アオノヒカリ

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 光咲はオレンジジュースを飲みながら、しばらく上を向いていた。とにかく涙を止めて、落ち着かなければ。目を瞑って深呼吸する。徐々に高ぶっていた気持ちが収まってくる。心春はアンケートに記入しつつも、光咲の様子を伺っているようだった。 「大丈夫? ……音楽、合わなかった?」 「ごめん、違うの。なんていうか……自分でもよくわかんないんだけど、色んな気持ちが溢れちゃった。すごいね、蒼。すごく良かった」  そう言うと、心春はぱっと明るい表情になって「だよね?」と嬉しそうに笑った。  そっか、そっちかー! と心春は嬉しそうに言って、良かったら光咲もアンケート書いてよ、貰ってくるね、と再び物販のほうへ歩いて行く。アンケート、この感情を一体どうやって文字にすればいいのだろう、と思いつつ、どうにか少しでも伝えたいという気持ちもあった。  心春がアンケートとペンを差し出してくれたので、オレンジジュースを一旦テーブルに置いて、アンケート用紙に向かう。何曲目が良かったとか、そういうことはよくわからないけれど、とにかく感情が揺さぶられた。あんなことは初めてだった。それだけ伝えようと文字にした。とにかく、ヴォーカルの声にとても惹かれた、と。  書き終わったところを心春が確認し、「じゃあ私に行こう」と光咲を促す。 「あ、今メンバーも出てきたよ、ちょうどいいから直接渡そう」 「え? メンバー?」  心春が指した物販スペースに、確かに先ほどステージにいた二人が立っていた。ヴォーカルと、たぶんギターの人。ステージに立っていた人が出てくるとは思っていなかった光咲は心底驚いてしまう。 「こういう小さいライブハウスは普通に話とかもできることが多いんだよ。距離が近いのも魅力の一つ。ほら、行こう」  促されて、光咲はゆっくりと松葉杖を前に出す。カツン、カツン、という音を立てて、物販の机へ近づく。 「アンケート書きましたー」  心春が二人に声を掛ける。 「おお、心春ちゃん、いつもありがとうー」  二人は心春のことを認識してるようで、笑顔で受け取っている。  ヴォーカルのほうが、一歩下がっている光咲に気が付く。 「あ、ねえ、さっき泣いてなかった? 大丈夫?」  ヴォーカルに心配そうな表情で声を掛けられて、まさか見られているとは思わなかった光咲は固まってしまう。  ステージは明るく客席側は暗かったため、見えてるとは思わなかった。 「この子は光咲ちゃん。感動して泣いちゃったみたいだよ」 「え、それは嬉しいけど、ほんと? 足が痛いとかじゃなく?」 「色々思い出しちゃったんだよきっと。ね。光咲は、天才セッターだから」 「心春っ」  泣き顔を見られて恥ずかしいという気持ちが、一気に冷める。それは、口にしてほしくない言葉だった。 「え、ごめん、ダメだった?」  慌てて謝る心春に、光咲は下を向く。落ち着くように深呼吸して、「ごめん、大丈夫」となんとか答える。そしてそっとアンケートを差し出す。 「アンケートありがとう。……天才セッターって、バレーボール?」 「そう、光咲は日本代表にも選ばれてるすごいセッターなんですよ!」  心春が、自分のことのように嬉しそうに話している。悪気はきっとないのだろう。だけどその言葉が、光咲の心にとげを刺していくようだった。 「……違うよ。もう、違うから……」 「光咲?」 「もうバレーはやめるの。だからもう過去の話」 「え、嘘でしょ? リハビリして復帰するんじゃ……」 「無理。私にはもう無理なんだ……そう、だから、なんか曲を聴いてたらそういう感情がぶわーって、溢れちゃったんです。……声が、すごく心に響いて」  途中で、なにをこんなところで自分の話をしているんだと気づいて、無理やりバンドの話につなげた。バンドのメンバーに自分語りみたいなことをしてしまったことを恥じる。心春も気づいたみたいで、「あ、ごめんなさい」と物販にいたメンバーに謝る。 「そっか……俺にはわかんないくらい辛いことなんだろうけど、そう言ってもらえて嬉しいよ。良かったらまた来て。待ってるから」  ヴォーカルの人がそう言って終わらせてくれたから、光咲は「はい、また来ます」と言って松葉杖を動かして、背を向ける。心春も「また来ますー」と声を掛けて光咲を追って来ていた。  ステージでは四組目が始まっているようで、音が漏れている。特に低音が響いてくる。やはりこの音を体で感じるのは心地がいい。 「心春、今日は連れて来てくれてありがとう。私、ライブハウス好きかも」 「……ほんと? 良かった。じゃあ、また誘ってもいい? また『蒼』聴きに来ようよ」 「うん、また来たい」  心春は、バレーをやめると言った光咲の言葉にまだ動揺しているのか、少し戸惑ったような、どう気を使っていいかわからないような、そんな表情をしていた。でも、なぜ辞めるのかとは聞いてこなかった。心春なりの気遣いなのだろう、今の光咲にはそれがありがたかった。
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