藤原興風

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藤原興風

誰をかも 知る人にせむ 高砂の…。   ***  その絵師の名は大岡道月。若くして亡くなった伝説の絵師。しかし、彼の名はあまり知られていない。 「どうか、どうか倅の絵を見てやってください!」  道月は師匠の大岡南宋に頼み込んでいた。「だめじゃ、そんな子供の描く絵など、見るに値せんわ。それよりも自分の絵の技術を磨け。もうお前ぐらいだぞ、わしの一門で名をなしておらぬのは」 「は! ですが…」 「くどい、帰れ」   道月は南宋に足蹴にされ、屋敷を下がった。   狩野派の旧態依然とした絵の人気が下降した江戸中期、道月は今をときめく大岡派の一門に名を連ねてきた。しかも、実力は一門のなかでも随一と評価されていた。しかし、まだ世間的には名が知られておらず、大岡南宋の門名がないとその絵はあまり売れなかった。      道月には妻がいたが息子が生まれた四年前、それと引き換えに亡くなっていた。妻の忘形見、息子の名は清志と言った。清志は赤子の時から喘息持ちで身体が弱かったが、道月が与えた百人一首の絵を真似て描いたり、動物を描いたりして家の中で絵の真似事をして遊んでいた。  中でも、右近や、藤原興風、蝉丸などを好んで描いていた。今はまだ四歳と小さいが、子供ながらに絵の筋が良かった。道月は自分よりもこの清志にこそ、その才があると直感していた。  ある雨の日、道月が家に帰ってくると、家の中でピチャピチャと音がした。  道月は訝しんで音がする方へ行くと清志が硯を放置したまま寝ていた。その硯の中に小さな蛙が跳ねていた。しようがない子だと、道月が蛙に近づくと、蛙は硯をとびだして、足跡をつけながら、掛け軸紙の上を飛んでいく。次の瞬間、蛙は清志が描いたであろう掛け軸紙の中の池に消えたのだ。  驚いた道月はその絵をよく見た。確かに雨蛙が池に描かれている。先ほどの蛙は幻だろうか、そう思って清志の寝ているそばを見ると、確かに蛙の足跡がある。  やはり、これは清志の描いた蛙が生きて出たのだ。そう確信した。  それほどの腕前が…道月は震えた。  次の日から道月は大岡の屋敷には行かず、清志とともに絵を描くことにした。  しばらくそんな日が続いた。 「父上、父上はなぜ絵を描いているのですか?」 「どうした清志、絵を描くのが嫌か?」 「いえ、大好きです。されど、父上は時折辛そうなお顔をしておりまする」 「そうか?」 「はい、いつぞやも襖絵を描いていた時でしょうか」  見抜かれている。 「そんなことはないぞ。ただ師匠にな、まだまだだと言われての。父はもっと頑張らないとならぬ」 「私は、父上がもっと楽しそうに絵を描いて欲しいと思っております」 「いやいや、そうも行かぬ。名を上げねば清志にまんまを食べさせられぬゆえな」 「はぁ」 「とはいえ、まぁ父も楽しく描こうと努力するぞ」 「はい」  清志は笑顔になった。 「父の手本を見ながら右近と興風を描いたのです。見てもらえませぬか?」  そう言うと清志は道月に絵札を二枚持ってきた。 「どうですか?」 色遣いは鮮やかで、そこはかとなく明るい雰囲気が絵から漂ってくる。札の意味はどちらもあまり明るくないのだが、清志の絵には幸せが溢れていた。 「これは本当に見事だ清志。まるで生きて出てきそうだ。よし裏に記名しよう。清志と書くのだ」 「いいのですか?」 「勿論だ、清志の絵ではないか」 清志は嬉しそうな顔をして裏面に名を入れた。  その後も清志は百人一首の札を見ては描いていた。  しかし、あれ以降清志の絵からその描いた何かが飛び出すことはなかった。あれはやはり幻だったのだろうか。  そう落胆しているところへ、追い討ちをかけるように南宋から呼び出しがあった。  気がつけば一月余り大岡の屋敷に全く顔を出していなかった。 「何をしておったのじゃ貴様は! 上様に献上する絵はたくさんあるのだぞ、お前がいないゆえ、完成が遅れておる。人手はいないのだぞ。何をしておった!」   烈火のごとく怒鳴りつける南宋。道月はこの一か月の有り様を話した。 「寝ぼけるのもいい加減にしろ! 子供の遊びに付き合ってる奴があるか! 上様の仕事を舐めているのかおまえは。今日からこの屋敷に泊まるのだ。完成するまで帰ってはならぬ!」 