけないと父から言われていた。
けれど、王子のことがどうしても忘れられない俺は、魔法使いに頼る以外、方法が思いつかなかった。
意を決して、俺は悪魔の棲む家の扉を叩いた。
「そろそろ来ると思ってたぜ、世間知らずの人魚くん」
俺を招き入れるなり、魔法使いは鋭い歯を覗かせてニヤリと笑った。
「どうして、俺が来ることを……?」
「俺を誰だと思ってる? この海一番の魔法使いだぞ? お前の目的なんざ、すべてお見通しだ」
大袈裟に両手を広げて見せた後、魔法使いは俺の目を見つめて言った。
「あの王子の元へ行きたいんだろう? そのために人間になりたくて、俺のところへ来た。……違うか?」
悔しいけれど、すべてその通りだった。
「アンタなら、俺を人間にすることもできる?」
「もちろん。そんなことは朝飯前だ。……だが、タダでとはいかない」
「……わかってる。何を差し出せばいい?」
「海の王子は話が早くて助かるな。──代償は、お前の魂だ」
「魂……?」
「俺の魔法で、お前を3日間だけ人間にしてやる。3日以内に王子と両想いになれれば、そのままお前は人間として、王子と幸せに暮らせる」
「……失敗したら?」
「その時は、お前の魂は永遠に俺のものだ」
魔法使いが、手の中の貝殻を容易く握りつぶした。3日後の俺の魂だとでも言うように。
「ああ、それからもう1つ。人間の足を与える代わりに、お前は声を失うことになる」
「そんな……! じゃあどうやって王子に想いを伝えればいいんだよ!?」
「それは自分で考えろ。この契約に乗るかどうかは、お前次第だ」
声が出せないんじゃ、想いを伝えるどころか、王子と言葉も交わせない。
だけど、人魚のままなら王子に会うことすら叶わない。
「……わかった。その条件で構わない」
「いいだろう。交渉成立だ」
意を決した俺の前で、魔法使いがひと際不気味に笑った。
気がつくと、俺は砂浜に倒れていた。
魔法使いと契約したあと、急に体が熱くなったところまでは覚えている。
……それから、どうなったんだっけ?
「……っ!?」
何とはなしに目を向けた自分の体を見て、俺は驚いた。
──足だ。
見慣れた尾ひれがなくなって、代わりに2本の足になっている。
「キミ! 大丈夫か!?」
突然声がして、振り向いた俺はさらに驚くことになった。
声の主は、会いたいと願い続けた王子だった。
「──っ!」
王子!、と叫ぼうとしたけれど、声は音にならなかった。足の代わりに、本当に声を奪われたらしい。
「寒かっただろう……怪我は?」
心配そうに俺を見つめながら、王子は躊躇いなく、自分の上着を俺の体に羽織らせてくれた。
大丈夫だと答えたいのに、声が出せない俺は、ただ黙って首を振ることしかできない。
そんな俺を見て、王子は気の毒そうに眉を下げた。
「もしかして、声が出せない? ……可哀想に、よほどひどい目に遭ったんだね。もう大丈夫だよ。城で、あたたかいスープでも飲もう」
2本足で歩くのに慣れない俺に、王子は優しく寄り添って、手を握ってくれた。
初めて触れた人間の手は、とてもあたたかかった。
俺を城へ連れていってくれた王子は、綺麗な服や豪勢な食事、おまけに立派な部屋まで与えてくれた。
「僕には兄弟がいないから、弟ができたみたいで嬉しいよ」
そう言って優しく微笑みながら、王子は本当の弟のように、俺を可愛がってくれた。
憧れていた人間の世界で、焦がれていた王子と過ごす時間は、何もかもが眩しく輝いて見えた。
──けれど、幸せは長くは続かなかった。
人間になって3日目の朝。
王子が綺麗に着飾った女性を連れてきた。その女性には見覚えがある。……溺れた王子を介抱した、あの人だ。
「キミには紹介しておこうと思って」
少し気恥ずかしそうに、王子が女性の手を握って言った。
「僕たち、もうすぐ結婚するんだ。彼女は、海で溺れた僕を助けてくれた恩人なんだよ」
……違うよ。
あなたを助けたのはその人じゃない。
俺はあなたに会いたくて、その一心で人間になったんだよ。
どんなに心の中で訴えても、俺の言葉は王子には届かない。
目の前にいるのに、想いを伝えることすらできない。もどかしさで胸が痛む感覚を、初めて知った。
「調子はどうだ? 人間になった人魚の王子様」
海に沈んでいく夕日を1人でぼんやりと見つめていたら、海面から声がした。
真っ赤な夕日を背に、魔法使いがニヤニヤと笑っている。
どうだと言われても、声を奪われた俺に、答えられるわけがない。きっとすべてわかった上で、訊いているんだろうと思った。
「いよいよ3日目の日没だ。お前に残された時間はもうあとわずか。なのに肝心の王子様は、婚約者のことしか頭にないときた」
「……っ」
さすがに腹が立ったけれど、反論もできない。言葉の代わりに、俺はそばに落ちていた小石を魔法使いに向かって投げつけた。
