藤原義孝

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藤原義孝

君がため 惜しからざりし いのちさへ…。 ***  入間心見は、いつも一人だった。  そのせいで気味悪がられて、いじめられていた。  でも、みんなの前では決して泣かず、何があっても、いつもなんだかぼんやりしていた。  誰にもやり返すこともなく、俺はとてももどかしかった。  そして、心見のことがどうにも気になった。 「これ、おまえのだろ?」 「うん」 「なんか外の水道のところにひっかかってたから、取ってきた。はい」 「ありがとう」  心見のだろうと思われる上履きが校舎の外にある水道の蛇口に引っかかっていた。 「いじめられてるのか?」 「わかんない」 「わかんないって…わかるだろ」 「…」  心見は何も言わなかった。 「もういい、俺が守ってやる」  俺は自分より弱い奴をいじめる奴がゆるせなかった。  その日の午後、俺は体育の授業で校庭にいた。うちの学校は校庭が広く、二つ、三つのクラスで同時に授業をすることもあった。  今月の体育の内容はサッカーだった。俺の得意分野だ。  授業となると、俺の一人舞台だ。だからテキトーに流している。  授業も半ばを迎えるころ、上級生のクラスのほうが騒がしくなっている。  どうやら誰かがボールを教室の方に向けて蹴ってしまい、ガラスが割れちまったらしい。しかし、なんだって教室の方なんかに。ゴールは逆なのに。  まぁ下手くそもたくさんいる。でも、下手だとそんな威力のあるボールが蹴れるのだろうか。  疑問が湧いた。しかし、俺には関係ない。授業はそのまま続いた。  教室に戻ってみるとクラスが騒がしい。  さっきのボールが教室にいた女子の顔に直撃したらしい。その女子は救急車で運ばれたそうだ。  後でクラスメイトに聞いたところでは、菊田美智子という女子だった。  心見を苛めていた奴だ。バチが当たったんだな。ざまぁみろ。俺が裁かなくたって誰かが裁くということだ。世の中は意外と公平にできている。  俺はその後も心見がいじめられていないか、監視していたが、菊田がいなくなってからは大分収まったようだ。  俺が守る役目も終わってしまったのかもしれない。話し掛ける口実もない。  ひょっとして俺はあいつを?まさかな。  俺は小学生高学年になると、サッカー選手として市内でも有名になっていき、県選抜に選ばれた。  学年が変わって心見とは他のクラスになり、俺はサッカーに没頭して、話す機会は減ってしまった。このまま中学が変わってしまったらそれっきりかもしれない。そんな不安が頭を一杯にしていた。  その後、俺は学区内にある公立の中学校に進んだ。結局心見も幸いにも同じ中学に進んだ。中学では、心見は友達が多いわけではなかったが、東京から引越してきたという片桐佳子とかという女子と仲良くなっているようだ。ひとまず安心した。この片桐という女子、どこかで会ったことがある気がしたが、思い出せなかった。  中学に入ると俺はサッカーでますます頭角を表し始めていた。県選抜でレギュラーを確保し、チームの攻撃の要になった。それとともに女子学生のファンのようなものが増えていった。だからと言って、俺にはあまり関係なかった。どちらかというと、ファンが増えるたび不安になった。心見が遠くにいってしまう気がした。  久しぶりに、心見に話しかけたくなった俺は、県選抜の自分の試合に心見を誘うことにした。何かイベント事が発生しないと話しかけずらい状況だったからだ。  隣のクラスに入ると、周囲が騒つく。  違うクラスの奴が入っちゃいけないのか?  女子がまず始めにざわつき、それを見る男子もざわついてしまう。  面倒ではあったが、実際のところ俺はそんな雑音は意に介さず窓際に片桐と一緒にいる心見のところにいった。 「よお」 「おはよ」  心見が俺を見る。なんだか大人っぽくなったな。ちょっと照れてしまう。 「今度サッカーの試合観に来いよ。桜ヶ丘競技場でやるんだぜ。凄いだろ」  桜ヶ丘競技場は県内にある人工芝の唯一の競技場で、プロの試合をやることもある大きな競技場だった。 「うん、本当に凄いね健太くん。どんどん有名人になってくね」  心見は自分の魅力に気がついていない。  そんな事言うな。俺は何も変わっちゃいない。今でもお前を守ることしか考えてない。でも、そんなこと恥ずかしくて言えない。 「まだ全然だよ。県選抜の試合だから大きい会場でできるんだ。ここで勝ったら次は仙台だ」 「そっか…ほんとに凄いね」 どうしたら普通に話してくれるだろうか。 「心見もなんかやれよ。打ち込めるもの」 とは言ったものの、既に打ち込み始めている俺とは違うもんな。 「う、うん」  と言っているものの、戸惑ってしまったようだ。話を変えないと。 「次の試合、点決めたらおまえの方見て投げキッスするよ」  おどけて見せた。他の中学の女子だって俺を見に来るんだぜ、なんて言っても無駄だろうしな。 