「いや、しかし南宋様、母はおりませぬゆえ、私が帰らないと息子の世話ができませぬ」 「知らぬわ阿保が、すこしは事の重大さを思い知れ。息子のところには下人をやらせる」 「いえ、息子は喘息持ちで、薬も必要なのです」 「うるさい。早く作業場に行け馬鹿もんが!」    一か月も何の断りもなく休んでしまったのは良くなかった。今更悔いても仕方ない。とりあえず今日は泊まるしかない。幸い下人が行ってくれるとのことではあるし。その夜は息子を心配しながらも道月は南宋の屋敷で過ごした。    翌朝、下人衆に話を聞くと、誰も道月の屋敷に行っていないと言う。これは困ったことになった。道月は南宋に願い出た。 「師匠、お願いでござりまする。一刻だけ、一刻だけ家に帰していただけませぬか。倅は一人で過ごせるほどの歳ではございませぬ。下人も昨日は誰も訪ねておらぬと聞きました。何卒、今一刻」 「ならん。貴様が全て悪いのだ。家に帰して欲しくば絵を完成させい」 「いえ、倅は喘息もありますゆえ、一刻を争うかもしれませぬ。何卒」 「ならん。おい、こやつを作業場に閉じ込めろ」  南宋は弟子たちを使って道月を作業場に閉じ込めた。 「師匠、私が悪うございました。御無体はやめてください。一刻で良いのです」   道月は作業場で叫んだ。しかし、扉は開かない。これは本当に困った。清志は身体が強くない。しかも喘息持ち。昨日が無事だったとしても、今日も無事とは限らない。早く戻らねば。 「師匠! 誰か!」   道月は泣きながら訴えた。  しかし、誰も話を聞いてくれない。  道月は次第に腹が立ってきた。南宋にそれだけの仕打ちをする権利があるのだろうか? おかしいではないか。  道月はそばにあった材料を斬るためのナタを持って、扉をたたきはじめた。   ダンダンと鈍い音がなる。しばらくして、扉が壊れた。 「何事ぞ」   作業場に向かった南宋は、腰を抜かした。血だらけになった両手にナタを持った道月が、閉じ込めた作業場の扉を壊して出てきたのだった。 「貴様何をしておる! 気が狂ったか!」 「うるさいこのわからずや」   道月はナタを振り回した。 「わわ、わわ」   南宋が逃げ惑う。道月はなおもナタを振り回す。その先の方が南宋の腕を掠め、血が吹き出す。 「うわー!」  南宋が叫んだところで弟子たちが集まってきた。 「師匠、師匠!」  弟子たちが南宋を守る。道月はばかばかしくなった。そのままナタを振り回し、屋敷を出た。皆弟子たちは泡を食っている。屋敷を出た道月は正気に戻り、家に向かってひた走った。 ようやく家につき、扉を開け、清志の部屋に入った。  清志はその前の日と同じように寝ていた。道月はほっとして、そばに寄った。見るとあの時に見た雨蛙が清志の手の上に乗って、目をぱちくりさせている。  おかしい。清志が動いていない。息を確認すると清志は虫の息だった。道月は焦った。焦って清志に呼びかける。清志は薄めを開く。まずい、このままでは死んでしまう。道月は清志をおぶって、医者のところに駆け出した。おぶっている間もどんどん生気が失われていく。道月は走った。  ようやく半刻たったころ医者の屋敷についた。道月は大きな扉を叩いた。既に夜になっており、誰も出てこない。 「誰か!誰か!」  道月は力一杯扉を叩いた。叩きに叩いた。  しかし、誰も出てこない。 「頼む、誰か、誰がおらぬか! 急病だ!」 ようやく中から人が出てきた。 「これは道月先生、どうなされた」 「息子が虫の息なのだ、頼む」   道月はその下人と一緒に中に駆け込んだ。  医者に見せると、かなり厳しい状況だという。 「なんとか、なんとかしてくれ、この通りだ!」   道月は頭を床に擦り付ける。  医者は清志に薬を飲ませ、服を着替えさせ、頭に手拭いを乗せた。熱もあるようだ。 「かなり衰弱している。今夜を越えれるかどうかです」  道月は清志のそばで天に祈った。  どうか、どうか清志を…。  「清志」 「父上、元気出して」 「おお、お主、元気になったのか! 良かった」 「うん。大丈夫。僕、父上のような絵師になるから」 「そうじゃ、いや、もうわしを越えている。これからはお前が道月を継ぐのだ。清志から清を、わしから月をとって、清月にしよう」 「やった! ありがとう…」 「どうした、何を泣いておる」 「うん、でも僕、もう行くね。