アオノヒカリ

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 *  光咲は、「天才セッター」だった。  バレーを始めたのは小学校四年生の時。身長があまり高くなかった光咲は、最初からセッターと言うポジションを指名された。これが光咲には合っていたのか、セッターは楽しかった。自分で点を取ることはほとんどないが、いつ、どこで点を取るのか決めてアタッカーに託すことができる。最初の内は、上手に上げることで精いっぱいだったが、年齢が上がるにつれて攻撃パターンも増え、色々な攻撃を繰り出す、その中心となるこのポジションは、光咲には楽しくて仕方がなかった。  そう思いながらひたすら先生の指示を受けてこなしていると、中学時代から選抜に選ばれるようになった。いつの間にか、その地域でバレーをやってる人の中では少しだけ有名だった。中学時代の顧問であり監督の先生は、「将来代表に入れる逸材だ」と言ってはばからなかった。  いつの間にか、光咲自身も「いつかは代表に」と当たり前のように考えるようになっていた。ただ、光咲は中学卒業時の身長が167センチで、通常の女性であれば高い方ではあるが、バレー選手の中では高くはない。学生バレーでは通用するだろうが、Vリーガー、ひいては代表の選手に、と考えると不利だった。セッターはアタックは打たなくてもいいが、ブロックはする。どうしても身長は、低いより高いほうがいいとされる。だから、光咲は人一倍努力した。パス力とハンドリング。サーブとレシーブ。ジャンプ力もつける努力をしてきた。この身長でできる限りのことをしようと決めた。  昔、長く日本代表を務めたセッターは光咲より身長が低かった。何度も何度もその選手のプレーを録画して見ていた。身長が人より低くてもできることはいくらでもあると、その選手は光咲に教えてくれるようだった。  今後日本のトッププレーヤーが求めるトスは、「どこからでも選択肢が増やせるセッター」だと思った。だから、そこを誰よりもできるよう、毎日毎日練習した。部活中はもちろん、家でもできることをした。その結果、「レシーブが乱れても正確なトスが出せる中学生がいる」と注目されるようになったのだ。  高校は、春高の常連校に入った。スポーツ推薦だった。その進学先も、ネットのニュースに掲載された。  光咲は一年生ながら、チームの正セッターとなった。その年、三年生が残っているチームを春高へと導いた。春高はベスト四という成績だった。日本代表に選出されて、よりレベルの高いチームでの経験と、世界の高さを知った。翌年、二年生になった光咲は、当然のように正セッターとして、国体、インターハイ、春高、全ての大会で全国大会へ出場。最高成績は前年と同じ春高のベスト四。その結果、光咲は「日本代表」に召集を受けた。ユースではなく、シニアの方だった。ついに代表か、と高校全体がざわめいていた。目標としていた日本代表の選出。より高いレベルの練習や試合を経験できる。光咲には、楽しみという感情しかなかった。   ――事故は、その矢先のことだった。  スポーツに怪我は付き物だ。だからこそ、出来る限り身体のケアをしながら練習を重ねる。代表に召集があり、高校の部でも自分たちの時代が来る。顧問からも「怪我だけは気をつけろよ」と口癖のように言われていた。そんなことはわかっていた。  だけど、いったいどうやって歩道に突っ込んでくる車を予測しろというのだろう。  怪我が治る見込みは、プレーヤーとして以前のように動けるようになるまで一年ほどはかかるだろうと言われた。二年の終わりに事故に遭った光咲にとって、それはもう、「高校のバレー生活は終わった」と告げられたようなものだった。  絶望する光咲とは真逆に、「命が助かってよかったね」とみんなは口を揃えて言う。  どこがだ。叫び出したくなるのを必死で堪えた。  小学校四年生の頃からバレーしかしてこなかった。中学生からは、まともな休みもほとんどなかった。確実に休めたのはお正月とお盆くらいだ。進路、将来の夢、そんなの、当たり前のようにバレーしか考えられなかった。  そんな自分からバレーを奪うなら、いっそ命まで奪ったらよかったのに。  そう思わずにいられない時もあった。口にすると母親が泣くから、言わなかったけれど。  松葉杖で歩けるようになるまで一ヶ月、ただただ苦痛のリハビリが続いた。どんなにこれを頑張っても、もう高校生のうちにバレーをすることなんて適わないのに。そう思うと空しくて、痛みがただ苦痛でしかなかった。なにを目標に、痛みに耐えて頑張ればいいのかわからなかった。ただ、言われるままに、歩けなくならないように、激痛に耐え続けた。
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