「えぇ、いいよぉ、また皆んなが嫉妬しちゃうから」  そういうことはわかっているのか。心見は言ってから何かに気づいたように青ざめた。どうしたんだろう。具合でも悪くなったのかな。女子はよくわからない。 「大丈夫か?」 「うん」 「じゃ、今週な」 「うん」  来てくれるといいが…。  試合当日。  試合開始から一進一退の攻防だった。  相手のディフェンスが堅い。最終ラインの背後を取ることを念頭において攻撃を組み立てたが、相手の最終ラインはうまく統率が取れている。おそらくあの4番のキャプテンがうまいからだ。  こういう時は、パスではなくドリブルで仕掛ける方がいい。俺は途中からフォワードを走らせるものの、そこにパスを出さず自分から切り崩して行った。背後からもう一人ボランチが上がってくればチャンスだ。  一度うまく行きかけた。キーパーが前に出過ぎていたからだ。俺はフォワードが開けてくれたスペースに背後から来たボランチの五島にスルーパスを出した。  キーパーは慌てて戻り、ボールに向かって倒れ込む。五島もそれと同タイミングで走り込む。二人が交錯する。わずかにキーパーが早かったか。五島は前に吹っ飛んだ。そこでホイッスルが鳴った。ファールは五島が取られた。  前半はそこで試合終了。しかし打開策は見えた。敵の穴はキーパーだ。 「五島、大丈夫か?」 「ああ、なんてことない。俺とお前が入れ替われば打開できるな。後半はフォワードをブラフに使って、俺たちで点を取ろうぜ。来てるんだろ? お前の彼女」 「ば!、来てねーよ」 「へへ、いいっていいって。ただし、点取れよ」 「言われなくてもな」  俺とディフェンシブハーフの五島との相性はとてもいい。こいつとならどこまでも行けるような気がしている。同じ中学だったら良かったのに。確か近くの私立中学だったか。  ハーフタイムは、監督に進言して、自分なりの考えを伝えた。フォワードに常にディフェンスの背後を狙うと見せかけて、後ろから五島を飛び出させる。そして、その両方で混乱しているところで、俺自身が飛び出す。最後の最後まで俺が出ることは隠しながら一点を決め切る。これが作戦だった。  後半に入って、始めは前半と同じく、フォワードに裏を狙わせ、単純な背後へのスルーパスを何度も出した。当然オフサイドトラップを狙われて何度か引っかかる。しかし、これでディフェンスは背後を常に気にするから、ボランチの五島が抜け出しやすくなる。そこに対応する相手のディフェンスのキャプテン。そして、そろそろキーパーが焦り始める頃だ。  その10分後、絶好のチャンスが回ってきた。左右のフォワードが左に流れる。そこに五島が上がってくる。俺はそのスペース少し手前にパスを出す。慌てたキャプテンが五島に詰め寄る。五島が先にボールに追いつきダイレクトで俺に壁パスをする。フォワードに吊られていたディフェンスは遅れる。俺は最初のトラップに集中し、ラインを突き抜けるようにボールを前にだす。そこで勝負が決まる。俺は一人ディフェンスラインの前に出て、あとはキーパーひとりだ。しかし、すでにキーパーは集中力を欠いている。俺は焦ることなくアウトサイドで狙いすましたゴールの右隅に綺麗な低い弾道のシュートを決めた。  決めた後、心見が座っている観客席に向かって指を突き出し、そして投げキッスをする。  見てるか?心見。  心見は弱々しく手を振っている。もっと力強く振ってくれ。来てくれたんだから、しっかりと振ってくれ。  俺の後ろで五島が俺を見ている気がした。  翌週。  俺は近所の山岡神社にいた。  ここは昔からある神社で、社殿の中に百人一首が飾ってあるらしい。昔死んだ父さんに連れて来てもらったことがある。  今週の仙台の試合は厳しい戦いになる。前回よりもプレーの質と精度を上げないと勝てないだろう。そして更に何か秘策が必要だ。なんとかしないと。  できればそんな時は心見に見に来てほしかった。心見が見てくれていると不思議と安心する。というより、どういうわけか冷静になれる。  俺は社殿で祈った。今週の練習で秘策が思い浮かびますように。そして、心見が観に来てくれますように。 「健太くん、かな?」 「え?」  神主?さんだろうか。奥から威厳のある感じのお坊さんが出てきた。 「やっぱりそうか」 「あ、はい」 「熱心に祈ってくれていたね。何か心配なことでもあるのかい?」 「あ、いや、そんな顔してました?」 「どういうわけかここに来る人は皆そうなんだな」 「そうですか…」 「ああ、言わなくていいよ。人にはそれぞれ事情があるからね」 「はぁ」  神主さんは俺の顔を見て、ふと思い出したように言った。 「そういえば、健太くんはいくつになったっけ?」 「14です」 「そうか。実はかなり昔に君のお父さんから預かり物をしていてね。本当は10歳の時に渡して欲しいと言われていたんだけどね」  そんな話初耳だ。 「え。そんなこと聞いたことないですけど」 「うん、健太くんがいつか一人で参拝に来ることがあれば、という条件だったんだ。