父上もちゃんと自分の名前で絵を描いてからこっちに来てね。僕はあっちで頑張ってるから」 「何を言っておる。あっちとはどこのことじゃ」  はっとした。道月は目を覚ました。いつの間にか清志にもたれて眠っていた。清志を見ると、息をしていない。 「清志、きよしーー!」  清志は反応しない。 「先生、先生!」  道月は医者を呼んだ。医者が駆けつけて清志の脈を測り、息を確かめる。そして、瞳孔を確認し、目を瞑った。 「先生、やめてくれ、頼むやめてくれ」  首を振る医者。 「すまぬ、力及ばなかった」 「うおおおおーーーーー」  道月は叫んだ。 「清志、きよしーーー!」 清志を揺さぶる。しかし、清志はぴくりともしない。医者と下人は道月を押さえた。道月はその場に泣き崩れた。  その日道月は亡骸となった清志をかかえ、家に帰った。  そして、清志が使っていた絵筆をとって、清志が練習していた右近の百人一首の絵札をそばに置いた。 「さ、清志描いてごらん。父はいつまでも待っているぞ」  清志の亡骸を見て涙する道月。そのまま清志を抱いて眠りに落ちた。  翌日、道月は清志の身体を拭き、その手に絵筆を持たせて布団に寝かせた。そして、自分は清志が復活するのを待った。清志の寝顔は清々しく、まるで天使のようだと思った。  次の日、再び道月は清志の身体を拭き、その手に絵筆を持たせて布団に寝かせた。 「そうか、蛙がいなくてはな」  道月は庭に出て、蛙を探した。池の端に美しい雨蛙がいた。道月はそれを捕まえて、清志の手に乗せた。雨蛙は目をパチクリとする。  道月は、それを見て、やはりと思った。いや、もしかしてこれは清志の仮の姿ではないか? そう思うようになった。  道月はその雨蛙を小さな箱に入れて逃げていかないようにした。  その夜、道月は自分を呼ぶ声で目が覚めた。「父上、父上」 「おお、清志、目覚めたか!」  見ると生きている清志であった。 「僕はもうこっちでは描けないよ父上」 「ああ、ごめんごめん」 「父上は、僕の面倒を見てないで自分の絵を描いてよ。でないと僕のところに来れないよ」 「え、ああ、俺はもういいんだよ清志」 「駄目だよ。僕と会いたいなら描かないと。それとも、僕に会いたくないの?」 「何を言ってるんだ清志、会いたいに決まっているだろ」 「なら描かないと」 「いや、それとこれとは話が…」 「何言ってゲロ、いるのゲロ、ゲ〜ゲロゲロ」    清志の様子がおかしい。顔が痙攣していく。 「だ、大丈夫か清志!」  道月は清志の肩を持ち、揺さぶった。 「しっかりするんだ清志!」 「ゲロゲロ、ゲロ、ゲロゲロ」  清志は口から長く青い舌を出し、道月の顔を舐めた。 「うわぁ、清志」  気がつくと清志は蛙に変わって、道月を飲み込もうとしていた。 「清志、きよし! ごめん、父さんが悪かった!」  目が覚めた。道月はびっしょり汗をかいていた。雨蛙がかごの中にちょこんと座っている。「清志、きよしぃ」  道月はまた泣き崩れた。 「どんどん、どんどん」  翌朝、家の扉を叩く音がする。 「どんどん、どんどん」 「清志、清志か?」  道月は清志が帰ってきたのかと思ったが、目の前に清志の亡骸があった。 「おい、道月、ここはもはやお前の家ではない、お前は破門になった。即刻立ち去れぃ」  なんと大岡のところにいた下人衆だった。 「門下でなくなったおまえを住まわす家はない」 「おのれ…家まで奪う気か、南宋」  道月はナタを持って立ち上がり、門まで出て行った。扉を開けると、五人ほどの下人がいたが、ざんばら頭で目の血走っている道月を見て、後ずさった。 「わ、われわれは確かに伝えたからな。明日までに出で行くことだ。そうでないと奉行所が来るぞ」 「出て行け! 出て行け!」  下人たちは距離を取りながら口々に叫んだ。    道月は扉を強く閉めた。 「この馬鹿者どもが」  道月は吐き捨てた。しかし、ここにはもういられそうもなかった。身の回りの物、と言っても大したものはなかったが、絵を何枚かと着物、清志と雨蛙のかごを持って、その日の夜、道月は家を出た。  道月は夜道を歩いた。北へ北へ向かった。自分のルーツが北にあると昔聞いたことがあったからだった。途中今まで描いてきた絵を売り、多少の金に変えた。  もう何日歩いただろうか、すでに背中におぶった清志は腐り果て、雨蛙は干からびていた。