第6話 失望して

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第6話 失望して

 私はどうしても見たことを信じたくなかった。  あれは夫によく似た別人だったのではなかったのだろうか。  きっと、見間違いだったんだ。  家族思いの夫が私や莉緒を裏切るはずがない。  夫は出張に行っている。あんなところにいるはずがない。  私はそう思い込もうとした。  だが、気持ちはずっとモヤモヤしたまま。  どうしても確かめたい。  夫の会社に電話しようと思いたった。  途中の駅で降り、スマホを取り出して電話帳から以前の勤め先を選択する。  呼び出し音が鳴った。  心臓がバクバクしてくる。 「はい。〇〇ですが」  社名を言う交換の女性の声がした。 「営業部の柳井様をお願いします」 「営業部の柳井ですね。しばらくお待ちください」  ピアノの優しいメロディがしばらく流れて、「営業部です」という声が聞こえた。 「わたくし、柳井様の加入されている保険会社のものですが、契約のことで確認したいことがございまして、お電話を差し上げたのですが。柳井様はいらっしゃいますか」  妻だと下手に名乗ると、あとでどんな噂が立つかわからない。   私も勤めていた会社なので電話を切ったあとの様子はだいたい想像ができる。  当たり障りのない保険会社を装った。 「今日は休暇ですね」 「出張に行かれるようなことも聞いていたのですが、休暇ですか?」  夫は明日まで出張だと私に言っていた。電話に出た人の勘違いなのではないか。 「出張は昨日までです。今日と明日は休暇です」 「そうですか」  お礼の言葉も言わずに電話を切ってしまった。  夫は言っていたよりも早く出張から帰ってきている。  だが、家にはまだ帰ってきていない。  ひょっとしたら、家に帰っているかもしれない。一縷の望みにかけて、家に電話してみる。呼び出し音は鳴るが、やはり誰も出ない。  夫のスマホにも電話したが、出なかった。  会社の人が嘘をついているとは思わない。嘘をついてもなんの得にもならないのだから。  嘘をついているのは夫だ。  やっぱり、ホテルにいたのは夫だったんだと思い知らされた。  不思議と怒りの感情は湧いてこない。ただ悲しいだけ。  私は夫だけを愛しているし、信じてもいる。  夫も私だけを愛してくれていると思っていた。  セックスがないのも本当に疲れいるからだと信じていた。  夫は絶対に浮気をしない。そう信じていたから我慢もできた。  でも、夫はずっと私を裏切っていた。表向きはいい夫を演じながら、私を欺いていたのだ。  きっと、鈍い女だと私のことを陰で笑っていたんだろう。 「愛している」「君が一番大切だ」とか言っていたのも全部いつわり。  私のことをもう愛していないんだ。  もう妻ではなく無料の家政婦ぐらいにしか私のことを思っていないのだろう。  きっと、私は夫に捨てられる。それも遠い未来の話ではないだろう。明日にでも離婚を切り出されるかもしれない。  そんなことは絶対いやだ。  夫が浮気をしていると分かってもまだ愛している。  でも、きっと私はどうすることもできないだろう。  どんなに私が泣き叫んでも夫は私と別れるだろう。  どうしても悪いほう悪いほうへと考えてしまう。  そんなことばかり考えているうちに、だんだんと生きる気力がなくなってきた。  目の前には電車が走っている。  飛び込んで死のう。  夫はどんな顔をするんだろう。 「いい妻でした」と、嘘泣きをしながら言うのだろう。そして、しばらくしたら、麻衣さんと結婚するんだ。  麻衣さんは3年前にご主人を亡くしている。  今は未亡人だ。  夫と再婚しようと思えばできる。  でも、いつから麻衣さんと夫は付き合っていたんだろうか。  どこで知り合ったんだろう。  どれくらいの頻度で会っていたのか。  そんなことはもうどうでもいいか。そんなことを知ったからといってなんになる。  もう私は死ぬんだ。  電車が来たら飛び込もう。  ちょうど通過電車の近づいてくるアナウンスが流れた。  私はホームの端に寄っていく。  そのとき、小さな女の子が走ってきた。 「りお、危ない。走ったらダメ」  女の人の声がした。  