お父さんの願掛けなんだよ」 「そうですか」  なんだかよくわからないけど、父さんからというなら断る理由もなさそうだ。  俺は随分昔の父さんが生きていた頃のことを思い出していた。 「健太。約束してくれ。今後お前は、弱い人を助けるために生きると」 「なんでそんなこと言うの?」 「父さんはさ、昔からちょっと身体が弱くてな、お前だけを守ることに必死だった。お前以外は守れないと思ってた。それが歯痒くてね。本当はもっといろんな人を守りたかった。みんなのヒーローになりたかったんだ」  病室で父さんは、母さんが飲み物を買いにいっている間に言った。 「母さんには言うなよ。男同士の約束だ」 「うん」  父さんと指切りした。 「それとな、いつか願い事をしたいとか、誰かを守りたいと思うことがあったら、家から少し北にあるあの神社に行くと良い。あそこは真剣に祈ると願いを叶えてくれるからな。昔から父さんは良く行ってたよ」 「うん。でも、僕、早くお父さんに良くなってもらいたい」 「はは、そうだな。だが、それはお父さんの仕事だ。こう見えても俺はしぶといぞ!」  父さんは力こぶを作って見せる。  嘘だ。  むしろどんどん痩せて悪くなっている。子供の俺にだってわかる。気丈に振る舞う父さんを見ていると逆に痛々しくて、鼻がツンとして涙が溢れそうになる。俺は、俺の願いは、父さんが長生きすることだけなんだよ。父さんはもうすでに俺だけのヒーローでいい。みんなのヒーローになる必要はないんだから。  もしかして…あの時既にこれを頼んでいたのかな。 「何か思い出したかな?」 「あ、いえ…」  俺が下を向いていると、見かねたように神主さんは言った。 「今日は健太くんに特別に社殿の中を見せてあげよう。おいで」  急に神主さんが誘うのが不思議だったが、断る理由は特になく、後について社殿に上がった。  社殿に入ると更に空気が変わる。想像よりも広く、天井は高い。その天井には、たくさんの百人一首の絵が描かれた額が飾られている。一枚一枚作者が描かれ、その上や横には短歌が書かれている。その色はどれも鮮やかで美しい。 「これは昔…江戸時代の有名な絵師が描いたんだけどね。ずっと綺麗に色褪せず残っているんだ。好きなだけ見るといい」 「江戸時代…そんな昔…」 「この神社の宝物だよ」  俺が見惚れているのを確認すると、神主さんは社殿から静かに出て行った。  独りになった俺はこの絵たちに夢中になった。江戸時代ととても古いのにこんな色鮮やかに残っているなんて。ため息が出るほど美しいというのはこういうことかと子供ながらに思った。  そして、ある一枚の絵に俺は気を取られた。 『藤原義孝』  そう書かれている。そして、そこに書かれている句は、 君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな  訳は、ネットだと、『君のためなら惜しく無いと思っていたこの命、君と会った後では長生きしたいと思う』ということらしい。  なんだこれ、あの時の父さんにピッタリじゃん。そして、今の俺の気持ちにもピッタリだ。俺はしばらくその絵の前で立ち尽くした。 「気に入ったかな?」  急に声を掛けられて俺はビクっとなった。 「やはり…というか、なんだろうね、ご縁かね」 「え?」 「これを君に渡しておかないとね。さっき言ってた君の父さんからのプレゼントだ」  神主さんから渡されたのは一枚の百人一首。絵柄は天井に飾られているのと同じ藤原義孝だった。金の背景に緑の服が美しい。信心深く病で早くに亡くなってしまったらしい。裏に清月と書いてある。  これは父さんそのもののような気がした。俺はありがたくいただいた。なんだか次の試合やれる気がしてきた。 「ありがとうございます」 「いやいや。約束を果たしたまでだ。ただ、これはいい加減に扱わず、大切にしてね。もともとは私が君の父さんにあげたものなんだけど。きっと君の力になってくれるはずだから」 「わかりました。勿論です。ありがとうございます」  父さんと繋がれた気がしてとても嬉しかったが、大切に扱わないとどうにかなっちゃうんだろうかと、少し不安になった。  翌日。  俺は隣のクラスの教室に入って心見のところまで行った。 「おっす。見た?」  周囲がざわつく。煩いな。邪魔するなよ。 「う、うん。カッコ良かったよ」 「だろ、ちゃんと投げキッスしたんだぜ」 「うん、見たよ。恥ずかしかったけど」  少し恥ずかしがる心見。俺だって恥ずかしかったけど、お前のためにやったんだぞ。そんなに恥ずかしがるなよ。なんだか距離が縮められないもどかしさを感じる。 「ねぇ、紹介してよ心見」  片桐が割って入ってきた。初めて近くで見たが背も高く気の強そうな目だ。 「健太くん、同じクラスの佳子」  心見が紹介する。 「こんにちは」  俺はよそ行きの顔を作る。 「こんにちは。私も見たよあなたのゴール。