右近

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右近

忘らるる 身をば思はず ちかひてし…。 ***  まさか、そんなわけないよね。  入間愛子は、菊田明世という女性市議会議員が昨晩遅くに交通事故で亡くなったという記事を読み、少しその手が震えた。  菊田は、学校内の虐めは虐められる側にも責任があると発言し、市民から酷く反感を買っていた。  愛子は、ママ友たちの間でも噂になっていた菊田に自分自身も反感を持っていたし、数年前に菊田の娘と自分の娘の間で起きたことも相まって、ママ友との井戸端会議のときに、つい軽い気持ちで、死んだって構わないよねなどと発言してしまっていた。 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるか  おどろおどろしいこの和歌は百人一首の一つ。右近という女官が書いたもの。  神に誓った私との愛を破ったことで、あなたに神罰が下って亡くなってしまうのは惜しいものよ…恋人の裏切りに対する痛烈な皮肉を込めた歌。  だからと言って、本当に亡くなるなんて。愛子は鞄の中のカードケースに入れてあった一枚の絵札を見た。表には右近の美しい絵が書かれていたがかなり擦り切れている。裏には清月と記名が書いてあった。 ***  その神社は願いを叶えてくれる。そんな噂があった。    入間心見は、昔母の愛子からその噂を聞いた。  心見はもともと口数が少ない子だった。そのため、小さな時から友達があまりできなかったので、よく一人で遊んでいた。  近所に健太という同じ年の少年がいて、公園で一緒になったりすることが多かったが、特に話すでもなく、一緒に遊ぶこともなかった。    ある時心見は、母に連れられ近所の山岡神社を訪れた。その神社は昔からあるようで、雨の日には雨蛙が多く出ることから、別名"雨蛙"神社とも呼ばれていた。境内に入る鳥居をくぐると不思議とひんやりとした温度になり、まるで空気が変わったように感じさせた。 「この神社はね、お母さんの味方なの。だから心見も何かあったらここで願いを祈るといいよ。きっと叶えてくれるから。お母さんもたまに願うことがあるんだから」  母はあの時そう言っていた気がする。大人になっても祈るものなんだと心見は思った。  母は少々内気なところがある。信心深いのも無理ないのかもしれない。自分も世間では大人しいと良く言われる。  この神社を初めて訪れたとき、心見は、自分がこの神社にその後良く来ることになるとは思っていなかった。  やがて心見は小学校に上がったが、やはり一人になることが多かった。そして、そのこと自体はあまり気にならなかった。  しかし、ある時クラスのみんなが自分をあまりよく思っていないことに気がついた。ただ、昔から似たような状況はあったし、気にしないふりをしていた。その頃から、学校が終わるとなんとなしに神社に寄ることが増えていった。それは昔神社は私の味方だってお母さんが言ったからだった。神社のひんやりとした空気も、自分が神聖なものになるような気がして好きだった。  境内には初老の神主が良く歩いていて、心見は話し相手になってもらっていた。勿論子供の頃のこと、他愛もない話だ。そしていつしか、悩みがある度に境内に行き、神主に話を聞いてもらっていた。  ある時、友達からたわいもないことで仲間はずれにされたことがあった。  幼馴染の健太は、当時クラスの中で一番カッコイイと言われていて、体育の授業でドッジボールをやった時に、心見を庇ってボールに当たり、その場にしゃがみ込んだ心見に手を差し伸べて立たせてくれたことがあった。  次の日から、何かと健太は心見に話しかけるようになり、なんとなくいい感じになったことがあった。とはいえ所詮小学二年生。それ以上でもそれ以下でもなかった。  しかし、クラスの女子の中では大したことではなかった。  