「おいおい、荒っぽいな。育ちを疑われるぞ?」
飛んできた小石を難なくかわして、魔法使いは大げさに肩を竦めて見せる。
「そう怒るなよ。お前があまりにも憐れだから、いいものを持ってきてやったんだ」
そう言って、魔法使いは銀色の短剣を差し出した。
「……?」
訝しむ俺に無理やり短剣を握らせて、魔法使いが唇を歪める。
「この短剣で、王子の胸を刺せ」
「──っ!」
そんなこと、できるわけがない。さすがに俺は大きく首を横に振った。
「王子を殺せば、今回の契約はチャラだ。お前は人魚に戻って、これまでどおり、海の王子として幸せに暮らせる。もちろん声も元通りだ。悪い話じゃないだろう?」
「……」
「どのみち、お前にはもう後がない。短い時間でせいぜい悩め」
クククッ、と喉の奥で愉しげに笑って、魔法使いは海の中へと姿を消した。
日が沈み、月が浮かぶ夜がきた。
もうすぐ約束の3日目が終わってしまう。
俺は短剣を胸に、王子の寝室に忍び込んでいた。
月の明かりが優しく差し込む部屋の中で、王子は俺に気づくことなく眠っている。
夢の中でも、愛する婚約者と過ごしているんだろう。穏やかな寝顔が、それを物語っているようだった。
通った鼻筋に、綺麗なブロンド。初めて王子を見た夜を思い出す。
どんなに願っても、俺の想いが王子に届くことはない。
ならいっそ、魔法使いにそそのかされたとおり、この短剣を王子の胸に突き立ててしまおうか?
震える手で握った短剣を振り上げたけれど、落ちるのは涙ばかりだった。
使えなかった短剣を、夜の海に投げ捨てた直後。
「お優しい人魚さまは、王子の幸せを選んだわけか。お前ならそうするだろうと思ったよ。どこまでも、甘くて愚かなヤツだ」
暗い海から、魔法使いが姿を見せた。
悔しいことに、どこまでも魔法使いの言うとおりだ。
俺は甘くて愚かで……けれど、そんな自分が嫌いじゃない。
こんなに胸を痛めるのは、俺1人で充分だ。
覚悟を決めた俺に、魔法使いが静かに告げた。
「──タイムリミットだ。残念だったな、人魚の王子様」
「ん……っ!?」
自分の身に何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
タイムリミットを告げられた俺は、魔法使いに海の中へ引きずり込まれた。
口を塞がれて、いよいよ声だけじゃなく命も奪われるんだと思ったら、なぜか目の前に魔法使いの顔がある。
ずいぶん時間が経ってから、俺の口を塞いでいるのが、魔法使いの唇だということに気がついた。誰かにキスされるのなんて初めてで、カッと耳が熱くなる。
「な……何するんだよ!?」
何がなんだかわからず、混乱する頭でどうにか目の前の体を押し返した。
……あれ? 声が出た。しかも、海の中で。
ふと見ると、2本の足も元の尾ひれに戻っている。
「契約どおり、お前の魂は俺が貰う」
呆然とする俺を見つめて、魔法使いが言った。
「でも……声も体も、元に戻ってる。それに何より、俺は死んでないけど……?」
「人間になる魔法が解ければ、声も戻る。だいたい、誰が命を貰うと言った? 人間の王子なんぞにくれてやる義理はないから、お前の魂は代わりに俺が貰うと言ったんだ」
「え……? 魂って、もしかして俺の心って意味だったの?」
……それじゃあ俺から奪ったものは、実質キスだけじゃないか……。
そもそも魔法使いが俺の心を求める理由もわからない。
「……どうして、俺の願いを聞いてくれたの」
「世間知らずのお前に、現実を教えてやるためだ。自分の命を救った恩人すら見抜けない、あんな間抜けな王子に惚れるなんざ、見る目がないにも程がある。……俺が何年、お前を見てきたと思ってる?」
「え?」
初めて聞く優しい声音に、思わず胸が大きく鳴った。
「いつも迷子になるくせに、すぐに城を抜け出しては、羨ましそうに海面を見上げて……。同じ海にいる俺に、お前は見向きもしなかった」
少し寂しそうに、魔法使いが笑う。その姿が、王子に想いを告げられなかった俺自身と重なって見えた。
「……アンタも、胸が痛かった?」
「さあな。もうすっかり慣れちまってわからない」
ヒョイと肩を竦める魔法使いの腕に、俺はそっと手を伸ばした。海の中だけれど、その手はちゃんとあたたかい。
「俺の願いを叶えてくれて、ありがとう」
「海での暮らしの良さが、身に染みてわかっただろ」
「それだけじゃない。アンタが悪魔なんかじゃないことも、わかったよ」
一瞬目を丸くした魔法使いが、苦い顔でため息を零した。
「やれやれ……俺も大概、甘くて愚かだ」
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