鳥肌が立つほどかっこよかったわ」 「あ、いや、ありがとう」  この強そうな目で言われると何と言っていいのか答えに窮する。しかし、どこかで見たことあるような気がするが…思い出せない。  俺は次の大一番に、心見を誘うことにしていた。ここで言っておかないとな。 「次も来いよな仙台」 「え、仙台か…」  躊躇する心見。 「ちょっと遠いけど大丈夫だろ」  頼む、来てくれよ。次はお前がそばにいてくれたら勝てる気がするんだ。 「うん…どうしよっかな」 「行くわ。私行く!」  片桐が先に返事をする。 「え。ちょっと佳子」 「決まりだな」  俺はニッと笑って、心見の返事は有耶無耶にしながら、片桐の力を借りて心見を誘うことに成功した。  今日はいよいよ仙台での試合。県選抜同士の試合とあって、親や同級生、サッカー好きの人たちなどかなり観客がいた。  二人は来てるだろうか。自分たちを応援してくれる人達の位置はわかったが、心見の場所はわからなかった。きっと来てくれているだろう。そう信じるしかない。  この試合に勝てば、次は東京まで遠征だ。絶対ものにする。俺はロッカールームでユニホームに着替えながら、神主さんにもらった父さんの形見の藤原義孝の札を見て、握りしめ、目を閉じた。  絶対に勝てますように。そして、心見が観に来てくれていますように。  ピッチに上がるとだいぶ観客席も埋まっていた。さすが仙台だ。よし、やるぞ。俺は気合いを入れた。 「来てるのか?」  五島がニヤニヤしながら聞いてくる。 「たぶん。誘ったからな」 「彼女じゃないのか。そっちは奥手のお前が好きなんて、俺も会いたいな」 「バカ、何言ってんだ」 「こわ。とりあえずこいつら倒すか」 「ああ。多分苦しい時間が続くとは思うけどな」 「ディフェンスは任せとけ、体力勝負だ」 「頼むぜ相棒」  五島は親指を立てた。  試合開始のホイッスルが鳴った。  試合開始直後から相手の巧みな攻めに防戦一方だ。予想通りだ。五島も最初から翻弄されている。後半まで体力が持つといいが。  やはり県選抜同士のトーナメントニ回戦となると、相手は相当上手い。こちらから攻めて崩すというより、相手を、防ぎつつ、ラインを上げ、最後の一発をどこかで決めなければならない。それまでは敢えて姿を消す。基本は前回と同じだ。五島を助けつつ、パスを多くして、俺にドリブルはないと思わせる。最後の最後まで隠すんだ。  前半38分。俺は相手のボランチからボールを奪うと背後から上がる五島にボールを預けた。五島はすぐさま右のフォワードに展開する。しかし、ここでフォワードの村田が相手のディフェンスにボールを奪われて攻守が後退する。俺は上がった五島の代わりにディフェンシブハーフの位置に戻る。相手を遅らせてる間に五島が戻る。  俺がしかけてボールを取りに行くと相手はかわしたもののバランスを崩す。そこに五島が追い討ちをかける。  よし、取れた。  再び五島がボールを持って上がり出す。左右のフォワードは自分の前のスペースにボールを要求することでディフェンスラインを下げる。ラインが下がれば当然俺はボールを受けやすくなる。後ろから俺が上がる。チャンスになりそうだ。五島は俺を見る。今回は俺が裏を狙う。俺が走り出すところで五島がスルーパスを出した。ディフェンスの背後、キーパーとの間の絶妙な位置。俺はそこに飛び込む。先に触れば一点だ。思いっきり突っ込む。  キーパーと交錯する。  俺は足を出して滑り込む。その上からキーパーが体をぶつけてくる。相手のキーパーはさすがに勇猛だ。タッチの差でキーパーの足が先にボールを触って外にボールが転がり出る。そこにいるのは五島…ではなく相手のディフェンスだった。大きくクリアされたボール。前半のチャンスはものにできなかった。  ハーフタイム。  五島もフォワードも相当息が上がっていた。防戦一方で、だいぶ体力が削られている。 「大丈夫か五島?」 「ああ、相当疲れた。お前を温存したんだからな。後半は頼むぞ」 「ああ、絶対決める」  フォワードは疲労が著しく後半は二人とも変わった。  後半が始まった。今回は俺が前からプレスを掛けていく。俺は体力を残しておいたから相手が苦労しているのがわかる。穴はセンターの二人のディフェンスのうちの一人だ。背が高くヘディングは強いが足元は弱い。そしてスピードがない。こいつを最後に倒してゴールだ。見てろよ…見てろよ心見。  後半はこちらもボールを回せるようになってきた。フォワードの二人にボールが通り始める。俺はフォワードが落としたボールを五島に落としたり、サイドハーフに散らした。そして、たまにミドルシュートも打つ。 よし、相手は俺がボールを持つと、背後を気にするようになった。これでドリブルがないと思い始めている。  そして、チャンスが来た。フォワードがサイドに流れ、それにディフェンスが付いていく。スペースができたところに五島が後ろから走り出す。サイドから俺に来たボールを受けて、今度は俺が五島に短いパスを送る。