マッチ売りの火は消えない

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マッチ売りの火は消えない

「マッチはいかがですか?」  細かい雪が降る石畳の大通り。  白い息といっしょに声を出す俺の前を、大勢の人が見向きもしないで素通りしていく。  仕方ないことだ。  この街の人たちは、マッチも俺も、べつに必要としていない。  それでも俺は、カゴの中のマッチをどうにかして売らなくちゃいけない。そうでなければ食べていけないからだ。  街のみんなにマッチは必要なくても、スラム街育ちの俺には、このマッチの売り上げがすべてだった。  近くの酒場から、1人の男が出てきた。  赤ら顔に、フラフラと危なっかしい足取り。完全に酔っ払っている。  樽みたいに太った体を揺らしながら歩く男に、俺はすかさず駆け寄った。酒に酔った人間は、金を落としてくれることが多い。 「あの、マッチはいかがですか?」 「……ああ? マッチだぁ? 要らねえ要らねえ、そんなもん! 葉巻も吸いつくししまって、火ぃ点ける用事なんかねえんだ!」  男が顔の前で大きく手を振る。ひどい酒の臭いで顔が歪みそうになるのを、必死に我慢した。 「それが、このマッチはただ火を点けるだけじゃないんです!」 「……なに? どういうことだ?」  俺は踵を浮かせて男の耳元に少し顔を寄せて言った。 「……このマッチは、なんでも願いを叶えてくれるんです。願い事をして火を点けると、消えるまでの間、どんな願いも叶う魔法のマッチなんです!」 「魔法のマッチだと?」  男の眉がピクッと反応した。──食いついた!  もちろん、魔法なんていうのは大嘘だ。  このマッチには、強い幻覚作用のある毒草が使われている。火を点ければその毒草の効果で幻覚が見えるだけで、実際には願い事なんて叶わない。  役人に見つかればタダでは済まないけれど、それでも俺は、嘘を重ねてマッチを売るしかない。 「じゃあなにか? 綺麗な姉ちゃんたちに囲まれたいって願いながら火を点けたら……」 「もちろん叶います。火が消えるまで、大勢の美女とどんなことでも愉しめます」 「どんなことでも……! いいぞ、坊主! そのマッチを買ってやろう!」 「ありがとうございます!」  男がポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出す。それを受け取れば、今日も食事にありつける! ──そう思ったとき。 「おい、そこの2人。ここで何をしている?」  驚いて振り向いた先に、警官が立っていた。  ……まずい!  俺は咄嗟にマッチのカゴを背中に隠して、男から距離を取った。 「何って、俺はただマッチを──」 「何でもありません。このおじさんが紙幣を落としたので、拾って渡したところです」  男の言葉を遮って、年相応に笑って見せる。心の中では、思いきり舌打ちをした。 「それじゃ、俺はもう行きますね」 「あっ、おい待てよ! マッチは……俺の美女はどうなる!?」  男の叫びを背中に受けながら、俺は急いでその場から逃げ出した。  ガツッと頬を殴られた衝撃で、俺は傍のテーブルごと床にひっくり返った。口の中に血の味がじわりと広がる。  この痛みにも、もうすっかり慣れてしまった自分が嫌になる。 「マッチひと箱も売れねえのかよ。どこまで使えねえガキなんだ、お前は」  俺を殴って、唾と一緒にそう吐き捨てたのは、スラム街を仕切っているボスだ。 「……警官がいたから。せめてもう、こんな危険なマッチを売るのはやめた方が……!」 「だったら代わりに身売りでもして稼ぐのか?」 「それは……っ」  答えに詰まった俺を見下ろして、ボスが鼻で笑った。 「文句なら、お前に借金だけ遺して逝っちまった両親に言えよ。分かったら今夜中に、そのマッチを全部捌いて来い。それまで飯は抜きだ」  床に散らばったマッチの箱を見て、俺は悔しさを噛み締めることしかできなかった。  マッチを捌けと言われても、大通りだとまた警官に出くわす可能性がある。  かと言って、裏通りは人通りが少ないし……。  