彼が話しかけることが多くなるたびに、女子たちはあからさまに心見を無視するようになっていった。  その数が一人、また一人と増え、ついにほぼクラス中が心見を無視するようになった。  なんとなく原因には気づいていた心見だったが、自分は何も悪いことをしたわけではなく、そもそもどうしたらその状況が打開できるかわからなかったため、特に何も行動せず、しばらく一人になる日々が続いた。  そして、神社に行く日がますます増えていった。  神主もなんとなく様子がおかしいことに気づいていたのだろう。ある日、いつものように境内のベンチに座っていると、神主が心見に声を掛けてきた。 「何かあったかな。最近落ち込んでいるようだ」 「べつに…」 「そうか…言いたくなければ大丈夫だよ」  神主は心見の隣に腰掛けた。  暫く沈黙が続いた。  心見は暫くしてポツポツと最近の学校の状況を話し始めた。 「そうか。それは辛かったね」  神主は優しい笑顔で心見を見つめた。  心見はその一言で、ポロポロと涙をこぼし、そして堰を切ったように泣いた。  神主はずっとそばにいてくれて、頭を撫でてくれた。  心見が泣き止んだ時、神主は言った。 「こっちへおいで。特別に社殿の中を見せてあげよう。むかし君のお母さんにも見せたことがあるんだよ」  神主はベンチから立ち上がり心見の手を優しく引いて社殿に導いた。社殿の縁側で雨蛙が一匹飛び跳ねるのが見えた。  初めて上がる社殿は、外観と異なりとても豪奢な造りになっていた。そして、天井に何枚もの百人一首が美しく描かれていた。 「これは昔ある有名な絵師が百人一首を描いたもので、かなり古いんだけどね、この神社の守護してくれているんだ。綺麗でしょ」  心見はこくこくと頷きながら天井に見惚れた。 「どれか気に入ったものはあるかな?」  神主さんから尋ねられ、心見はその時目についた右近の一枚を指差した。 「右近か。ほうほう、やはり君もそれが好きか。では、これをあげよう。負けても負けないお守りだよ。嫌なことがあったらこれに触れて思いを伝えるといい。きっと君を守ってくれるはずだから」  神主は心見に右近の絵と和歌が書かれた百人一首の一枚を手渡した。  それは天井に描かれた絵と同じでとても綺麗な札だった。裏に清志と記名が書いてある。心見はそれをポケットにしまい、神主にお礼を言って神社を後にした。  翌日以降も例によってクラスの女子からの無視は続いた。  その一週間後、学校に登校すると上履きが無くなっていた。おそらく誰かが隠したのだ。仕方なくありそうなところを探していると、ヒソヒソ声が聞こえてきた。 「むかつくわね。このまま帰ればいいのに」  クラスで一番可愛いと言われていた菊田美智子の声だった。主犯がわかった気がした。きっとみんな彼女に逆らえないのだろう。  心見はポケットに入れていた右近の札に触れ、心の中で唱えた。 「右近さん、私を守って。そして悪いことをするあの子を遠ざけて」  祈るとなんだか心が晴れた。  先生のところに行ってスリッパを借りればいい。なんだか気合いも入った。  心見は裸足のまま校舎に入った。  すると背後から心見を呼ぶ声がかかる。振り向くと健太だった。心見の上履きを持っている。 「これ、おまえのだろ?」 「うん」 「なんか外の水道のところにひっかかってたから、取ってきた。はい」 「ありがとう」 「いじめられてるのか?」 「わかんない…」 「俺が守ってやる」  健太は怒りに燃えていた。  心見はその気持ちがとても嬉しかったが、彼が優しくしてくれることでの仕返しが逆に怖くもあった。  案の定、その日の午後、音楽の授業から帰ってくると、次の体育の授業で使う体操着がなくなっていた。  また美智子なのだろうと思ったが、顔に出さないようにして体操着を探した。  教室のどこにもなく、探していると笑い声が聞こえてくる。心見は悔しくて教室を出た。女子トイレに入ると、一つの便器の中に、濡れた体操着が落ちていた。  