相手のディフェンスが五島に集中する。五島はボールを受けてドリブルすると見せかけてダイレクトに俺に向かって壁パスをする。ディフェンスは前半から攻め上がる五島をキツめにマークしていたおかげで俺に付くのが遅れた。そして、俺の目の前にはこの遅いディフェンダー。俺は最初のトラップで一度引いた後に、前に出た。ここからは隠していた得意のドリブルだ。俺は楽々とこの愚鈍なディフェンスを交わして、この勇猛なキーパーと一対一になる。最大のチャンス。  右か、左か。しかし、一瞬の迷いだった。もう一人のディフェンスがものすごい勢いでスライディングしてくる。ボールはその足にあたり溢れていく。そこでさっきの愚鈍が追いつきサイドに蹴り出す。  くそ、あと一歩だったのに。 「まだだ」 「五島が叫ぶ」  見ると、サイドバックの前にはフォワードの村田がうまく詰めている。サイドバックはセンターのディフェンスに不用意なバックパスをした。チャンスだ。俺は滑り込んでそのボールをパスカットし、ルーズボールが溢れた。もう一人のフォワードの山西がそのこぼれ玉を振り抜いた。  しかし、シュートは相手のディフェンスに当たって、幸運にも再び立ち上がった俺の足元に転がりこむ。  あの勇猛なキーパーは俺に向かって突っ込んでくる。 「打て!」 「決めて!」  心見の声が聞こえた気がした。  良かった、見ててくれたんだ。  俺はその瞬間周囲の音が無くなり、全てがスローモーションに見えた。俺はそのボールをダイレクトでシュートする。  と見せかけて、ボールを手繰り寄せキーパーをかわす。  キーパーは既に倒れ込んで動けない。ディフェンスが突っ込んで来るが間に合わない位置だ。俺は無人になったゴールへ冷静に軽く流し込んだ。  ゴールネットがふんわり揺れた。  そこでスローモーションは終わり、耳に音が戻ってきた。  ホイッスルが鳴りひびき、ゴールだと気がつく。俺は右手でガッツポーズをする。そして、心見の声が聞こえた方向を見る。背の高い佳子が見えた。こういう時は目立っていい。その隣にちょこんと心見が俺を見ている。  俺は心見に向かって指を立てる。 心見と目が合った。あいつは、大きく腕で丸を描く。俺は頷いた。  物凄く心見を抱きしめたい衝動に駆られる。 その思った瞬間五島が後ろから抱きついてきた。俺はグランドに倒れる。その上から歓喜を爆発させたチームメイトが一人また一人と倒れ込んでくる。最高の気分だった。  その後俺たちは、必死に一点を守り抜き、試合に勝った。  きっと父さんが心見と勝利を連れてきてくれた。試合後、俺はこの藤原義孝のカードを握り締めて感謝した。  翌日。  俺は嬉しくて、心見のいる教室に行った。朝刊には俺のフェイントの写真がスポーツ欄に載っていた。心見の教室に入ると周りが騒ぐ。俺は構わず心見のところにいく。相変わらず片桐と二人でいる。 「見た? 俺の記事」 「見たわよ」  佳子が勢いよく答える。 「ありがとう佳子さん」 「佳子でいいよ」 「うん、じゃあ佳子。見たか心見?」  佳子じゃないんだ。心見はどうなんだ。見ていたのか俺を。 「う、うん。勿論見たよ。凄いね。でもあのフェイントにはほんとびっくりした。良くあそこで余裕あったよね」 「ああ。なんかな。試合前に神社で願掛けしたんだけど、そのおかげかな。なんか急にあの瞬間他の音が消えたように感じたんだ。凄く冷静になってさ。ゾーンに入ったって言うのかな」  お前の声が聞こえてきたからなんだ、なんて言えない。 「凄かったよ健太くん」 「ありがとう」 「見惚れちゃった私」  佳子はズバズバと物を言う。 「ねぇ、今日部活の後は何してるの健太くん」 「ん? 特には…」 「じゃあさ、一緒にご飯食べない?」 「え?」 「三人で。ね、心見」  三人だよな…。 「え? あ、私は…」 「まぁ、いっか。行こうか」  今日は部活もないし、まぁ三人でなら大丈夫だよな。 「そうこなくっちゃ。お祝いね」 「じゃ、駅に行く途中の山中珈琲店で」 「オッケー。じゃ後で」  長居は無用だ。俺は自分の教室に戻った。教室に戻るとやはり、何人かのクラスメイトたちが話しかけてくる。新聞の効果は絶大のようだ。  今日は五限に体育があった。今日もサッカーだ。俺は試合の疲れもあって、いつものようにテキトーに流していた。  だが、どういうわけかみんな俺がボールを持つと取りにくる。いつもはおとなしい学級委員長まで。正直ウザい。なんだってんだ。いや、もしかして嫉妬か…。なんだか少し怖くなった。  俺はボールを持たないようにした。しかし、味方は俺にボールを集めてしまう。仕方ないことでもあった。いつのまにかゴール前だった。仕方なくシュートを打とうと思った時だった、相手チームになった奴が俺目掛けて走って来る。しかも軸足側に突進してくる。まともにぶつかった。目の前が真っ暗になった。  程なく救急車の音が聞こえて来た気がした。  俺は目を開けた。  病院のベッドの上だった。なんでこんなとこに。痛ててて。