エピローグ まだ君を愛してる

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 「すいません。失礼ですが、あなたがどなただったか失念してしまいました。よろしければお名前を教えていただけませんか」  そう言われても、怒った様子はない。それどころかなぜか申し訳なさそうにうつむきがちになった。  「私は西浦萌。あなたの妻です」  認知症の人だったか。  きっと出会った男性みんなに、私はあなたの妻ですと言って回ってるのだろう。  いつかそういう人を実際に見たことがあった。  「僕はあなたの夫ではありません。もしご家族とはぐれてしまったなら、一緒に探してあげますよ」  親切からそう言っただけなのに、彼女は僕に抱きついてきた。  その人の目元からはぽろぽろと涙がこぼれ、何度もしゃくり上げてとても言葉を口にするのは無理なように思われたが、彼女は何かを僕に伝えようと懸命に口を開いた。  「あなたのことは結婚するとき創君から聞いてます」  僕と創は同一人物だ。やっぱりボケてるんだなと思ったが――  「あなたは戸川ねねの悲惨な過去を変えるために60年前の過去に戻り、過去を変えた上でまた元の時代に戻ってきたんですよね」  10歳の僕にしか話していない秘密をなぜこの女が知ってるんだ?  僕は言葉を失って僕の胸にすがる彼女を呆然を見下ろした。  「あなたは戸川ねねの過去を確かに変えました。ねねはホームレスに身を落とすことなく、普通に結婚して子どもたちを育て、今はこの病院で最期のときを迎えようとしています。でもねねが結婚相手に選んだのは創君じゃなかった」  胸が苦しくなってきて、立ってるだけでもつらかった。  そんなわけはない!  10歳のねねちゃんがはにかみながら10歳の僕とキスする姿だって見た。  あの二人が別れた? そんなのは嘘だ!  「僕がねねちゃんと結婚できなかったとするなら、僕はいったい誰と結婚したというんだ?」  「私です。旧姓倉星萌です」  「!!!!!」  70年生きてきて楽しいことも嫌なこともいろいろあった。  でも今僕が受けた衝撃に比べれば、どれもこれもかわいいものだ。  「君が倉星萌だとするなら、君は僕を恨んでるんじゃないのか?」  「それも結婚するとき創君から聞きました。私の兄が行方不明になったことも、父が刑務所に入れられたことも、全部未来からやって来たあなたのシナリオどおりになっただけだって」  「…………………………………………」  「兄は結局帰ってきませんでした。父は刑務所でほかの受刑者の暴行を受けて死にました。そうなることも知ってたそうですね。私の人生は真っ暗になりました。施設で年上の人たちにいじめられて、せっかく入った高校も退学しました。18歳のとき施設を飛び出して、寝床と食べ物目当てに知らない男たちの家を転々とするようになりました。生きるためならどんなことでもやりました。20歳になっても私の生活は相変わらずで、しばらく暮らしてた男の家から放り出されては、次の寝床を求めて夜の街をさまよってました。創君とねねと街でバッタリ再会したのはそんなときでした。二人は仲良く手をつないでデート中。もしかして倉星萌さん? ってねねに話しかけられたとき、正直死んでしまいたいと思った。そのとき私は昔のねね以上に着てる服がボロボロだったし、仕事どころか住む場所さえない、ただのホームレスだったから。ねねは私に同情して、お金あげようかと言った。私は悔しまぎれに、〈本当に私のためを思うなら西浦君を私に与えなさいよ。そうしたら私は絶対に立ち直って二度と道を踏み外さないって誓うから〉って叫んだ。ねねはいいよって即答した。創君は驚いてたけど、それから1ヶ月後には私は創君の家で暮らし始めることになった」  倉星萌に同情して何かの取引みたいに僕を差し出した?  確かにねねちゃんは優しすぎた。だから、これから彼らが不幸のどん底まで落ちるようなことになっても、心を鬼にして手を差し伸べないという覚悟を持てと何度も念押ししたのだ。  「私たちが22歳のとき入籍した。それから50年近く私たちは一緒に生きてきた。おれがいなければおまえはどっかでのたれ死んでたんだぜってときどき恩着せがましく言ってくるところはちょっと嫌だったけど、それ以外は創君は本当に立派な夫だったって今でも思ってる。本当なら生きてるはずなのに私の栄養管理がまずかったせいか、創君は2年前、病気で死んでしまった。過去を旅して帰ってきたあなたが好きなのはねねで、私を毛嫌いしてるのは知ってる。それでも私は今あなたに会えてとてもうれしい。創君と再会してなかったら確かに私はどこかでのたれ死んでいた。創君と結婚できて本当によかった――」
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