心見はそれを見てボロボロ泣いた。 「罰当たれ」  心見は呟いた。  暫く泣いて、教室に戻ると教室は騒然となっていた。  教室のガラスが派手に割れていて、菊田美智子が頭から血を流して倒れている。そばにはサッカーボールが落ちていた。  心見は走って先生を呼びに行った。  彼女は病院に運ばれた。外から飛び込んだサッカーボールがガラスを割って彼女の頭に直撃したらしい。ガラスは刺さっていなかったが、ボールが直撃し、彼女は教室に倒れこんで頭を強く打っていた。  大きな怪我はなさそうだということだったが、倒れた時に顔に傷を負ったらしいということで、暫く入院することになった。  校庭には複数のクラスが体育の授業を行なっており、結局誰が蹴ったボールかはわからなかった。 「まさか、右近さん…」  心見はまさかとは思ったが、少し気持ちは晴れた。その後、無視は徐々になくなり、いつのまにか平穏な学校生活にもどっていた。  そして、夏休みに入るまで彼女は登校せず、いつの間にか引越したそうで、二学期からは美智子がいなくなった。  心見は、罰が当たれとはお願いしたけれど、実際に願った状況が訪れたことで、なんだか少し怖くなった。  二学期になって、久しぶりに神社に行った。  神主はいつものように境内を掃除していた。  心見は神主に一学期の終わりにあったことについて話した。 「そうか。それは、右近が心見ちゃんとシンクロしたんだな。昔からある条件が整うと、札の作者が味方になってくれることがあるんだよ。だから私もどうしても必要な人にしかあのお守りは渡さないんだ。気をつけて使わないとね。それと、お守りは昔からあるものだから大切にしてあげてね」  心見はコクコクと頷いた。やっぱりそういうことなのかと逆に怖くなった。  心見は少し神主のことも怖くなって境内から早々引き上げた。  それからは、幸いにも虐められることはなく、右近に何かを願うこともなかった。そして、小学校を卒業し、中学校に進んだ。健太も同じ中学校だった。  健太は中学校では一気に背が伸びて、ますますかっこよくなった。サッカーも上手くて、県の選抜にも選ばれていた。  中学では健太はとてもモテた。他中学の女の子まで練習を観に来るほどだった。  心見との関係は相変わらずで、何かと気にかけてくれる。あの時のような虐めも受けてないし、もう大丈夫だよと伝えたいのだが、成長した彼を前にすると緊張して何も言えなくなってしまう。 「今度サッカーの試合観に来いよ。桜ヶ丘競技場でやるんだぜ。凄いだろ」  健太が心見のクラスまでやってきて話しかけてきた。他の生徒が健太に注目している。桜ヶ丘競技場は県内にある人工芝の唯一の競技場で、プロの試合をやることもある大きな競技場だった。 「うん、凄いね健太くん。ほんとどんどん有名人になってくね」 「まだ全然だよ。県選抜の試合だから大きい会場でできるんだ。ここで勝ったら次は仙台だ」 「そっか…ほんとに凄いね」 「心見もなんかやれよ。打ち込めるもの」 「う、うん」  とは言われたものの、何も思いつかなかった。強いて言えば百人一首に興味があるくらいだった。 「点決めたらおまえの方見て投げキッスするよ」 「えぇ、いいよぉ、また皆んなが嫉妬しちゃうから」 「は」  "嫉妬"…言って顔が青ざめる。右近の句を思い出したのだ。 「大丈夫か?顔色悪いぞ」 「ううん、大丈夫だから」  心見はその場を取り繕った。  その週末、心見は中学になってできた佳子という友達と競技場に行った。  自分の中学の生徒が集まる場所から少し離れた場所に座った。  佳子は東京から引っ越してきた子で、大人びた容姿をしていた。いつか東京に戻ることを考えている風で、周りの子とはあまり仲良くしていなかった。  試合が始まった。結構な数で自分の中学の子たちが応援に来ている。  健太はオフェンシブハーフという点を決めるポジションにいた。  