人間の腐敗臭はひどく、道月は街には居られなくなった。  山で寝泊まりをし、気がつくと清志は骨だけになっていた。雨蛙のカゴもいつのまにかどこかへ消えていた。  道月は食べるものも尽き、ぼんやりとすることが増えた。もうこのまま死んでしまおうと考えた。 「父上、父上」 「おお、清志、やっと迎えに来てくれたか!」    道月は清志が天から降りてきてくれたと思った。 「何言ってんの、前も言ったでしょ、いつまでもぐちぐちするのはやめてよ。このまま死んだら本当に会えなくなってしまうよ」 「死んだら会えるのではないのか?」 「会えないよ、言ったじゃない。そっちで絵を描いて人に認めてもらはないとダメだって」「そんなこと言ったって、もう父には画材道具もないし、金だって…」  道月は懐を触ると小判があることに気がついた。街に降りれなかったため使う余地がなかったが、大岡一門の絵ということで、高く売れた絵があったことを思い出した。 「そのお金で、画材道具を買って、絵を描いて献上しなよ」 「そんな簡単に言ってくれるが…」 「そうしないと会えないよ。それでもいいの?」 「いや、ダメだ清志、お前に会いたい、清志!」  清志は消えた。   道月はガックリとうなだれた。川に行き自分の姿を見た。酷い顔をしている。神は伸び放題、身体は泥だらけ、ひどい匂いがする。これではダメだ。仕方なく川で身体と衣服を洗い、乾かして街へ降りた。   持っていた小判で家を借り、画材道具を買った。まずは掛軸の紙を買い、絵を描いた。清志の好きだった百人一首や三十六歌仙の絵を描いた。  その掛け軸はやがて評判を得て、道月が落ち着いた村を治める藩のある武家が欲しがるようになり、その武家向けに絵を描くようになった。  掛け軸の他にも襖絵や武家の子供向けに百人一首の絵札も描いた。  絵札を描いていると、思い出したように道月は嗚咽をもらして泣いた。そして、南宋への怒りがぶり返した。  道月は、武家に献上する百人一首の絵を描く傍ら、清志と会うための絵も描くようになった。  三十六歌仙を一枚ずつ描き、裏には自身の道月ではなく清月と名入れるようにした。  やがて、武家に献上する絵を描くことをやめ、清志に捧げる絵に没頭するようになっていった。  そして、三十六枚全て描ききった時、清志に会える気がした。既に捨てた命、道月は清志に早く会いたい一心で寝食を忘れて描いた。  途中、贔屓にしてくれたその武家の下人が道月の家を訪れたが、相手にしなかった。  何日も何日もかけて、ついに三十六歌仙を描ききることができた。  もう何日食べていないだろう。しかし、そんなことはどうでもよくなっていた。描ききって床に倒れ込んだ。 「父上、父上」 「おお、清志! 完成したぞ、ついに。お前の好きな三十六歌仙だ。その他の絵はある武家が買ってくれてな。どうだ、そろそろ会いに来てくれるのだろう?」 「頑張ったね父上」 「あぁ父はお前に会いたい一心で頑張ったのだぞ」 「ありがとう、父上」  清志は道月の胸に飛び込んで来た。 「清志、清志!」  道月はしっかりと清志を抱き止めた。 「もう離さないぞ清志、いや清月」  清志は笑った。  道月もその笑顔を見て笑った。  数日後、山岡と名乗る武家が道月の家を訪れた。何枚か絵を描くよう打診していたが、一向に音沙汰がないため、ついに痺れを切らして自ら訪れたのだった。  家来が大きな声で道月を呼ぶが、誰も返事をしない。 「ごめん!」   家来が無理やり家の扉を開け、中に入った。 「道月殿! 道月殿!」  山岡が部屋に進んでいくと、三十六歌仙の絵が部屋中に散らばっていた。とても美しく鮮やかな色を放っていた。  その散らばった絵の真ん中に小さな子供の骨を抱くようにして着物を着た大人の白骨が一体倒れていた。  その懐には、百人一首や三十六歌仙を描いた小さな札も置いてあった。それはどれも色鮮やかに煌めいていた。そして、その札の上には小さな雨蛙が乗っていた。 *** 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに (現代語訳)これから誰を親しい友とすればいいのだろう。馴染みのある、この長寿で名のしれた高砂の松でさえ、昔からの友ではないのだから。
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