左脚が腫れている。まじかよ…。そうだ思いっきりぶつかって来た奴がいたな。 「気がついたみたいだね」 「え」  病院の先生と母さんがいた。 「ぶつかって倒れた時に頭を打ってね。脳震盪を起こしてしまったみたいだ。そして、左脚がモロに同級生と当たったみたいでね。相手の子は普段運動に慣れてなかったみたいで、骨折してしまったようだよ。今別の病室で休んでる。君は有名なサッカー選手だもんね」 「あ、いや…」 「安心していい。一週間も休めばまた良くなるよ。ただの打撲だから」 「そしたら、来週の試合は…」 「それは流石に無理だろう」  俺は落胆した。東京の試合で活躍すればスカウトだっているかもしれないのに…。 「ちくしょう…」  俺は独り言のように呟いた。 「でも、無事でよかったわ」  母さんはそれを聞き流して、いや、聞こえなかったのか、本当にホッとしている。まぁ心配もかけたくないし。大人しくしておこう。母さんは俺が落ち着くと一旦家に帰った。  病室に一人になった途端、涙が流れた。次の東京の試合は本当に楽しみだったのに。  俺は鞄に入っている藤原義孝を見た。相変わらず綺麗な絵だった。いや、もしかしたらこれで済んだのもこの札のお陰かもしれない。  俺は気を取り直して、携帯で五島に電話した。 「おお、健太」 「すまん、五島、俺怪我しちまった」 「え、まじかよ!、大丈夫なのか?」 「ああ、なんとかな。足を打撲しちまった。今週の試合は無理だ」 「まじか…」 「悪い、ほんとに。でも、俺がいなくても次勝ってくれないと困る」 「簡単に言うぜ。お前抜きで神奈川の選抜とやるのはかなり厳しいぞ」 「だよな」 「おまえ、まさか今あの子といるんじゃないだろうな?」 「いねーよ馬鹿」 「安心した」  五島の笑い声が聞こえてくる。本当にいい奴だ。サッカーの献身的なプレーを見てればわかるけどな。 「まぁ、でも次はどうフォーメーション組むかだよな。後で監督には電話するけど」 「多分ワントップで後ろ3枚で底に俺だろうな。山西がセンターフォワードで後は背後に3枚。足の速い木村と村田がサイド。お前の代わりは、国吉だろう。あいつは地元のチームではオフェンシブハーフだしな。うかうかしてるとポジション取られるぞお前も」 「あぁ、わかってる。いつも見られてるような気がするからな」 「ああ。ま、早く治してまた戻ってこいよ。楽しみにしてるから」 「ああ。あの子に宜しくな」 「知るか馬鹿。ありがとな」 「ヘーイ」  五島は電話を切った。  だいぶ心が軽くなった。そして、今日の佳子たちとの約束を思い出した。喫茶店行けなかったな。明日電話するか。  俺は監督に怪我したことを連絡して、その日は疲れて眠りこけた。  翌日も検査が続いた。身体は何ともないが、頭を打ったからということだった。この際だから、いろいろ検査もやっておこうという医者の判断もあった。  いろいろなコードを繋がれて、大きな機械の中にも入った。もういいだろ。たかが打撲なんだから。母はその間先生と話し込んでいる。そういえば、父さんも最後はこの病院だった。  午後になると検査も終わり、結果を待つだけとなった。何事もなければこれで退院だ。そこに電話がかかってきた。  知らない番号だ。 「もしもし」 「健太? 私、心見」  一気に心臓があったかくなる。ああ、やっぱり俺はきっと好きなんだな。 「ごめんな昨日喫茶店いけなくて。どじっちゃった。軽い捻挫で済んだからまたすぐ復活する」 「うん。全然。良かった、心配したよ」 「ありがとう。佳子にも謝っておいてよ」  心見が携帯を渡している音がする。おそらく佳子だな。 「早く治るといいね。また会えるの楽しみにしてるね」  佳子はあっけらかんとして言いたいことをズバズバ言う。それはそれでいい。心見も見習ってほしいぜ。 「ああ。またな」  俺は佳子もいるし、あっさりと電話を切った。これで明日から復帰だ。  先生が母と病室に入ってきた。 「退院おめでとう」 「ほんとですか?良かった」  なぜか母は複雑な顔をしている。 「母さんどうしたの?」 「うん…」 「健太くん」  医者が遮る。 「はい」 「これから定期的に病院に来てもらえるかな」 「え?」 「いや、重大な話しじゃなくてね、念の為だから」 「どういうことですか?」  母さんが困った顔をしている。 「君のお父さんと同じで、少し赤血球と白血球の数が少ないんだ。今すぐどうこうということはないだろうけど、定期的に観察していこうね」 「え、俺、白血病なの?」 嘘だろ。 「いや、だからまだ全然大丈夫なんだ。ただ君のお父さんのこともあるから念の為ってことだから」 「…」  頭が真っ白になった。 「俺、死ぬの?」 「いやいや違うよ。大丈夫。君はまだ若い。これから栄養あるものをたくさん食べて体を作れば大丈夫。ただ、一応数値は見ておきたいんだ」 「わかりました」  今はどうしていいかわからなかった。そういうしかなかっま。でもとりあえず退院できるなら、それでいい。