心見は店を決めて欲しいような欲しくないような、どっちつかずの気持ちで試合を眺めていた。  後半に入って健太に絶好のチャンスが回ってくる。相手のディフェンスをオフサイドギリギリのところで交わし、キーパーと健太の間にはもう誰もいなかった。健太は焦ることなくゴールの右隅に綺麗な低い弾道のシュートを決めた。  決めた後、心見が座っている観客席に向かって指を突き出し、そして投げキッスをする。 その手前に自分の学校の生徒がいたから、皆自分のことだと思って盛り上がっていた。  なぜか隣の佳子は敵意のある表情で健太を睨みつけている気がした。  心見は健太に向かって弱々しげに手を振るのが精一杯だった。  翌週。  心見と佳子が教室で話していると、健太が心見の机までやって来た。 「おっす。見た?」  周りの女の子たちが騒ぎ始める。これはあまり良く無い状況だ。 「う、うん。カッコ良かったよ」 「だろ、ちゃんと投げキッスしたんだぜ」 「うん、見たよ。恥ずかしかったけど」 「ねぇ、紹介してよ心見」  佳子が健太を見ながら問う。切れ長で気の強そうな目。佳子はよく見ると美人だ。そばにいすぎてあまり気が付かなかった。むしろ、健太とお似合いではないか。一瞬でそんなことまで思ってしまう。 「健太くん、同じクラスの佳子」 「こんにちは」 「こんにちは。私も見たよあなたのゴール。鳥肌が立つほどかっこよかったわ」 「あ、いや、ありがとう」  あの強そうな目で言われると健太でもタジタジになる。でも案外悪い気はしていなそうだ。 「次も来いよな仙台」 「仙台か…」 「ちょっと遠いけど大丈夫だろ」 「うん…どうしよっかな」 「行くわ。私行く!」  佳子が先に返事をする。 「え。ちょっと佳子」 「決まりだな」  健太はニッと笑って教室を後にする。健太が出ていくと、クラスの女子が遠巻きにヒソヒソしている。 「心見、胸張って、堂々としていなさい」 「え、う、うん」  佳子は周りをキッと睨みつける。ヒソヒソしていた声は止んだ。  まるで右近ではないか、心見はそう思った。 「まさかね」  心見は佳子に聞こえないように呟いた。  翌週、心見と佳子は電車に揺られて仙台に向かっていた。友達だけの遠出は少しドキドキする。 「なんてことはないわよ」  佳子は慣れているようだ。きっと東京で今までも何度も遠出をしてきたのだろう。  仙台に着いてから、荷物をロッカーに入れて、早速競技場に向かった。  競技場の駅に近づくにつれ人が増えていた。県選抜同士の試合とあって、かなり観客がいた。二人は勿論自分の県側に座って試合を待った。 「ねぇ、心見」 「何?」 「あなた、健太くんと付き合ってるの?」 「え! ば、いや付き合ってないよ」 「ふーん、本当?」  佳子は切れ長の目で心見を覗きこんだ。この力強い目に見つめられるとなんだか、ソワソワする。しかし一方で心地よい気もする。なんだろうこの圧倒的な感じは。  本当に右近さんなのかな…。  馬鹿な考えすら浮かんでくる。 「付き合ってないよ」 「そう、なら」 「え?」 「私が健太くんと付き合うことになっても許してくれるわよね?」 「えぇ!」 「何?」 「いや、あの、えっと」 「ぐじぐじしてると知らないよ」 「いや、別に許可とかいらないものだし」 「ふーん。わかったわ。さ、応援しましょ!出てきたわよ選手」 「うん」  佳子は急に笑顔になって選手入場を見つめている。  心見は、健太が他の誰かと付き合うなんて考えたことがなかった。なんとなくいつもそばにいてくれると思っていた。  釣り合わないとわかっているのに、いざ本当に誰かと付き合うことを想像したら胸がキュンと締め付けられた。  試合が始まった。健太はまたオフェンシブハーフでスタメンだった。背番号は8。 相手は埼玉県選抜。かなり押されている。 「もう、だらしないわね、身体張りなさいよ!」 佳子はサッカーに詳しいようだった。 「健太くん、がんばれ!」  