その声に私はハッとする。  私とホームの端との間ギリギリのところをその子は駆け抜けていく。  直後、電車が私の前を通過した。 「みお、いい加減にしなさい。危ないでしょう。落ちたらどうするの」  女の人はその女の子を捕まえて怒っていた。  どうやら、その子の名前は『りお』ではなく『みお』だったようだ。  私の聞き間違い。  きっと莉緒のことが頭のどこかにあったのだろう。  そうだ。私には莉緒がいる。  大きくなったが、まだまだ子ども。昨日の夜も私にしがみついて寝ていた。  たとえ夫に捨てられても、莉緒は私を見捨てないはずだ。  莉緒には私がまだ必要なはずだ。必要と思ってくれている人がいる限り死ぬない。  私は来た電車に乗った。  最寄りの駅で電車を降りたが、気持ちは沈んだまま。  食事を作る気力も湧かず、スーパーに行き、出来合いのものを買おうと思い商品を手に取るが、夫と麻衣さんのことが気になって、全然決まらない。  大人同士なんだから、ホテルの部屋ですることは決まっている。  二人がベッドの上で抱き合って愛し合っている姿が頭に浮かぶ。まるでその場に二人がいるかのように声まで聞こえてくる。  手にした商品が目に入ってこない。ただ、取っては棚に返すということを繰り返していた。 「ずいぶん悩んでるじゃない」  横に誰かが立った。 「ナオミさん」  ナオミさんの顔を見たとたんなぜだか分からないが、目から涙がこぼれ落ちた。 「どうしたの? なにかあったの?」  ナオミさんが驚いたように私の肩を掴んだ。  どうして涙が出るのか分からない。でも、止めようと思っても次々と溢れてきて止まらない。私は下を向いて頭を横に振ることしかできなかった。  私の涙でリノリウムの床が濡れていく。  買い物客が立ち止まってこちらを見ている気配がした。好奇心に満ちた視線が体中に痛いほど突き刺さってくる。 「出ましょう」  ナオミさんが腕を掴んで出口に向かって歩きだした。私は顔を伏せ、ときどきグスグスと鼻をすすりながら、引っ張られるままついていく。  ナオミさんは私が持っていたカゴを引ったくるように取り、なにも入っていない自分のカゴと重ねて出口のところにある所定の場所に置いた。 「とりあえず家に来て。話を聞くわ」  スーパーを出るとナオミさんは言った。心配させたみたいだ。 「でも、莉緒が……」  もうそろそろ莉緒が帰ってくる時間だ。私が帰っていないと、鍵を持たしていない莉緒は家の中に入ることができない。 「大丈夫。きっと、途中で会うから」  ナオミさんの言うとおりだった。  腕を取られてナオミさんの家に向かっていると、帰宅途中の莉緒たちと出会った。 「ママ」  エリちゃんが私たちを見つけて駆けてくる。その後ろには莉緒やフウちゃん、マコちゃんもいる。  泣いている顔を娘に見せるわけにいかない。  私は手の甲で涙を拭いて、顔を上げた。 「買い物の帰り?」 「そう」  ナオミさんが前に立ったエリちゃんに微笑んだ。 「ママ……。目が赤い」  走ってきた莉緒が私の顔を見て固まった。 「莉緒ちゃんのママ、転んじゃったの。今日は夕ご飯作れないみたいだから、うちで一緒に食べようか」  ナオミさんが莉緒に言った。 「痛い?」  莉緒が心配そうに言う。 「うん。ごめんね。大人なのにおかしいよね」  ナオミさんの話に合わせて、痛くもない膝を擦ってみせた。莉緒もかがんで(さす)ってくれる。 「もういいよ。行こう」  後ろめたくなって莉緒の手を取り、繋いで歩いた。  前には、ナオミさん親子が歩き、後ろにはフウちゃんとマコちゃんがついてくる。  ときどき、莉緒は振り返ってフウちゃんやマコちゃんと話しながら歩く。  私はなるべくフウちゃんを見ないようにした。フウちゃんは親子だから当然かもしれないが、麻衣さんによく似ている。もし、フウちゃんのほうを見たら睨んでしまうかもしれない。 「じゃあね。また明日」  ナオミさんの家の前で、莉緒がフウちゃんたちに手を振った。エリちゃんも手を振っている。  二人が見えなくなると、私たちはナオミさんたちの後に続いて家の中に入っていった。
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