先のことはその時に決めるさ。  でも、気になることが一つあった。明日になる前に、それを確かめておきたかった。  退院して、家に帰った後、俺はこっそりあの神社に向かった。  雨が降っていて、視界が良くない。俺はいつもより慎重に歩いていた。というより足が痛くて走ることができなかった。  神社の前まで来ると人だかりができていた。 「何かあったんですか?」  人だかりの外にいた人に話しかけてみた。 「いや、なんか交通事故があったらしいよ」 「え?」 「女の子とバイクがぶつかったらしい。今はもう病院に運ばれたらしいけどね」 「そうですか…」  いつもなら俺には関係ないと思うはずだが、妙な胸騒ぎがした。俺は鞄の中の札を見る。義孝の緑の服がキラリと光って見えた。  まさかな、やめてくれよそんなこと。  俺は急いで神社の石段を登った。鳥居をくぐると空気が変わる。本当に不思議な神社だ。俺は社殿の近くまで進む。  しかし、辺りは静まり返っている。  誰もいないのかな…俺は神主さんを呼んでみた。 「神主さーん、いませんかー?」  返事がない。 「神主さーん」  少し大きな声を出す。 「神主さーん!」  三回目少し切実な声を出したとき、中から神主さんよりは若目の男性が出てきた。息子さんだろうか。 「どうかされましたか?」 「あ、あの、神主さんは?」 「あ、さっき神社の入口で交通事故があって、それで出て行ったっきりなんですよ」 「そうですか…あの!」  社殿の中に再び入ろうとした若い神主さんを呼び止めた。 「その事故って…どんな…いや、あの、重体とか? 女の子とか…」 「いやぁそこまでは、ただ神主は、救急車も来ていたようですので、その事故の当事者と一緒に病院に行ったかもしれません」 「え、病院ってどこかわかります?」 「うーん、どうだろう、この辺だと済生会病院かなぁ」  俺が入院してたところじゃないか。 「わかりました、ありがとうございます!」  俺は痛い足をひきずりつつ病院まで逆戻りした。  打撲とは言え、痛いものは痛い。しかし、なんだか嫌な予感がする。社殿から降りてくると、入口の野次馬を掻き分け駅に向かった。  しばらくして駅に着くとそこからバスを待つ。二十分ほどしてようやくバスがやってきた。それに乗って病院に向かった。  病院に着いた俺は受付に向かった。前でおばあさんが手続きに手間取っている。たまらず、背後にいた若い人に向かって俺は叫んでいた。 「あの、すいません、さっき、ここに救急車で女の子、えっと、交通事故で、入間心見さんって来たりしてますか?」 「え?」 「入間心見さんです!」 「えっと、ご家族の方?」 「あ、いえ、友達です」 「お名前は?」 「え、お、大岡健太です」 「大岡さん、ちょっと確認します」  受付の人は背後の偉そうな人に何事か確認をしている。  友達だと駄目ってことなのか?   この時間がもどかしい…というか、本当に運ばれてきたのか…無事だといいけど…顔から冷汗が出る。 「ちょっと個人情報になるので、お伝えできかねます」 「え!なんで」  俺は怒りが湧いてきた。今の時代そういうのにうるさいのはわかるけど、一刻を争うんだぞ! 「そこを何とか…というか健太です。大岡健太です。そう言ってくれればわかりますから!」 「健太くんかい?」  背後から声を掛けられた。振り向くと神主さんが立っていた。 「ああ、神主さん」 「どうしたんだい?」 「あ、いや、さっき神社行ったら、いらっしゃらなくて、それで、あの、それで下で事故があったって聞いて、もしかしたらって悪い予感がして…」 「そうか、落ち着いて落ち着いて。大丈夫だから」 「あの、事故って、あの、心見なんですか?」 「うん。そうだよ」 「ええ!それって」 「落ち着きなさい。大丈夫だから。深呼吸して。病院だから大きな声を出さないように」  神主さんに両肩を押さえられ、深呼吸をして、漸く落ち着いてきた。 「ちょっと座ろう」  神主さんは空いてるベンチに僕を促した。  とりあえず俺たちはそこに座った。 「さっきね、神社の前で心見ちゃんがバイクとぶつかりそうになって、でも結局バイクとはぶつかってなくてね。でも脳震盪を起こしていたから、相手のバイクに乗っていた彼が救急車を呼んで、それで運ばれたんだけど」 「はい」  俺は拳を強く握っていた。 「さっき、目覚めて、大事に至っていないことがわかったんだよ。だから大丈夫。今お母さんと一緒にいるから」  俺は力が抜けた。 「そうか、良かった、ほんとよかった」 「君みたいな若者が心配してくれるなんて、心見ちゃんも良かったね。ほんとに」  神主さんはしみじみと語る。 「あの、行ってもいいのかな病室。さっき家族じゃないからって断られて」 「そうか、じゃ私が一緒に話そう」 「はい、ありがとうございます」 「あ、あの、その前に」  俺は疑問に思っていたことを聞いた。 「この前もらったお札なんですけど…」 「うん」 「この人、藤原義孝って、ええっと、病気で早死にしてしまったって調べました。