心見も声をあげる。 「そんな小さな声じゃ届かないわよ!」 「けんたー!決めろー!」  佳子はとてつもなく大きな声で叫んだ。 健太も心なしかその声に気がついたようなそぶりだった。  その直後、ディフェンスの不用意なバックパスに健太が滑り込んでパスカットしたことで、ボールが溢れた。仲間のフォワードがそのこぼれ玉を振り抜いた。シュートは相手のディフェンスに当たり、幸運にも再び立ち上がった健太の元にボールが転がりこむ。  キーパーは健太に向かって突っ込んでくる。 「打て!」 「決めて!」 佳子と心見は叫ぶ。  健太は会場の誰もがシュートを打つと見せかけたフェイントを入れてキーパーをかわす。  会場が呆気にとられる。  キーパーは倒れ込んで動けない。  無人になったゴールへ健太は冷静に流し込んだ。ゴールネットがふんわり揺れたところで会場がどよめきたつ。 「ちょっとー!」 「けんたー!!!カッコいいー!!」  健太は右手をあげてガッツポーズをする。そして、観客席に向かって指を立てる。佳子と心見の方を見る。  心見は目が合った気がして、大きく腕で丸を描く。健太が頷いたような気がする。  心見はこれまでないぐらい心が湧き立った。 そして、健太を他人に奪われたくないと思ってしまった。  心見はチラリの佳子を見ると、とても怖い顔で健太を睨んでいる。その顔が恐ろしいほど美しい。そして、口の端でニヤリと笑っている。 「決めた。絶対健太をものにするわ」  佳子は心見に聞こえるように宣言した。 心見は燃えるような気持ちと、恐ろしい気持ちの半々が胸の中で同居していた。  さらに翌週。  やはり、健太が私のクラスにやって来た。 その時点で周囲の女子が騒ぎ始める。健太はそれを意に介さず心見のところにやってくる。  今朝の新聞にサッカーの記事が載っていた。そこに健太のフェイントの写真が大きく取り上げられていた。 「見た? 俺の記事」 「見たわよ」 「ありがとう佳子さん」 「佳子でいいよ」 「うん、じゃあ佳子。見たか心見?」 「う、うん。凄いね。でもほんとあのフェイントにはほんとびっくりした。良くあそこで余裕あったよね」 「ああ。なんかな。試合前に神社で願掛けしたんだけど、そのおかげかな。なんか急にあの瞬間他の音が消えたように感じたんだ。凄く冷静になってさ。ゾーンに入ったって言うのかな」 「凄かったよ健太くん」 「ありがとう」 「見惚れちゃった私」 「そんな大袈裟だな佳子…」  ずけずけと言いたいことを言う佳子に心見は軽い嫉妬を覚えた。私ももっと思ったことをすぐに言えたら。 「ねぇ、今日部活の後は何してるの健太くん」 「ん? 特には…」 「じゃあさ、一緒にご飯食べない?」 「え?」 「三人で。ね、心見」 「え? あ、私は…」 「まぁ、いっか。行こうか」 「そうこなくっちゃ。お祝いね」  佳子と健太の二人でどんどん話が進んでいく。 「じゃ、駅に行く途中の山中珈琲店で」 「オッケー。じゃ後で」  健太はそういうと自分の教室に戻って行った。  佳子は健太が消えた外口を見つめたまま言った。 「ねぇ、心見。喫茶店、来ないでね」 「え?」 「応援してくれるのよね?」 「え…でも」 「でも、何?」  また切れ長の目で見つめられる。  ドキドキして何も言えなくなる。健太が自分を好きかどうかわからないし、佳子みたいに美人じゃないし…。 「うん、わかったよ」  受け入れてしまった。ここは絶対行かないとダメなんじゃないかって気がするけど、もう返事しちゃったし…。どうしよう。  心見は自分の弱さを激しく後悔した。  その後一日、授業の内容はまるで頭に入って来なかった。  気がつくと、サイフに入れていた右近の札をずっと触っていた。  ダメだ願いは口にしちゃいけない…でも。  放課後、校庭が慌ただしい。  隣のクラスの女子が駆けていく。健太のクラスの女子だ。  嫌な予感がした。  校庭を見る心見、そして佳子が背後から近づいてくる。  