俺が途方に暮れていると、 「あの……すみません」 「うわっ!」  突然背後から声を掛けられて、思わず声が出てしまった。  また警官だったらどう言い訳しようかと思ったけれど、声の主は背の高い男だった。  といっても、頭まですっぽりとフードを被っていて、顔はよくわからない。ただ声と体つきから、若い男だということはわかった。 「道をお訊ねしたいんですが。慣れないもので、迷ってしまって……」  少し困ったように男が言う。  旅人か行商人あたりだろうか。どちらにせよ、よりによってこんなスラム街で迷子になるなって、ツイてない。  ついでに今の俺に声を掛けるなんて、もっとツイてない。俺はこの男に、マッチを売りつけなきゃいけないんだから。 「道を教える代わりに、ここにあるマッチを買ってくれない?」 「マッチ……?」  フード越しに、男が怪訝そうに首を傾げる。 「ただのマッチじゃないよ。願い事が叶う、夢のような魔法のマッチ」 「そんなものがこの街にはあるの?」 「ここでしか買えないんだ。願い事をして火を点ければ、消えるまでどんな願いも叶えてくれる。例えばそうだな……この国の王子になってみたいって願ったら、マッチの火が消えるまで、アンタは王子様になれるってワケ」 「なるほど……確かに不思議なマッチだけど、僕はその願い事には魅力を感じないな」  勝手に頼りない印象を持っていた男から、ハッキリと否定の言葉が返ってきて、俺は思わず面食らった。  だけど俺だって、あっさり引き下がるわけにもいかない。 「だったら、別の願い事でもいいよ。豪華な料理が食べたいとか、上質な服が欲しいとか……」 「でも、マッチの火が消えるまでなんだろう? そのマッチのからくりはわからないけれど、キミはそんなひとときの幻を、本当に欲しいと思う?」 「それは……」  痛いところを突かれて、返す言葉が見つからなかった。  俺が売っているのは、魔法でもなんでもない。ただの虚しい幻だ。 「……でも、売らなきゃ俺は生きていけない。このスラムにしか、俺の居場所はもうないから……」 「なるほど……キミにも事情があるんだね」  俯いた俺の頬に、男の手がそっと触れた。ボスに殴られた場所で、きっと醜い痣になっている。  なんとなく見られたくなくて顔を背けた俺に、彼が言った。 「だったら、そのカゴのマッチをすべて貰おう」 「え……? いや、さすがに全部は……。売りつけた俺が言うのもおかしいけど、このマッチ、普通よりかなり高いから……」 「構わないよ。その代わり、僕の話し相手になってくれない?」 「え……?」  ポカンと俺が見上げた先で、男が少しだけフードをずらした。  月明かりを反射する綺麗な金髪と、宝石みたいなエメラルドグリーンの瞳がとても綺麗で、俺は思わず見入ってしまった。 「友達がいない城の暮らしは、とても退屈なんだ。王子っていうのも、いいことばかりじゃないよ」 「城……? 王子……!? アンタ、まさか……!」  驚きと興奮で次第に声が大きくなる俺の口許に、彼は綺麗な人差し指を「しっ」と宛がった。ふわりと、上品ないい匂いがする。 「お忍びだから、秘密にして?」  もはやまともに返事もできず、コクコクと俺は黙って何度も頷いた。 「全部のマッチが消えるまでなら、時間もたっぷりあるだろう? 僕の城で、温かい紅茶でもいかがかな。ついでに傷の手当てと、食事も用意しよう」 「で、でも……それじゃ、俺の願いを叶えることになる。それに、そのマッチには幻覚作用が──」  うっかり口を滑らせた俺は慌てて口を噤んだけれど、彼は特別驚いた様子を見せなかった。マッチのからくりには、とっくに気づいていたのかもしれない。 「だったら、時間は無制限ってことでいいのかな? マッチは買ったし、僕はキミと話ができればそれでいい。どう? 叶えてくれる?」  差し出された手を、返事の代わりに握り返す。  その手は彼の口調と同じようにあたたかくて、冷えた体にじんわりと温もりを伝えてくれた。  俺はもう、すぐに消えるマッチは売らない。  消えない幸せに、出会うことができたから。
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