それで、サッカーの試合はこの札のおかげで勝った気がしたんですけど」 「うん」 「でも、実は僕、さっきまでこの病院に入院してて」 「おや、そうなのかい。もしかして」 「いや、違うんです。友達とぶつかって、足を怪我しただけなんですけど、その後先生がいろいろ調べたら、父さんと同じように赤血球と白血球の数が少ないって言われて」  神主さんは少し険しい顔になった。 「それで、もしかして、願いを叶えてくれるけど、その代わりに命が取られちゃうのかなって。そんなことあるわけないけど、でも怖くなって確かめたくなったんです」 「そうか、なるほどねぇ」 「え、本当にそうなんですか?」  神主さんは神妙な顔付きになった。 「この絵札はね、実は大岡清月という人が描いたと言われていてね。描いたのは君のご先祖様かもしれない」 「え」 「実際のところはわからないけどね」  健太が絵札の裏を見ると清月ではなく、清志と書いてあった。 「そうですか…でも、俺」 「うん」 「父さんの形見だけど、神主さんに返してもいいですか?」 「うん、そういうことなら」 「それで、釈迦に説法かもしれないけど…」 「ん?」 「奉納してほしいというか、この絵札を供養してほしいんです」 「そうか。なんだか悪かったねぇ怖い思いをさせて。あれ、おかしいな、これは清月ではなく清志と描いてあるね」 「そうですね。でも、前の試合はこれに助けてもらった気もするし。怪我だって幸い軽かったし。効果はあったと思う。ありがとうございます」 「いやいや、いいんだよ全然気にしないで欲しい。ちゃんとやっておくから安心しなさい」 「はい。ありがとうございます」  俺は神主さんにお札を返した。なんだか心の荷が降りた気がした。 「健太くん…」 振り向くと、パジャマ姿の心見がエレベーターから出てきたところだった。 「心見!」  俺は走って、いや、走れなかったのだけれど、心見に駆け寄った。 「大丈夫なのかよ!」 「え、っていうか健太くんこそ」 「俺は、足が痛いだけでただの打撲だから」 「そっか。良かった…」  俺は場所をわきまえず心見を抱きしめた。 「ちょっと…」 「ごめん! でも俺心配で」  俺はすぐに身体を離したが、恥ずかしくて心見の顔が見れない。 「大丈夫だよ。私は」  心見は俺の肩に手を置くと、笑って許してくれた。 「俺、心見のことが好きだ」  言ってしまって顔が熱くなる。言うなら今しかないと思った。でも、心見は黙っている。 「バカ」 「え…」 「ありがとう。私も」  良かった…ようやく思いを打ち明けられた。もう守る役割がなくても、一緒にいられる。そんな気がした。  心見はいつのまにか俺よりもずっと大人のような表情をしていた。  振り返ると、またいつの間にか神主さんはいなくなっていた。  俺は長生きしないとならない。でも、もう札には頼らない。  父さん、義孝、俺は絶対負けないよ。心見の顔を見ながら俺は改めて強く誓った。 *** 君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな (現代語訳) あなたのために惜しくなかった私の命でさえ、こうしてあなたと逢瀬を遂げた今となっては、いつまでも長く生きていたいと思うようになったよ。 *** 「神主さん、神主…山岡さん」 「ああ、これはこれは愛子さん。お久しぶり」「先日は娘がお世話になりました」 「いやいや、当然のことをしたまでだよ」 「あの…私、これ返します」  愛子は擦り切れた一枚の札を鞄の中に入れたカードケースから出した。 「おや、随分と昔のものだね」 「ええ。これにとても助けられたのですけど」「うん」 「なんだか娘と健太くんを見ていて、いつまでも頼っちゃいけないというか、娘はもう自分の力で立っていました。私と違って強い子でした」  愛子は笑う。 「そうか…心見ちゃんがね。確かに、彼女も札を返しに来たよ。それと、健太くんもね」 「そうですか…」 愛子は苦しそうに笑う。 「やはり子供には通じないのかもしれない。元々は道月が描いたものだからね。全て大人の思いが篭っているのだろうね」 「はい。そうかもしれません」 「では、しっかり預かりました。またいつでもいらしてくださいね」 「はい。もちろんです」  愛子は思い切ったように顔を上げ、社殿から鳥居を潜って石段を降りていく。眩しい夕陽がその愛子に当たって、山岡は目を細めた。そして、その姿が消えるまで眺めていた。  いつかまた誰かが、願いが叶うという噂を頼ってやってくるのだろうか。  山岡家を継ぐものとして、その時は話を聞くとしよう。この家が残る限り、その守護者として道月と清月の絵を守っていくのだから。  山岡が社殿に戻ろうとすると、その足元の石畳で、綺麗な青い雨蛙が二匹飛び跳ねて草むらに消えていった。
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