心見は佳子を見る。心配そうな顔をしている。 「ねぇ、健太くんが体育の授業中に誰かと激しくぶつかって倒れたらしいよ。立てないらしい」  廊下でさっきの女子が他のクラスの女子に向かって叫んでいる。  佳子と心見は顔を見合わせる。程なく救急車の音が聞こえて来た。  健太らしき生徒を載せ救急車は去っていく。 心見は血の気が引いた。  私、さっき祈ってないけど…。  でも、口に出してはないけど、健太が今日行けなくなりますようにって願っちゃったかも…どうしよう。 「どうしたの心見、顔色悪いよ」 「うん。心配で」 「そうだね。とりあえず今日はダメね。明日先生に聞いてみよ」 「うん…ごめん」 「なんであんたが謝るのよ」 「うん…」  どうしよう、自分のせいだ。焦りと嫌な汗が流れる。心見は佳子に何も告げずに、こっそり学校を出た。  神社に向かって走る。 「はぁはぁ」  いつもはなんてことない距離なのに、神社までが遠く感じる。  神社に着くと、境内はいつも通りの穏やかさを保っている。鳥居を抜けると空気が変わる。  社殿に向かう。 「すいませーん。神主さん、いますか?」  返事がない。 「すいませーん!」  焦る心見。  どうしよう。神主さんいないのかな…。  突然風が吹きつける。 「うわっ」  思わず声を上げる心見。空気がひんやりとして、境内の竹林がザワザワと音を立てる。なんだか背筋がゾクゾクする。 「どうしたの?」  その瞬間、背後からぞっとするほど低い声で声を掛けられた。  心見は嫌な予感がした。  恐る恐る振り向くと、そこには長い髪を額にはり付け、ものすごい形相の右近が立っていた。 「ぎゃー!!」  心見は腰を抜かして尻餅をついた。  その拍子に鞄からいろんなものが飛び出る。 「あ、ああ、あぁ、ごめんなさい、ごめんなさい」  眼を瞑って震える手で合掌して謝る。  しかし、右近は近づいて来て、心見の肩を掴む。そして大きく揺さぶる。 「あぁ。助けて、助けて…」  もう声が出ない。 「心見。心見! 心見ってば!」  心見は揺さぶられる肩がまだちぎられていないことを感じながら薄目を開けた。  そこには髪をおでこに張りつけた右近…ではなく、佳子がいた。 「佳子…」 「どうしたのよもう、落ち着いてよ」 「もう、右近さんかと思ったよぅ」  半べそをかく心見。 「は? 誰右近って?」 「あ、いやこっちの話。でも、なんでいるのよこんなところに」 「あんたが急にこそこそして走っていくから、 どうしたのかと思って追いかけてみたんだよ。そしたらあんた見かけによらず結構な距離走っていくから、私も走ったよ。もう汗だくで」 「…はは。ごめん。はははははは」  心見は全身から力が抜けた。 「どうしたのよ、こんなところで大丈夫?」 「もう大丈夫だから。ごめんね」 「なんなのこの神社は」 「昔から家のそばにあって良く来てたの。なんてことないよ」 「そう? ならいいけど」 「帰ろ。明日先生に健太の容態聞こ」 「うん」  心見は急に気が軽くなった。自分の思い込みにも程がある。大丈夫だきっと。佳子も右近なんかじゃなかった。たぶん。  二人は境内を出て、駅まで歩く。佳子の家は心見の家と反対だったので、駅まで送って、また心見は家に引き返した。  途中で神社の前を通ったが、なんだか今日はもう行っちゃいけない気がして、そそくさと神社を通り過ぎて家に帰った。  次の日のお昼休み。  心見と佳子は職員室に行った。健太のクラスの担任のところまで行って、健太の容態を聞いた。  足は挫いたみたいだが、幸い骨折はしておらず、二週間も安静にしていれば治るとのことだった。次の試合には間に合わないが、その次の試合ぐらいまでには戻れるだろうとのことだった。 「これ」  担任から心見は紙をもらった。そこには健太の携帯番号が書いてあった。  健太からもし心見と佳子が来たら渡して欲しいとのことだった。  放課後、心見の携帯電話から健太に電話をかけた。 「ごめんな昨日いけなくて。どじっちゃった。軽い捻挫で済んだからまたすぐ復活する」 「うん。良かった。心配したよ」 「ありがとう。佳子にも謝っておいてよ」 心見は携帯を佳子に渡す。 「早く治るといいね。また会えるの楽しみにしてるね」  さらっと照れるようなことを言う佳子。 「ああ。またな」  電話が切れる。佳子が心見を見る。 「私ちょっと周りが見えなくなってたから丁度良かったわ。ね、心見」 「え、うん」 「ねぇ、やっぱり好きなんでしょ健太のこと」 「う、うん」  今度は素直に言えた。 「もう、仕方ないな。暫くは一緒に頑張ろう。行く時は言ってよね。いや、まだしばらくは三角関係続けようよ」 「え、うん。そんな、告白なんて私まだできないし」 「知ってる。でも、私準備できたら言っちゃうよ」 「うん」  ああ、良かった。佳子は右近じゃなかったし、なんとなく仲直りできたし。  その日心見は、家に帰った後、何気なく財布を確認した。  右近の札がない。 「あれ? どこいっちゃったの…」 「失くさないようにね」  神主に言われたことを思い出し、血の気が引いてくる。 「やばい、これじゃ私…」  冷や汗が出る。  あの時、驚いて尻餅をついたとき鞄からいろんなものが飛び出て、財布も飛び出ていたっけ。やばい。心見は家を飛び出した。  さっきは晴れていたのに、霧雨が降っている。  傘を持ってくるのを忘れた。でも早く神社に行かないと…。  心見は雨に濡れながら神社まで走って行った。  境内に入る鳥居が見えた時、前から物凄い勢いでバイクが走ってくる。 「キキキキキキキー!」  ブレーキの音がして、そこで記憶が途切れた。 「気がついたかい?」  気がつくと心見は病院のベッドに寝ていた。  そばには神主がいる。 「大事には至らなかったようだよ。もう直ぐお母さんも来るようだから。無理しないで」 「私…痛た…」  腕と膝が痛む。 「バイクが来て、それで…」 「バイクを乗っていた人もお嬢さんに気がついていたけど、雨でなかなか止まりきれなかったようでね。でも、間一髪のところでバイクの人が山側に突っ込んで、ぶつからずに済んだようだよ。バイクの人も山側が柔らかい土だったからね、大丈夫だったようだよ。下で凄い音がしたんでね、私も降りて行って、それで直ぐに救急車を呼んだんだよ」 「すいません…ご迷惑をかけてしまい」 「いやいや、いいんだよ全然。無事で良かった」  神主はいつもと変わらず穏やかな顔をしている。 「それと、これ」  神主は、雨で汚れて滲んでしまっている右近の札を心見に差し出した。 「あ…」  思わず声が漏れる心見。 「社殿の前に落ちていてね。もしかして、落としたかな?」  やっぱりあの時落としていたのだ。 「はい、そうなんです。実は無くしちゃったかもと思って、それで今度は自分に罰が当たるんじゃないかって、怖くなって、境内に探しに行く途中だったんです」 「そうかそうか、いや良かった良かった。大切にしてくれたその気持ちが伝わって君を守ってくれたのかもね」 「あの…神主さん」  心見は神主さんにここ最近で起きた出来事を話した。 「うーん、右近は強い力があるからなぁ。ただやっぱりずっと君を守ってくれていると思いたいけどね」 「私、ありがたいけど、やっぱり、怖いので一旦お返ししてもよろしいでしょうか?」 「そうかい、ではまた神社に戻すとしよう」 「ありがとうございます」 「いや、たまにこういうこともあるもんだからね」 「そういえば愛子さんも…いや、まぁ他人のことだしやめとこう」 「え?」 「いやいや、こっちの話こっちの話。でも、また悩みがあったらまたいつでも来るといい」 「はい」  神主は穏やかな顔をしているけれど、やはり底知れない怖さがあった。 「では、私はこれで。お母さんによろしくね」 「はい。ありがとうございました」 「いやいや。また」  そう言うと神主は病室を出て行った。  まさかお母さんも昔もらっていたりして。まぁ家のそばに古くからある神社だから、それもあるかもしれないと思った。  しばらくして、母が病室に息を切らせて入ってきた。 「もう、心配したんだから!」  開口一番大声で怒鳴る。 「ちょっと他の病室の人に迷惑でしょ」 「あ、ごめんごめん」 「もう、あれだけ外は気をつけるように言ったのに」 「ごめんごめん」  母の顔を見て一気に安心する。  良かった。お札も返せたし。私には母もいる。  これでまた元通りだ。 「お母さん、さっきまであの神社の神主さんが来てくれてたんだよ。救急車呼んでくれたのもそうなの」 「ええ! そうなの?」 母の顔が一瞬険しくなった。 「え、何かダメなことでもあった?」 「あ、いや、無いわよ。後でお礼言いに行かなきゃね」 「うん、そうだね」  母は少し思い詰めた顔をした。 「ねぇ、お母さん」 「何?」 「あの神社って何を祀ってるか知ってる?」 「さぁねぇ。知らないわ。でも昔からあるのよ」 「そうなんだ。神主さんは知ってる?」 「ええ、勿論知ってるわよ。山岡さんって言って、お母さんが子供の頃からいらしたわよ」 「へー、そうなんだ」  さっきの神主が言いかけた愛子とは母のことだろうかと思ったが、確信は持てなかった。 「ま、何にせよ無事で良かったわ」 「うん。もう少し、強くならないとね私」 「うん? …まぁそうね。あんたは母さんに似て弱いから」 「うん。でも、やっぱり強くなりたい」  心見は母を見つめた。佳子の強さを見習って。母は何事か考えを巡らせているようだった。 「そう。じゃ強くなれる方法を考えなきゃね。でも…」 「うん。でも、何?」 「自分の力で強くならないとね」 母は思い切ったように言った。 「当たり前じゃん」 母は少し安堵したようだった。  自分とこの子は違うと愛子は思った。そして、安心した。 「私ももういい加減、返さないとね」  愛子は自分に言い聞かせるように呟いた。 「お母さんちょっとトイレ行ってくるわね」 「うん」  母がトイレに行った後、荷物台に乗せてあった母のハンドバッグが目についた。  急いで来たのだろう、鞄の中がごちゃついている。そそっかしいなぁと、母のことがなんだか友達のように可愛く思えた。  バッグの中に鈴のついた御守りのようなものが見える。それに祈って来たのだろうか。  きっとここまでくるのに相当気を揉んでいたに違いない。  心配してくれてありがとう、そう思ってその御守りの紐をよく見ると、カードケースに繋がっていた。  なぜだか見てはいけないような気がしたが、心見は気になって、こっそりその中身を見た。  そこに古いは女性の絵の描かれた百人一首の札が入っていた。 「ひゃっ」  声にならない声を上げる心見。  しかし、恐る恐る見ると自分が持っていた右近ではないように見えた。というより、もう擦り切れていてよくわからなかった。  心見は確かめないことにした。  だって、私はもう返せたのだから。これからは自分の力で強くなる、そう決めたのだ。  そう思った時、心見は母がさっき自分の力でと念を押した理由に気がついた。  心見がカードケースを母のバッグにそっと戻すと、シャラシャラと美しい音が鳴った。  札はなくとも右近はきっと私たちを守ってくれる。母が戻ってきたら下の階に行ってジュースでも買ってこよう。心見は自分の気持ちがもう前を向いていることを感じていた。  病室の窓の外に小さな雨蛙がいて、目をパチクリとさせていた。 *** 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるか (現代語訳) あなたに忘れられる私のこの身がどうなろうともかまわない。それよりも神に誓った私との愛を破ったことで神罰が下り、あなたの命が失われることが悔しいのです。
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